20人が本棚に入れています
本棚に追加
水無瀬夜の占い
複数のネズミが食料を求めてゴミ置き場を走り回る。彼らを俊敏な動きで捉える猫の表情は、普段人間に見せているそれとはかけ離れていた。
多摩川の奥。数多のビルを構えた日本の心臓である都心三区の一角、港区はもちろん今日も眠っていない。
「山に向かっても、動物くらいしかないか。澄んだ空気の中、そう判断して航は都心を目指した。雑踏が増えだし、陽気に踊る人間が現れる。商店街、クラブ街、スラム街。「お兄さん、一杯どう? 」雰囲気に圧倒されながら、六本木にやってきた。
圧倒的大都会。光があちこちから溢れ、それが乱反射してシナジーを生み出す。綺麗かぐちゃぐちゃか、これをどう捉えるかはその人次第だ。
辿り着いた摩天楼を、迷路の本で間違いと分かっていても、この先が行き止まりだと察していても全てのルートを辿る子供ように、航はくまなく散策した。
(このネオン眩しすぎるだろ)彼にとって六本木は何度も訪れたことのある場所だった。なので景色に心を奪われることなどは一切無かった。
「辛い思いをしている人間が最も恨むのは、輝かしかった過去の自分」注目若手作家である川瀬陽の新著『ねじがぽろっと』の一文。今の彼に最も当てはまる言葉。
「この先どうなっちまうんだ、俺」
体温で温まった手をポケットから出す。航は入り組んだ路地を迷わずただ進んだ。黒い霧が彼の視界を覆ったが、勢いは止まらない。東京タワーを背に裏路地に入ったところで、意気揚々と進んでいた足は止まった。「なんだかこの辺りだけやけに暗いな......」闇に包まれた閑静な土地。今は使用されていない佇まいの雀荘やバー。廃れた酒屋やクラブにはシャッターが下ろされている。
暗い道を進むこと五分、航は一つのビルを見つけた。その下には看板が淡い光を放っている。
水無瀬相談事務所 5F ~お悩みの方是非~
怪しい雰囲気を醸し出す看板の文字。普段の航なら、反抗期の親の挨拶のように無視する場所であるが、今の航は普段の航ではない。
こんな場所を探していた、と口にする代わりにニヤッとした表情になった。
深夜一時十分。よい子はとっくに布団にいなければいけない時間だ。
五階はシックかつ、シンプルな内装だった。天井には優しい光を放つLEDが設置していた。
「本日一時より、ご予約の大鳥様ですね。私、執事の布川深と申します。よろしくお願いいたします」入口のドアを開けた航の目の前に、執事服を着た男がやってきた。
深は高身長だが肩幅が狭く、細マッチョのような体つきをしていた。漂うオーラや言葉使いから、航は深に四角四面な第一印象を持った。
深が繰り広げる完璧な角度のお辞儀は、鍛錬されたものだった。上体を戻した深は、白手袋をした手で「どうぞこちらへ」のポーズをした。
「予約はしてないです」航は即座に否定した。
「ん?」口をへの字に曲げた深は「少々お待ち下さい」と言い残して、扉の奥へと行ってしまった。
航がボーっとしていたのも、つかの間。数秒後、暗い人間として生きることを誰かに任命されたかのような表情で、扉からスーツ姿の男が顔を出した。
「お客様、なんの御用で」
「下の看板を見て、釣られてここまで来ました」
スーツ男は一瞬考えた後、低く透き通った声で「ご案内します」と言った。航はスーツ男の後をついて、最奥の扉の向こう側に足を踏み入れた。
そこは薄暗くて、狭い部屋だった。左右にはパンパンに詰まった本棚がそびえたっていて、人が両手を広げられる程度のスペースしかなかった。部屋中央にパイプ椅子が二つ向かい合うように黒テーブルを挟んで、置いてあった。
スーツ男の促しによって、航はパイプ椅子に腰を下ろした。スーツ男は何やらノートを広げていた。
「ここで相談してくれるんですか」航が身を乗り出して訊いた。
質問に対して男は手を前にかざして航を制した。
「失礼します」男の背後にある扉から、お盆を手にした執事の深が顔を見せた。深は二人の間にそのお盆を置いた。「コーヒーは飲めますか」
あまりに落ち着いた声で話すので航は驚きながらも、はい、と返事した。深は再び完璧な一礼をして退出した。
月夜に照らされているような部屋に二つの湯気が立ちのぼる。航はそれを見て、家の近くにあった銭湯を思い出す。
「お客さんと同じものを飲み、同じ椅子に座る。なるべく同等の目線から相談に入るのが私の理想なんです」
コーヒーを飲みながら男が話し出した。
「では、初めて行きましょうか」
「あの、質問いいですか」航は男が言葉を続ける前に、自分の中で引っかかっていることを訊いた。
「構いませんが」男がコーヒーを置いた。コンという音が一瞬、部屋を支配する。
「今日予約されてた人は大丈夫なんですか」
「本日分はキャンセルの電話が入ったので問題ありません」
「あと、突然見かけて入ったので全く状況が掴めてないんですが、ここは悩み相談事務所であっているんですよね」
「まさしくそうでございます」
男は黒髪を細長い指で右に流しながら答えた。前髪の裏に潜んでいる大きな両目は、気怠さを吹き飛ばすようなオーラがある。
「自己紹介が遅れました。私(わたくし)、水無瀬夜と申します。昼間は売れない作家として活動をしていて、夜はこうして悩み相談事務所を営んでおります」
宜しくお願い致します、と夜が一礼した。その際、高級な香水だろうか、できる大人の人間が醸し出すいい匂いがした。
「作家って、どんな小説を書くんですか? 僕、結構読書が好きなので興味あります」
「恥ずかしながら、まだ駆け出しの素人作家です。人に自慢できる文才力は無いですし、達筆を開始して二年弱しか経っていませんし」
「でもその小説を読んだ人は、あなたが相談家をしてるって、知らないんでしょう? 」
「ええ。あまり公にはしてないですからね。依頼者はほとんどが顔見知りで、立地も陰湿な場所ですから」航の脳裏に薄暗い路地が蘇る。
「だけど、一度も相談家のことを副業だなんて思ったことはないです。両方本業のつもりで、日々二足の草鞋を履いています」
夜は机の上に置いてあるノートに目を移して、ボールペンをノックした。
「本題に入りましょう。あなたが今日ここを訪れた理由。あなたが解決したい悩みをお聞かせ願います」夜の目が真剣になる。
夜の暗い表情を見て、航は一縷の望みでかけてみることにした。全身に鳥肌が「こんにちは」するのを感じながら、訥々と話し始めた。
「結論から言うと、上手く生きられるようになりたいです。僕の頭には、どんなことよりも先に『マイナス』が襲ってきます。人間と話すと、勝手に粗を探してしまう。話す人間の九対一でプラス要素マイナス要素があった場合、マイナス要素だけが先に脳に残って離れない。その人間にマイナスなイメージの烙印を、自動的に押すように僕の脳はプログラムされている。SNSなんかは、即座にアンインストール。でも、それだと友達の会話に後れを取るから、インストール。これの繰り返し。貧乏だからマイナス思考なんでしょうか? 母子家庭で裕福じゃないし。最悪ですよ。達成感のある夢や目標があればいいんですけど。一切見つからなくて。俺、どうしたらいいんですか」
頭を抱えたり身振り手振りを加えたりして、数十分で航は話しきった。プライドのバーが止めに入り何回も煩悶を味わったが、それに負けないようにただ口を動かした。
夜がノートとの睨めっこを終えて、顔を上げる。
「今の話とその指、関係ありますよね」航のしおれた親指をボールペンで差した。
「ああ、これ。よく気付きましたね」航は親指に爪を立てると自我が保てることを説明した。
「私から質問します。あなた、幼少期の頃イジメにあっていたでしょう? 」
ストレートな問いに、航はコーヒーを吹き出しそうになった。
「はい。親の離婚が原因で引っ越しをして。転校先の小学校で。運の悪いことに僕の人生はイジメと隣り合わせですね」
「離婚について詳細を教えて頂けますか」
営んでいた会社の倒産を境に、父親が母親にDVをするようになった。そして瞬く間に離婚。航は大雑把に説明した。
「全て分かりました。あなたが抱えている問題はこの二つですね」夜はそう言うと、おもむろにノートを見せた。
・どんなことよりも先に、『マイナス』が頭を襲う
・生い立ちを理不尽に感じる
ゴシック体のような配分が整った文字。ワードで入力したかのようなメモは、航が見とれる程綺麗だった。
「順番に解決しましょう」夜は長い首を更に伸ばした。色白の肌が顔を出す。
「マイナスが襲う理由は、航さんの視点です」
「し て ん ? 」眼で疑問を訴える。
「今のあなたの視点は、暗い場所にしか向いていない。負の色ばかり察知する薄汚れた視点です」
「ちょっと待って下さい」言下に否定した。航はそんなこと既に理解していた。
「何度も明るい場所を見るように試しました。それでも、何度やっても負の方向にしか、目が向かないんです。それが辞められないから、ここにきてるんです」
航は夜の目をまっすぐ見た。新しい玩具をねだる子供のような眼で、空気中に行きかう粒子など、一切気にせずに。
「止める必要はない」夜はきっぱり言い切った。
「と申しますか、あなたがそれを辞めることは不可能です」
航は再び吹きそうになった。歪んだ口は不格好極まりない。
「ただ、落ち着いて下さい。ここはいわば心の病院です。あなたが人生を歩みやすくできる手段はいくらでもあります。この問題の対策法は、対を生み出すこと、です」
頭に生まれるはてなマーク。航は夜の話が理解できない。
「航さんの中にあるマイナス、言わば陰極。『マイナス』が頭を襲う。それでいい。そしてここに、『プラス』を生み出す。あなた自ら、陽極を作ってください。そして、その二つに喧嘩をさせるんです」
「はぁ」スーツの男を前にした彼は、どうもピンときていない。
「以前あなたがマイナスに捉えた、制服で例えましょう。制服の陰極を言って下さい」
不満を募らせたばかりの制服を、夜は当然のように言い当てた。航の鼓動は少しばかり加速する。
最初のコメントを投稿しよう!