夜に誘われて

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夜に誘われて

「ださい、息苦しい、束縛感がある。これでいいですか? 」 「はい。ありがとうございます。では、ここに陽極を立ち上がらせると、さぁどうなるでしょう」  夜が咄嗟に手を向けて、どうぞ、のポーズをした。航は顎に手を当てて、その手を見た。 「間反対ですから、カッコいい、楽、学生の特権。みたいな感じですか?」 「完璧です。さらに陽極側に何か加えられないですか? 」  不思議な感覚に陥りながら、航は案を考える。 「まぁ、私服を選ばなくていい、というメリットはありますけど」 「いいですね。こんな感じで、陽極の存在を大きくしていって下さい」 「なるほど。それで、この後はどうするんでしたっけ」残ったコーヒーが冷めることなど、もはや航の頭になかった。 「これらの、対になっている同士を戦わせて下さい。引き分けは無しです。優柔不断になる必要はありません。カレーかシチューか決める感覚でいいです」 ださい、カッコいい 息苦しい、楽 束縛感、学生の特権 私服を選ばなくていい 「うちの学校の制服を特別ダサいと思ったことはないので、カッコいい。どっちかと言うと楽。縛られる感覚は常にある。こんな感じです。思ったよりトントンか」 「ではそれに、『私服を選ばなくていい』をプラスしましょう」  言葉巧みに操られている。若干の煩わしい感情を持ちながらも、航は夜の言うとおりにした。 「結果で言うと、制服は陽極側になりますね」 「はい、おめでとー」夜から出る拍手のぱちぱち音が、本棚に吸収されていく。 「待って下さい。これじゃ洗脳だ。今のなら、ほとんどが陽極側になる。これじゃなんかすっきりしない」 真っ当な返しをした航に、スーツの男は不敵な笑みを浮かべる。「では、題材を変えて。あなたの父親としましょう」 「僕の父親。怖い、メンタル弱い、人に手を挙げる最低人間」スラスラと舌を伝って言葉が生まれる。 「陽極、出せますか?」  航は険しい唸り声を出したあと、声を振り絞った。「優しい......鬼メンタル......優しい人......・」 「一応、対決してみましょうか」結果のわかりきった問いを夜はあえてした。 「陰極の圧勝です。陽極が負けましたよ。これじゃ何の意味もない」 「落ち着きましょう......・。はい。では、この問題は解決する必要がありません。捨てましょう。あなたに父親は最初からいなかった」 「捨てるっていうのは? 」航の脳内は謎で溢れかえった。  航のバタつき具合に目をそらして、夜はコップに手を付けた。微妙な温度のコーヒーは、底に残った粉がへばりついていて、濃い色をしている。 「父親、友達、先生、航さんをいじめてきた人間。これらが陽極になれなかったとします。では、全て放り投げましょう。陽極に思えなかった、友達や先生は、将来絶対に関係ない。むしろ、合わない方がいい。父親やいじめてきた人間は、これから一度も思いだすな。口にもするな」 航の理解度が半々なのを見越して、夜は続ける。 「ただし、捨てれない場合もある。もし母親や、妹や、何十年も付き合うことになる会社の同僚がそうだとするのなら......」  航の喉の突起が、ゴクリと音を鳴らした。 「これらとは向き合いましょう。生きていく過程で必要な存在、と脳にインプットしてください。反対側を創造する。それから、陽極になるもの、陰極で捨てるもの、陰極で向き合うもの。三つで、自分の地盤を固めて下さい。この作業を、我々人間は無意識に行っている。足元が緩んでいるあなたは、しっかり土台を補強していきましょう」  航は知らぬ間に頷きを繰り返していた。  夜道を救急車が走る音。酔っ払いの喧騒。自己主張の激しい暴走族。雑音がこの部屋には一切届かない。 部屋の周囲で爆発が起きたとしても、この部屋だけは何一つ変わりなく存在し続けることができる。航はそんな気がしてならなかった。 「あと、メモすることも凄く重要です。陰極側だけど捨てられない物を。媒体はノート、スマホ、なんでも」  前髪から右目だけを出した夜がアドバイスをする。しかし、航はそれに納得できない表情になる。 「メモすることによって、何か変わるんですか」 「ええ。試しに、あなたの未来を占ってみましょうか」  夜はなにやら、大きな水晶玉のような物を机の下から取り出した。それを逆さにすると水晶玉の中に雪が降った。それはバレーボールくらいの大きさの、巨大スノードームだった。 「これをしっかりと見ていて下さい」航は言われた通りスノードームを凝視した。 「これから喋るのは、航さんがメモを取る選択をした世界線のお話です。航さんは学生時代に築いた友人関係を基に、務めていた出版社を退職して新たな事業を始めます。その事業とは、老人介護の手助けになるマシーンを開発する会社の設立です。業務内容は、自らの手で営業に出向いて販売する形式。最初は売り上げが伸びずに赤字の連続。借金は膨れ上がるばかりで、給料は下がる一方です。しかし、突然転機が訪れます。介護に成功したおばあさんの孫が、日本で有名なブロガーだったのです。そこから一気にマシーンの知名度が上がり、SNSでは画期的なマシーンだとか、営業の方のコミュニケーション能力が素晴らしいなどと沢山の反響を呼びます。売り上げと給料はうなぎ登り。数年後には、老人ホームで働く同学年の女性との結婚に成功します。子供は二人生まれて、暖かい家庭が誕生。そして会社の後輩からは、いつしかこう言われます。航先輩は人生の成功者だと」  スーツの男は一息ついてから、パチンと指を鳴らした。スノードームは雪吹雪を辞めて何も降らなくなり、大人しくなった。  咄嗟に自分の瞼が開いたことに、航は動揺を隠せなかった。話は覚えているのに、自然と目を閉じていた。 「ごめんなさい。なんか、寝不足みたいで」 「大丈夫ですか? では、次にメモを取らない世界線のお話をしますね」  航は、はいと返事をして頬っぺたを叩く。 「あなたは高校、大学共に人間関係に苦しむことになります。人との交流の少なさから、仲良くなった人間にも見放され、鬱病にかかるでしょう。そしてある日、あなたの顔にとある文字が現れます。『私は人と関わるのが嫌いな人間です』と。そんなあなたを雇ってくれる企業がどこにあるでしょう。先生や先輩に、就職に関してのアドバイスを聞けない人間が、円滑に内定にたどり着けると思いますか? 答えはnoです。あなたはこの令和という時代に取り残されます。一生母親と妹の脛をかじる人生はいかがですか?」  誰もが一度は考えたことのある最悪の人生。ずるずる時間だけが経ち「あの頃に戻りたい」と思い続ける人生。 「もう結論は出ましたね」 ・どんなことよりも先に、『マイナス』が頭を襲う。この一行に夜が二重線を引いた。  純粋に毎日を楽しめていた中学生時代は、もう戻ってこない。なら変なところで世の中に抗うのはやめよう。覚悟を決めて生きて行こう。航にそんな想いがどんどん積もっていく。 「では最後です。心の準備は大丈夫ですか?」 「はい。お願いします」  コンコン。「夜さん。お時間です」ノックの後、夜の背後にある扉の向こうから、深のハキハキとした声が飛んできた。 「少し待ってくださいね」  深からペットボトルを受け取った夜は、なにやら錠剤を飲み込んだ。 「相談って実はかなり体力を要するんです。だか、その疲れを和らげるために薬を処方する必要があるんですよ」  航の不安そうな表情を察して、夜が説明を加えた。ペットボトルの結露した水滴が、テーブルに移っていく。  小さく頷く航を見て、夜は声量を少し上げた。 「航さんは、自分の生い立ちを理不尽に感じている。これは私にも非常に共感できる箇所があります。私だって両親との死別や学生時代の辛い事件が、今まで足を引っ張っていたりしますよ。航さんだと、両親の離婚やその後のイジメは今も心に傷を負っているでしょう。でもね。五体満足で、日本という国に、戦争のない時代に私達は生まれている。これはチャンスですよ。誰か愛する人を見つけて、慈しんで生きましょう。将来、航さんが壁と屋根のある場所で過ごせて、飯がしっかり食べれて、愛し合える人がいることを、願ってます。本日はどうもありがとうございました。是非、今度は予約を入れていらして下さいね」 夜が事細かに身振り手振りを加えながら話す言葉は、やけに説得力があり、航の常識を簡単に凌駕した。航の中に情緒が溢れる。  ずっと航は、ポツンと一人で暗闇の世界に佇んでいた。四方を見回しても、上を向いても下を向いても、瞼を閉じてもその景色が変化することは無い。生き地獄。航がそう名付けたこの場所は、拡大を始めた。呼吸すらままならなくなるんではないかという、ドロドロとした不安に日々追われていた。そこに一筋の光が現れた。それは万に一つもない確率、僥倖という言葉が最もふさわしい事象だった。それを眼中にした航は、乱れた風貌など気にせず、閃光の如く掴んだ。航は夜との出会いによって、別世界へと誘われた。
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