場違いな衣装 第四話(完結)

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場違いな衣装 第四話(完結)

 脈拍を測ったわけではないが、標的はすでに瀕死の状態にあるはずだ。今まさに天界へと導かれるところだろう。もっとも、彼女が日曜ごとに教会に通うような品のある淑女であれば、だが。この冷酷な私が、とても複雑な気持ちになっていた。彼女の状態がよく確認できる位置まで、両足は、ゆっくりと近づいていった。殺害者という人種は、およそ不可能にさえ思える、どんな偶然的な事態の勃発でも恐れるものだ。ただ、この暗闇の中でも、自分が完全に狙い撃った相手の神経が行き場を失ったような、きわめて不自然な倒れ方をしたことにより、両方の弾丸ともに、確実に急所付近に的中したことはわかっていた。それでも、念のために膝をついて、その命の尽きるまでの様子を確認することにした。絶対に死んでほしいわけではない。だが、彼女は死ななければならないのだ。すでに会話を試みるのは難しいようだった。その顔色は真っ白で血の気はなく、その目は希望のすべてを諦めたように、しっかりと閉じられていた。もっとも困難な場面においての助命に関する専門知識など、この事件にはまったく必要はなかった。誰が見てもすでに虫の息だ。あと数分しかもたない命である。私がこの血生臭い現場を立ち去った直後、この迷路のような路地のどこからか、この娘を何とか救護しようとする者が現れたとしたらどうなるか? 事前にスタッフから聴いたところでは、ここからそれほど遠くない位置に、規模の大きめの緊急病院があるらしい。仮に夜間でも重傷者を診察できるほど医療体制が整っていると仮定しても、今から搬送したのでは、助かるわけがない。人間の生と死のラインは、ほんの10%ほどの出血にも耐えられぬほどに繊細なのだ。  アスファルトの上には、いくつかの大きな血だまりが出来ていた。どうやら、肺の動脈を見事に貫いたらしい。軽口の銃を使用したのに、これほど多くの血液が噴き出すとは思わなかった。とにかく、足を止めてしまうことが出来れば、その後でゆっくりと近づいていって、確実に脳天を撃ち抜いてやるつもりだったのに。目の前に倒れているこの女性は、おそらく、この国で最も人気のある女優でもある。その彼女のまさに息を引き取る間際の、惨めな姿を見ているうちに、理由はよくわからないが、思わず笑みがこぼれてきた。こんな自分にも、使える武器をひとつ持たせてもらえれば、社会を大きく揺さぶる力があるということなのか。そういえば、あのジョン・レノンも、最高の安全地帯である自宅のすぐ近くで、一般のファンを装った、頭のイカれた男に、近距離から、同じような箇所を複数撃ち抜かれたと聞く。後世に名を残すような、偉大なミュージシャンの危機に際しても、神は奇跡の視線を向けようとも、その命を救おうとさえもしなかった。新聞の情報によれば、助かる可能性はまったくなかったらしい。集中治療室に運び込まれたときには、ほぼ心肺停止状態であったという。『病院に搬送されるまでは、確かに生きていた』との証言も、未だにあるらしいが、今となっては、救えぬ命だったのか、それとも医療ミスなのか、本当のところは誰にも分からない。 『救急車が来るのが……、搬送するのが、あと少しでも早かったなら! 助かって欲しかったです……』  現場の近くに住む目撃者は、事件後すぐに集まってきた、大勢の報道陣からの執拗な取材に対して、ハンカチで目を覆い、その顔を歪めながら、そのように答えたとか。  またしても、集中を切らすところだった。最後の爪を甘くしてはいけない。見落としている遺留品でもないかと、彼女の身体の周囲を隅々まで観察していくと、右手に黒い小型の物体が握られていることが確認できた。私は革靴の先で、思いっきり蹴っ飛ばしてやった。それは反対側の壁まで飛んでいくと、そのまま、煉瓦の壁に激しくぶつかった後、部品の一つひとつに至るまで粉々になった。やはり、懸命に追われる恐怖心の中でも、携帯電話を使用して、何とか助けを呼ぼうとはしていたのだ。この頭の軽い女なりに助かる可能性を模索していたらしい。もう、あまり長い時間ここに滞在することは難しい。会場で待機しているスタッフたちが、そろそろ気を揉んで、彼女の携帯電話に連絡してくる可能性が高くなるからだ。すぐに繋がらなかったら、警察に通報するか、専属の警備員がすぐさまここに駆けつけてくるに決まっている。  私は自分の撃ち抜いた標的の身体のすぐ横に、念のために、ほぼ三分ほど佇んでいた。これで終わりにしてもいいものかと、何度も自問していた。彼女の右手の、ほんのわずかな痙攣が完全に収まったのを確認してから、遺体の上に、バラの花束を重ねた。この仕事が自分に割り当てられることが決まったときから、仕事の終わりは、このように飾ろうと思っていた。 「せっかく、久しぶりに出会えたのだから、これを差し上げるわ。あのとき、負かされた私から、勝利した貴女によ」  出来るなら、標的が生きているときにかけたかった台詞だが、そのことに意味はない。彼女は自身の半生の中で、こんな私のことなど、一刻たりとも、一秒たりとも、気にかけたことはないのだから。もちろん、ここに倒れている女性は何も悪くない。何も悪いことをしていないのだ。少しの記憶の霞に反応して、片手で右目に浮いた雫を拭った。私の出番はこれで全て終わった。こんな陰気な場所にもう用はない。今夜は街を上げての一大イベントのため、表通りはすでに人で溢れていた。この裏道は今のところ死角になっているが、ここに息をひそめていても、誰の目にも触れないでいられるのは、もう、あと少しの間であり、花火やパレードが始まれば、次第に危険になっていくだけだ。黒くて不格好で、しかも、不似合いなロングコートをようやく脱いで、それを幹線道路脇にあったクズ入れに強引に押し込んだ。これを真っ先に処分したのは、証拠になり得る血痕や指紋が付いていたからではない。単に着たくもない外套で身を隠す必要がなくなったからだ。浮かれた街を歩いて帰る以上、この後はハッピーなイベントの参加者の一人になりたい。たった一分でも、あんな負け犬を象徴するような、惨めなものを着ていたくはない。やっと、呪われた因果から解かれて、本当の自分になれたというのに。また一つ染み付いた罪の意識によって、身体が自然と後ろを振り向いた。バラに囲まれた綺麗な遺体は、寂しくもあったが、まだ、誰も見つけてはいない。上層の窓から、何者かが見ていたとしても、もう気にしたくはない。彼女と自分を操る運命の糸に沿って仕事を進めたまでだ。何者かにこれを見咎められていたとして、腕を乱暴に掴まれ、貴様は卑怯者だ、残虐者だと問い詰められても、何を言い訳することがあるのだろうか。誰も助けてくれなかったこの人生を、自分で助けたかっただけなのだ。  会場の真横では、巨大な観覧車が七色の光線をばら撒いている。これも今夜の見世物の一つだ。艶やかなネオンサインの光が、日頃、慎ましく寂しい暮らしの中で、笑い合うことの少なくなった人々の心を駆り立て、その視線や興味を引きつけ、呼び集めている。『come on come on!』もちろん、私だって、そのつもりよ。仕事終わりの夜はいつも楽しい。心躍らせる賑やかな街だ。解放感に導かれて、暗い道を抜けて、人生は華やかな中央通りへ出て行く。暗い目をした、やばい奴らに声をかけられても、急を聞いて駆けつけてきた警察官に武器を突きつけられても、笑い飛ばしてやるわ。  すべてに無関係を装って、元来た道を引き返していく途中で、今一度、黒い4WDの前を通りがかることになった。さっきは見栄えのしないコートを羽織った、地味な風貌の女で歩いたわけだが、今度は派手なワンピース姿の都会似合いの美女である。狼たちの受け止め方も変わってくるはずだ。明らかな外見の変化によって、男たちの誘い方はどう変化するのかしら。人当たりの良さそうなお兄さんが、再び、私の外見を確認している。さっきは自分に自信を持てず、暗い表情のまま、さしたる会話もなく行き過ぎたけど……。彼はこちらの視線に気づくと、すぐに反応して、柔らかくほくそ笑む。あれは上等な獲物を引っ掛けたときの顔だ。さっきと同一人物ではないかと、頭で判断をする前に向こうから声がかかる。 「お姉さん、もしかしたら、仕事終わりで帰るところかな? シャレた店でお酒でも軽く一杯どう? もちろん、お代はこっちが払うからさ」 『ありがとう、喜んで、その話に乗るわ』という合図に、微笑みながら、ひらひらと右手を振ってみせた。『今夜一杯、時間は空いてるのよ』と伝えたつもりだ。根っから優しそうな、その男性は嬉しそうに軽く頷く。車から颯爽と降りてきて、私の派手な衣装に目を留める。思考の中に一つのとっかかりを見つける。 『今夜は確か、何かのイベントの日だったはずだぞ』  ある種の戸惑いの中で、通りの遥か向こう側を指さしてみせる。満員電車からようやく降ろされて、この街へ踏み込んだばかりの多くの来客が、もうすぐ開始されるであろうイベントに参加すべく足早に目指している方向である。 「あれ、もしかして、これから劇場に行くのかな?」  その戸惑いを含んだセリフは『それなら、僕は用なしになっちゃうけど。何しろ、チケットの当てがまったくないからね』という意味を示しているらしい。とても素直な問いかけだ。引き際をわきまえている男性は、嫌いじゃない。性根が腐っている男なら、それでも獲物の細い腕を強引に引きずっていくだろう。女の財布も身体も、目を付けた瞬間にすべて自分のものだと考えているような、図々しい男は大嫌いだ。 「いえ、実は違うのよ。私も劇場の方には用はないの。そうね、そう言われてみれば、多分、あと一時間ほどもすれば、大きなショーが始まるのよね。仕事がこんなに早く終わってしまうと、事前にわかっていたなら、チケットの予約を入れておいたんだけど……」  自分は今夜のイベントとは、まるで無関係だという意味を伝えようと、自然な態度でそう答える。『今夜の大方の出番は、すでに終えたんだけど』と言ってやりたい気もした。どうせ、何を言っても、この人には理解のしようもないのだから……。  さっきは同じ男性に『これから仕事があるので……』と伝えたはずだ。しかし、あの黒くてダサいコートの下に、チラリと見える華美な衣装は、まるで、パーティー会場に向かう主賓のような、場違いな色彩だった。そこから連想して、彼はそんなことを聞いてきたわけだ。『この女性は、これから演劇会場に向かう、ゲストの一人ではないか』と。  デートが不意にならず、安堵したような、弛緩した表情を尻目に、私は思いがけず笑いが込み上げてきた。思えば、仕事前にマネージャーが、『貴女が最終試験に蛍光色のピンクのワンピースを着てきたことを思い出したわ』と、嫌味をぶつけてきたっけ。向こうとしては、こちらの心理を苛立たせるための挑発のセリフとして言い放ってきたのだろうが、あのときは、仕事直前の緊張もあって、そこまで深くは考えずに受け流してしまった。開けた自分の両肩を、今一度確認してみた。今夜、偶然にも同じワンピースを着てきたのだった。 「俺はこの辺の飲食店にはとにかく詳しいからさ。案内は任せてくれよ。通りの向こうには、特にイケてる店がいっぱい並んでるんだ。中華料理もイタリア料理もあるし、うまい食い物が揃っている割には、比較的安く飲める。その辺りでいいかい?」  筋骨隆々のたくましい彼の上腕に、私の細い腕を絡めて、二人並んで歩みだす。これで、長い経験を経た連れ合いのように見えるだろうか? そのとき、私の背後を劇場へと向かうカップルが、お互いに今夜のプログラムを見せ合いながら、楽しそうに騒ぎ立て、そのまま、矢のように通り過ぎていった。大勢の声が飛び交い、次々と湧いてくる話題を、肯定したり、否定したり、意味もなしに騒ぎ立てて、要らぬ混乱と興奮を呼んだ。 『おい、ちょっと、そこの、聴こえてるか? その辺の車は早々に移動してくれないか。その場所は、元々、駐車禁止の場所だぞ』  夕刻からの酒を飲み過ぎたためか、すでに気分が早って、度を越して騒ぎ出したやじ馬たちを、遠くへ遠くへと追い払うために、警察隊が出動してきたようだ。彼らは犯罪を犯した私を捕えに来たわけではないだろう。哀れな屍は、おそらく、今も転がったまま。こんな日の夜勤は哀れにも思えるが、これも彼らの仕事の一環だ。その濃紺の制服を見せられても、今はもう怖くはない。『仕事を終えて、恋人と浮かれる街に踊りに来た』だけの私の姿を、行きも、そして、帰りも肉眼でしっかりと見ている、頼もしい証人が、すぐ隣に……。そういえば、ホテルの受け付けスタッフも、そして、あの丁寧な対応の花屋さんも……。イベントへと向かう参加者で賑わう、こんな人混みの中で、たった十分ほどの間に、大胆な要人殺しの策略のすべてを、なんなく終えて、優雅に堂々と街を出歩く暗殺者が存在するなどと想像が届くはずはない。捜査にあたる人間たちが『殺人事件の容疑者は、事前に現場の近くに潜んでいて、可哀そうなステージヒロインのスケジュールを、事前にどこからか得ていた』という極秘情報を得ていない限りは……。つまり、私のアリバイは完全に成立している。 「警備大変ね、おつかれさま!」  私は交通整備をしていた数人の警官たちに、小さく手を振りながら、愛想よく声をかけていった。普段の夜では考えられぬほどの歩行者たちが、ひしめき合って、移動の障害となっている横断歩道を、できるだけ早く渡りたいと願い、『自分は最低限のことは守れる』という、微かな道徳心を披露しながら、待機している。その大軍は信号が青になると、突然目的を持ったように、いっせいに歩み出した。色が赤に変わってしまう前に、何とか私を渡らせようと、出会ったばかりの彼氏は、すごい力でぐいぐいと人混みを掻き分けて、引っ張っていく。 「これから劇場に行くんだったら、もっと急ぎなさい。すでに、かなり長い列が出来ているみたいだ。まだ、チケットがないなら、早く並びに行かないと、開演ギリギリになってしまうぞ」  事故を未然に防ぐために立ち番をしていた警官の一人が、親切心から、ありがたいアドバイスをくれた。彼の記憶力のほどは知らないが、今の一瞬の目と目だけのやり取り。派手な衣装が目に留まったかもしれない。ならば、ありがたい。私の派手な衣装をしっかりと覚えておいてよ。あなただって敵じゃない。立派に『こちら側の』証人の一人になれるのだから。 『あの夜、当該時刻に、中央通り沿いにおいて、黒いコートの不審な女を目撃した人間は一人もいませんでした』 「今夜のショーをずっと楽しみにしていたの。何か月もかかって、やっと、チケットが取れたんですもの。前に見たのは、もう、四年も前なのよ。今夜の演目はサマセット・モームの作品ですって。あなた、この中に知ってる話あるの?」  すでにチケットを確保したカップルが、余裕の表情でもって語り合っている。この大群衆の中で、今夜『イベント会場には絶対に行けない』理由を持っているのは、おそらく、私一人だと思われる。隣の区画のホールの前では、すでに数千人規模の来客が、今夜の出し物に最大級の期待を込めて、長大な列を作り、開場が待っている頃合いだろう。 『チケットはまだ数枚残っているよ!』 『今からチケットショップに行くなんて無駄! わたしのを買いな! 正規より、7ドルも安いんだから!』 『S席のチケットを一枚二千ドル程度で譲ってくれる方はいませんか? 当方、困っています……。お願いいたします……』  そんな声が街中の至るところで響いている。本日は一月に一度しかない祝宴。政治家も官僚も、普段から真面目に取り組んだことなどない仕事を、すでに放り出して、自宅のテーブルに古いワインと豪華な夕飯の準備をしている。一年に数億ドルを稼ぎ出す、大勢の著名人たちが、このイベントのために、わざわざ全米中から駆け付けてきていた。そして、派手な衣装と化粧を、マスコミ記者たちの高性能カメラに『写されようと』している。目に映るのはグッチ、シャネル、サファイア、あとは最新型のポルシェ、この国に数本しか存在しないはずのロマネ・コンティ。そもそも、誰もが欲しがっている物、世界でもっとも輝いている物しか存在しない。あれからたった数時間で、突然、そんな街に変わった。夕方の大人しげな雰囲気から、まるで、フォーブール・サンジェルマンのように生まれ変わってしまったのだ。華やかな街の気配に、誰もが浮き立っている。あと数十分で最大のエンターテインメントが始まろうとしている。チケットを求める群衆は、自分の財布の中身と相談して、一番後方の、何とか買えそうな席を求める金額を、狂ったように叫び続けている。怪しげなバイヤーがそれを聞きつけて、右手を振り上げて、何か呼びつけているのを見つけると、購入希望者はその後を必死に追いかけて、そのまま二人で、暗い路地の奥へと消えていった。  私も少しでいいから、そんな浮かれた気分に浸ってみたい。黒い豪華なタキシードを着込んだ、白髪の中年男性が、二十代の金髪の美女を連れ添って、正面から歩いてくる。わざわざ、見せびらかしに来たのだろう。まるで、モデルさんみたい! 外見もそうだが、おそらく、内面だって、私なんかでは、まったく、歯が立たないのだろう。スカートには派手なバラの刺繍の入った真っ赤なドレスに、皆視線をとられている。胸元に刃物のように鋭い亀裂の入った、イブニングドレスは、さすがにライバルの目から見ても、輝かしいと思わざるを得ない。とても妬ましい、そして、憎らしい。そんな複雑な思いをおくびにも出さずに、すれ違うその瞬間、互いに軽い笑みで挨拶を交わした。向こうの男性が微かな視線をこちらへと寄こして、私を鋭く値踏みする。『この女も、なかなか金をかけているな』すれ違う一瞬でしか、その表情は見えなかったが、確かにそんな顔をしていた。 『最新の情報では、あのカリー・マーベリーが、つい先ほど、泊まっていたホテルを出て、会場に向かったらしいわ!』 『じゃあ、今から、急いでいけば、セレモニーで見れるかもね! 急ごう!』  おそらくは、まだ学生の女の子たちが、すっかり我を忘れて、かなり興奮した様子で、そう叫びながら、豪華な観覧車の煌めいている方角に向けて、そのまま走り去っていった。緊張が完全に解けるまでは、なるべく無口に振る舞おうとしている、私との話のネタを探していた彼は、無意識にその話題へと飛びついた。 「そうか……、あの、マーベリーが、今夜の舞台に主演で出るらしいよ……。だから、こんなに人手があるんだね。みんな、手持ちのカメラに収めようとしているんだ。これだけ混雑している理由が、やっと、わかったよ」 「ええ、どうやら、そうらしいわね……」  私はなぜか理由もなく悲しくなって、気の利いたことも言えず、思考停止に陥った。本来ならば、アパートにある小さなテレビでしか見ることの出来ない有名女優。実際に間近で見ると、とても綺麗な顔立ちをしていた。 「ねえ、確か、去年のアカデミー賞をとった女優さんだよね? 俺はそういう世界に詳しくないけど、どれだけ綺麗な人なのか、一目でいいから、実物に会ってみたいなあ……」 「そうね……、本当に素晴らしいひとだったわ……。昔はとても好きだったの……。その外見をとっても、演技ひとつをとっても……、こんな自分では、とても、叶わないと思っていたわ……」  私の今のセリフには、特別なニュアンスがあったのかもしれない。彼は少し不思議そうな表情をして、こちらの顔を覗き込んだ。 「昔ね、一度だけだったけど、間近で会ったことがあるの……。そう、私にとっての特別な舞台で……」  このくらいの情報だけであれば、自分以外の人間に残してもおいても良いと思った。しかし、心に今も残っている、小さくて醜い悔いは、いったい、いつになったら、消えていくのだろう……。  つい数分前になるが、お金のためでなく、組織からの命令ためでもなく、自分にとっての仕事が完璧に遂行出来た。昔、為しえなかった夢は、今、別の形で叶えていくしかないのかもしれない。大通りの方では、なかなか変わろうとしない信号機にムカついている、短気なタクシードライバーたちが、あちこちで大きなクラクションを鳴らしている。黒いTシャツを着た若者たちの集団が、大型の真っ赤なバイクを、道路の中央で、これ見よがしに整備していたりもする。しかしながら、そんな無法行為は許されるわけがなく、たちまち、警察官数名が寄ってきて、すぐに警告を発する。二人乗りの派手な外国製のバイクが、『これはお前たちへのお礼だ』と言わんばかりに、とんでもない爆音を立てて、夜道を吹っ飛ばして消えていった。私たちは、そんな振る舞いをまったく気にしない。確かに、ただの行きずりだが、二人で肩を揃えて歩いていると、もっと多くの幸福と未来への可能性を手の中に握っていたはずの、当時を思い出す。自分は特別な存在であり、勝負事の行方は完全に未知数であり、これは実力だけの勝負だと錯覚しており、それに勝利できれば、どんなものにでもなれるような気がしていた。世間一般の客観的な見方でいえば、あの頃の方が社会における自分の存在価値は高かったのかもしれない。そして、強く望んでいたはずの願望は、遺憾ではあるが、叶わなかったのかもしれない。その結果に対して、寂しさはまったく無いといえばウソになる。ようやく、遠くの方で救急搬送のサイレンが、けたたましく鳴り響くのが聴こえてきた。私の隣でのんきに口笛を吹いている彼の耳には、何も聴こえていないようだ。大きなショータイムの直前、最高の盛り上がりを見せる、街角を行く誰もが、そんな不吉な音をいちいち気にしたりはしなかった。 『会場の入り口で、ネームの入ったカラーバルーンを配ってるって!』  そんな声が聴こえると同時に、五人組の派手な色彩の若者たちが、あらぬ方向へといっせいに走り出した。その様子に釣られて、理由もわかっていない、多くのやじ馬たちが、我先にと同じ方向に走り出した。バンバンバン! という耳をつんざく連続音に振り返ると、開館を知らせる華麗な花火の打ち上げだった。紺色の夜空に赤と金色の華やかな光が舞い散った。『今の見た?』とでも言うように、彼は嬉しそうに上空を指さしてみせた。私も気分が躍ってきて、思わず恋人の腕を握る手に、より一層の力を込めた。犯罪行為の後の動揺や余韻など、すでに跡形もなく消えてしまっていた。自分の身体は一大イベントを待つ人々の渦の中に、完全に溶け込んでしまっていた。今さら、職務質問などをされたところで、適切な対応はできないだろう。 『いえ、私は……、そのような、細い路地になんて行きませんでした。なぜって、このお祭りを楽しむために来たんですもの……。ねえ? あなたもずっと一緒だったものね』  まるで、本当に穢れのない人生を歩んできた女性のような答弁ではないだろうか? 仮に逃れられぬ証拠を突きつけられたとしても、そんな気味の悪い事件には一切関わっていないという、もっともらしい答弁を、けなげに述べるだろう。もし、この哀れな私が、あの銃弾を撃ったのだとしても、それは罪にならないのだ。この恵まれぬ半生がそうさせたのだから。 「なあ、君は本当にショーに行かなくてもいいの?」  ついさっき、運命に呼ばれて出会えたばかりだというのに、性格の優しい彼は心配そうな顔でそう尋ねてくる。私がどこか上の空だったからだ。大きな代償があったとはいえ、遠くの空に見ていたはずの光は、今でも記憶の中に微かな輝きを放っている。端的に言えば、それはトラウマなのかもしれないが、大多数の人には体験すらできない貴重なものだったのかもしれない。長い時の流れの末に、失望だけではなく、そうも思えるようになった。主役として本物の大舞台に上がったとき、それがどんなに素晴らしい気分をもたらすのかは、今の私にはわからない。ただ、輝かしい舞台には上がれなくても、人間の日々の営みは、小さく美しいドラマを生み出すことだってある。人生とは、その小さな欠片の積み重ねである。  来賓たちのスポーツカーが、次々と、この街に到着してくる。沿道からは、待ってましたの大歓声が上がった。さあ、まもなく開演。街はさらに色めき立つ。巨大なネオンサインがいっせいに点滅して、ゲストの到着を盛大に祝うセレモニーが始まった。今夜のイベントは全米中に中継される。簡潔に言ってしまえば、富裕層の人々が、さらに儲けるための大イベントに過ぎないのだが。 「なあ、この雰囲気って、すごく良くないか? こんなに気分が盛り上がる夜は初めてだよ」 「ええ、神様が今夜のひと時を演出してくださるみたいね」 「不吉なことなんて、何一つ起きやしないよ。特別な夜が始まる。きっと、みんなが幸福になれるんだ」  彼は私の人生の多くを知らないから、その顔を紅潮させながら、そう嘯いた。私たち二人の小さな歩みは、少しずつ、少しずつ、街の中心部で盛大に盛り上がっている大劇場からは離れていこうとしていた。  軽い足取りで歩みながら、私はこう思った。成功した者が最大の評価を得るのならば、この世の中には、必ず勝ち馬と負け馬が生まれる。それを今一度覆すために、自分はこの街にやってきたのだ。先ほど起こったばかりの、ひとつのドラマチックな事実を、いったい、誰が正当に評価できるだろう。私のこれまでの無作法な演技は、成功を何度繰り返していっても、輝かしい舞台の上には絶対に上がれず、大喝采は得られない業務だろう。ただ、あの痛烈な胸の痛みも、今となっては夢の欠片のひとつである。そう、今夜だけは、私が主演女優なのだから。
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