場違いな衣装 第二話

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

場違いな衣装 第二話

 約束の時間が近づいてくると、気持ちはますます落ち着かなくなり、自然と足は動き出す。広い室内を半ばふらつきながら彷徨い歩く。例え、今夜のイベントにおいて、不測の事態が起きたとしても、この私がそれに関わっていることを知る人間は、裏社会の最深部に属する組織の幹部数名のみである。警察関係者やCIA職員も含めて、まだ、誰もこちらの行動を関知してはいない。不吉な前ぶれも何も起きてはいないこの段階において、起きるかどうかも知れない、小さな落ち度を、そこまで恐れる必要はないはずだ。  明日の大衆新聞の一面に、この付近で起きてしまった不幸な事件が、大々的に報じられたとしても、その誌面に目を通した、このホテルのスタッフたちが、自分の方から警察署にわざわざ名乗り出てまで、「実はその事件当日まで、殺人を匂わせるような不審者が、うちのホテルのスイートルームに泊まっていました」などと訴え出るものだろうか? それは甚だ疑問である。罪もない人を簡単に殺せる程度の怪しさを漂わせる人物など、この大国にはシロアリの数ほどいるはずだ。片手には鋭いナイフをチラつかせ、大麻を吸いながら裏街をぶらぶらと歩く不良青年たち。職場の上司に叱られた腹いせに、バスの停留所において、自分の前に並んでいる乗客の後頭部を突然殴りつける、精神病みの短気なサラリーマン。スラム街の道端にあるゴミ箱の内部を探り、1ドル紙幣を次々と見つけ出してはほくそ笑み、まんまとネコババする程度のしょうもない小物まで、この無限に拡がる社会の上から下まで、ずらりと揃っているわけだ。そんな奴らに対して、この地域に限られた数しか配置されていない警官たちが、いちいちテロリストの疑いをかけて職務質問していく時間は、まずないし、そもそも、疑っていたらキリがないだろう。  自分としては、この分不相応な部屋には、丸々三日に渡って、閉じこもっていたことになる。記憶にある限りでは、余計なものには何ひとつ触れなかったし、レストランやジムすらも利用しなかったはずだ……。自分の指紋については、ブルーのふかふかのソファーの右側の一部、そして、テーブルの表面だけを念入りに拭き取っておけば、おそらく足りるはずだ……。しかし、人間の記憶というものは、よく集中していたつもりでも、万能とはいえない。理性も記憶も常に不器用で不安定なものであり、遺憾ながら、人は無意識の中にさえ生きているのである。こうした緊迫した状況下では、幾度も場数をこなした、仕事慣れした人間であっても、きわめて大事な場面に置かれると、ごくごくつまらないミスを犯して、これまでは見もしなかった深い亀裂に転落していくものだ。アルコールを塗ったハンカチで、一番お世話になった、マホガニー材の上品なテーブルの表面を隅々まで拭いていく。任務に失敗して、我が身が警察の手に落ちるか、あるいは現場で射殺された場合、この部屋には真っ先に警察の捜査隊が乗り込んで来る。証拠となり得る、小指の指紋ひとつでも、ここに残すことは出来ない。次いで、ベッドのわきのデスクライトのスイッチを丁寧に拭く。ライトを付けた覚えはまったくないのだが、この三日間は職務遂行許可の連絡を神経を張り詰めながら待ち続けていたため、絶えず緊張ずくめであった。睡眠中、あるいは無意識のうちに、それに触れてしまった可能性だってあるわけだ。  一度カーペットの上にしゃがみ込み、ソファーの上を端から端まで凝視していく。髪の毛一本、上着からこぼれた毛糸ひとくず落ちてはいないか。一度は歯車が狂ってしまった人生の逆転のために、いつ終えるとも知れぬ妄想に耽りながらじっと座っていた、その部分を同じように業務用のハンカチで丁寧に拭きとっていく。念のためにクローゼットの中も、もう一度確認する。もちろん、置き忘れなどはあり得ないわけだが……。やはり、仕事直前のために、幾らか神経質になっている。この広い部屋のリビング以外の部分を利用する必要があったときは、間違いなく、専用の革の手袋を装着していたはずなので、他の部屋の壁や床に関する指紋の有無については、まったく心配する必要はないだろう。  しかし、いざドアを開けて、片足が一度室外へ出たとき、また、いつもの、ぬぐい切れぬ病的な不安感に襲われた。この身体は、意識もなくもう一度室内へと戻る羽目になった。肉眼ではまったく見えぬ、ノミサイズの不安に心中で囁かれても、それが納得と理解とによって、完全に消滅するまでは、命を賭した仕事に向かうことは出来ない。明確な理由もなく、ほとんど吸い寄せられるように窓の方に近づいて、手袋をしたまま、真っ青なサテンのカーテンにそっと触れてみた。視界を遮る物の少ないこの空間で、ここからなら部屋の隅々にまで目が届く。どこへ視線を向けても、この大切な期間における、私の時間の使い方については、何ひとつとして隙はないように思えた。ある種の病的な臆病さについて、職業病だといわれることもあるわけだが、人生の岐路といえるイベントの直前においては、完璧を為そうとするときの不安感から逃れられる人間など、そう多くはないはずだ。自分でもこれが重大な病気だと思ったことは一度もない。単純に結論付けてしまえば、重大な局面においては、誰でも不安に狂わされるものである。これは、高額な報酬に対する、責務の一つともいえる。  扉が閉まると、背後で自然とロックのかかる音がした。このフロアには他にまだ六部屋もあるはずなのだが、同僚スタッフの気遣いにより、自分以外の客は泊まっていないらしい。従って、見も知らぬ他人(ひと)との、不意の接触はあり得ず、表情や動きを探られる心配もない。そのくらいの下準備については、組織の方で事前に手を回してくれているはずだ。骨休めの時間はとうに終わっている。凶器を身につけるための緊張感を取り戻さなくてはならない。当然のことながら、仕事間際のこの時間帯にあって、廊下の角を曲がる瞬間に、ホテルのスタッフなどと、バッタリ顔を合わせてしまう展開も、余りよくはない。相手方はこちらの計画を知る由もないので、その場で不吉なことが起きることはないだろうが、事件発生後に、この瞬間のことを思い出されるのは、自分と組織にとって、かなりの苦境となる。記憶力の高いスタッフというのは、どこの職場にもいるものである。  ただ、多少楽観的に考えることが許されるのならば、スイートルームで唯一の泊り客とはいえ、ロビーの係員以外とは、ほとんど何の接触もなく、部屋から廊下へは、一歩も出て来なかった泊り客の外見の詳細について、それほど長い時間に渡り、記憶に留めていられる人間は、本当にごく僅かだろう。これまでのいくつもの似たような経験が、その推論を強烈に後押ししている。人間というものは、自分の眼前に日常的な業務が並んでいる限り、『明日、自分の周囲で国中を揺るがすほどの大事件が起こる』などとは、決して考えないものである。夢想家は漫画家や脚本家にはなれても、優れたスタッフにはなれない。プロの職人ほど、きわめてリアルスティックなものである。自分の側のたった一度の悪手によって、レールから逸らされない限りは、今日のようなごく平凡な日々が、五十年でも百年でも延々と続いていくと思い込んでいる。シャンデリアからこぼれ落ちてくる、金色の光に照らされながら、異様なほどに真っ赤な絨毯の上を、なるべく物音を立てずに歩いた。あの頃、女優オーディション対策のレッスンのために足繁く通った劇場の雰囲気とよく似ている……。いくつもの懐かしい願望が不意に頭をよぎる。今夜の役目とて、高報酬ではあれど、諸手を挙げて引き受けたわけではない。だが、深く考えていくほどに、今夜のような前代未聞の難題は、こんなちっぽけにされてしまった、今の境遇にとって、非常に似つかわしい任務であることに気がついた。  一階のロビーでは、今夜のイベントを見越して来訪していた泊り客の多くがチェックインの手続きをしていた。なるべく、距離を詰めぬように遠巻きにして、空いてくるのを待った。係員に呼ばれると、顔を一度も上げぬようにして、ほぼ無言のままに、チェックアウトを済ませた。当然のことだが、宿泊費の方は領収済みとなっており、組織の方で事前に手を廻してあった。私は巧妙に偽名を記すことを何度も練習させられたサインを書類の上に記しただけである。背後から聴こえてくる、スタッフたちによる、お別れの挨拶は、この耳にはまったく届いていないフリをした。  この広い荘厳なロビーと外部とを仕切る、自動ドアが眼前まで迫ってきたので、もう、どのスタッフにも顔を確認されることはないだろうと、安心しきって思わず視線を上げてしまった。だが、三日間、スウィートルームフロアをひとりで貸し切るという、通常の来客とはまるで異なる金の振る舞い方をしてくれた上客のために、女性スタッフがもうひとりだけ、ドアの横に佇んでいて、この怪しげで無愛想な客のために、最後の慇懃な挨拶をしようと、待ち構えていたのだ。専門職による、こういった予定外の行動は、我々のような裏社会の人間にとって、およそ想定できない妨害となりうる。賓客を待ち構えていた女性スタッフは、こちらの複雑な心理状態など露知らず、うやうやしく一礼をした。 「今夜は隣町の大劇場で、大きなイベントがあるそうですね。こちらとしても、二月も前からそれに備えまして、スタッフを多く配置しまして、要人のプライバシー保護を第一に対応させて頂きました。まだ、沿道もそれまで混み合ってはいないようです。天気予報は微妙でしたから、心配しましたが、この通り、雨には降られませんで、本当に良かったですね。外は綺麗な夜空です。それでは、どうか、お気をつけて、いってらっしゃいませ」 「そうね、一年前から、あの演劇の最前列の切符を予約していて……、席が取れたという連絡には小躍りしたわ。この街に来るのをとても楽しみにしていたの。色々と親切にしてくれて、どうも、ありがとう」  三日前、チェックインする際に、幾分気楽に行ってしまった顔見せの挨拶程度ならば、受け付けスタッフたちの、その頼りない記憶力は、新たな客が現れるたびに、何度となく上書きされてしまうという確信のために、別に気にはならなかったのだが、仕事が直前に迫る、この場面においては、正面から顔を見られてしまったのは、いささか不手際と思われた。さりとて、上客への感謝の意を表すために、わざわざ、玄関口まで足を運んでくれた、仕事一筋のスタッフの想像が、いったい、どこまで深く届いているのかは、分かりようもなかった。突然のことに心臓は高鳴っていたが、とりあえず、まったく想定していなかった事態に対して、一般の観光客を装ってたどたどしく返事をすることにした。ごく一般的なホテルスタッフとしての思考で考えてくれるならば、私のことを家柄だけに恵まれて、羽振りが良いが頭の軽い、無害な独身女だと決め込んでくれることだろう。彼女の無垢な表情から、楽観的ではあるが、そう判断することにした。  しかし、そうなると、今夜の一大イベントへの参加自体を真っ向から否定することになり、余計にまずい印象を残すことになる。丸三日間にもわたり、市議会議員や会場スタッフでさえも簡単に断られてしまいそうな、こんなに高級なホテルに宿泊しておきながら、結局のところ、一度も部屋の外には出なかったのだから。『このまま、どこにも寄らず、誰にも会わず、何も買わずに、真っ直ぐに家へ帰ります』では済まされないわけだ。その奇妙な事実は、スタッフたちの心理に異様な印象となって残ってしまうことになるだろう。これは嫌な想像になるが、事件の発生後に、警察からの聞き込みでもあった際に、『彼女は何の変哲もない、ごく普通の旅行客でした』と素直な証言をしてくれるものだろうか? それは極めて疑わしい。私だったら、眼光鋭く取り調べにやって来た、防護服を着込んだ捜査員たちの前で、明らかに疑わしい容疑者と出会った直後のような、怪訝な表情を浮かべてしまうに違いない。しかし、この場において、大金を払っての口止めなどをしてしまえば、結果的にかえって疑われることになり、さらに悪い結果を引き起こしかねない。多くの不安を残したままにはなるが、今はこのまま何もせずに立ち去るしかないと判断した。  華やかな、一夜のお祭りを楽しむべく、自然と街中に溶け込んでいく、ひとつの影となって、私はこのホテルから消えることにした。  隣町の大劇場へと続く、幹線道路沿いの広い歩道には、もうすぐに、ここを通り過ぎると思われる、セレモニー参加者(ゲスト)の車列を一目見ようと、すでに観衆による長い行列が出来ていた。そのほとんどが、十代や二十代前半の若者たちである。まだ、年端も行かない女の子たちを含むグループも多数見受けられる。彼らは別に今宵の大イベントのチケットを手に入れるために、ここに並んでいるわけではない。もうすぐ、この片側三車線の広い幹線道路を、一般の庶民たちが見たこともないような、ピカピカの高級スポーツカーに乗った有名人たちが颯爽と走り抜けていくのだ。その姿を一目でも見ようと、多くのファンが、なるべくいい場所を確保するために、この場所でひしめき合っているのである。少し遠回りになっても良いのであれば、イベントの会場へと続いていく、細い裏道は他にいくらでもある。精神的に、あるいは肉体的な理由により、人混みに揉まれたくない人は、そういう旅行者にあまり知られていない道を選ぶ方が賢明なはずである。しかし、この賑わう都会に、昨日今日ようやく着いたばかりの経験浅い訪問者や、チケットもろくに購入できないのに感情任せでここへやって来た、にわかファンには、怖くてそのような複雑な経路は絶対に使えないわけだ。細い道に一歩踏み込んだ途端、ナイフを握った暴漢が背後に立っているというギャング映画のような笑えない画を、どうしても想像してしまう。不測の事態を病的なほどに恐れるのは、新米旅行者の常である。彼らが去年ここを訪れていたと仮定しても、一年に一度しか訪れるチャンスのない街の詳しい地図が、そんなに深く記憶に刻まれているはずはない。細い複雑な路地に迷い込んでしまうと、せっかく待ち望んでいた開会の式典には間に合わなくなる。そこで、必然的に皆が皆、街の中央を流れている、この大動脈へと駆け込むのである。よって『ただ、ひたすら、真っ直ぐに進むのみ』という、イノシシや猿にでも容易に理解できそうな、このきわめてわかりやすい大通りのみが、大多数の来客の襲来により混みあうことになる。  私の方の仕事も、例の一大イベントと必ずしも無関係とはいえない。こちらとしても、群衆を眺めながら気を抜いて、うかうかとはしていられないのだ。やがて、お気楽なファンの集まりが、さらに多くの野次馬を呼び寄せ、このさして広くはない歩道の上が、多くの祭り関係者とさらに多くの野次馬とで完全に埋め尽くされる事態になったなら、約束の時刻までに、目的地に辿り着くことはきわめて難しくなってしまうだろう。私は多少の焦りから、なるべく足を速めて、行き先も分からぬ人たちの合間を縫って進んでいくことにした。  主観で語らせてもらえるならば、女性の価値のほぼすべては、その外見の印象で決まるといっても良いと思う。ただ、それはあくまでも可能性と確率を含んだ問題であり、スタート時点では優位に立っていても、結果として、その利点を最大限に発揮できずに敗退する人も多くいる。優れた外観を利用しようと決断したのなら、常に遥か未来のゴールテープを見据えた活動や態度が重要となる。  夜の街は派手でみだらで必要以上に華美である。防衛能力をまるで備えていない、紙のように薄いドレス、そして、ワンピース。胸や肩の白い肌を惜しげもなく周囲の人に見せびらかして、傍目には、ほとんど何も着ていないようにさえ見える。そんな薄っぺらい衣服をなびかせた、舞台女優たちと判別もつかないような、金髪の派手な女性たちは、同じようなクラスのスーツを着た男たちに取り囲まれながら、上機嫌になって唄い騒いでいる。一緒になって浮かれている、男たちのほとんどは、今夜の文化的な祭り自体にはさほど興味はなさそうで、都会の雰囲気に浮かれて咲き乱れる、美女たちの周りに単純に群がろうとしているただの蜜蜂なのだ。彼らの服装のセンス自体には、それほどの品がない。場末の衣料品店でやっと揃えてきた、埃をかぶった衣装ばかりで、色彩の組み合わせにしても、どれもヘンテコに感じられる。  しかし、酒やクスリの影響で、誰かが大声で聴き取れぬ叫び声をあげるたびに、それに合わせて、全員で楽しそうに手を叩く。その場にいる女性のすべてが、酔いによって陽気に笑い出すまでは、ジョークを踏まえながら、何度でも同じような騒ぎを繰り返していく。興が乗ってくると、女の子たちの軽い笑い声に反射するように、密林の野生動物よろしく、嬉々として宙に飛びあがる。次いで、通行人の動きを妨害するかのように地面に寝っ転がる。周囲でその騒ぎを見ている人たちの氷のように冷めた視線などは、まったく気にはならないわけだ。ただ、彼らのような人種は、普段一人で行動する際には、とても大人しく、とにかく神経質であり、何をするにしても、周囲の視線を逐一気にするタイプが多い。今夜の混雑のような集団心理に突き動かされないと、自分の本来の姿を取り戻すことができない情けないタイプのようだ。仲間と集まることさえ出来れば、『とにかく、カッコをつける』という名目のもとで、他人の前でどんなに醜態を晒しても、平気でいられる存在なのだ。道徳を失った夜の街では、このような行動はすべて不問にされる。道徳観念を統べる神々がここに存在するとしたなら、彼らの行為は裁かれることはないだろう。その幸福はごく短い期間にとどまるだろう。ただ、その輝かしい笑顔は羨ましい。自分の所有している、この地区でさえもなかなか見ることのないような自分たちの高級外車に、さっさと乗ってくれるように、我がモノになりそうな、尻の軽い女たちを幾人か見つくろって誘いをかけていく。その窓もサイドドアも、ドイツ製の特注品のワックスで念入りに仕上げて、ピカピカに光っている。普段勤務している、工場で得られる年収の、いったい何倍の額を支払うことで、アレを購入したのだろうか? おそらく、もう将来への貯蓄をするつもりなんて、これっぽっちも無いのだろう。明日の夕食のことも分からぬような自分の境遇に、ひたひたと差し迫ってくる破滅への危機感なんて、どこにも感じられない。しかし、こうした若者たちの自分の人生に対する評価なんて大抵は甘いもので、それでも十分許されるものなのだ。  自分もかつては、そういった華やかな一攫千金の夢を追いかけたこともあった。舞台女優や歌手やアイドル、うまく時流に乗れれば、いつかは社交界のトップへと。あの頃、現在と同程度の知識を持っていたとして、うまく立ち回れたなら、結果はどうなっていただろうか? ほんの1%ほどなら、自分にも大舞台に上がれる可能性(チャンス)があったのだろうか。今となっては、夢に向かっていたすべての行為は後悔へと変わり、幼少の頃から膨らまし続けた希望は、あのときのオーディションにて、一瞬で霧散して消えたわけだが、胸に秘めた憧れだけは、なかなか消えないものだ。  当初より立ち寄る予定であった、フラワーカフェの縦長の看板が見える位置にまで到着したのは、その店がすでに閉店間際になった時刻だった。すでに店内の電灯のほとんどが消され、客の姿はどこにもなく、店員たちによるせわしない後片付けがすでに始められていた。この事態にはさすがに肝を冷やした。時間の使い方を誤っていたのではないかと思わされた。近辺のオシャレなカフェやワインバーや、小綺麗な衣服や若者向けの小物を売る商店のほとんどは、まだ客を呼び集め、店内が明々としているというのに……。元々、街角の小さな花屋には、閉店時間など定まっていないのかもしれない。事前にもう少し情報をつかんでおくべきだったかもしれない。売り物の花の茎の部分を支えて、きれいに取り去った後の、二つの水桶を抱えて、そのまま店の奥の方へと運び込もうとする女性店員の後ろ姿が視界に入ってきた。慌てて駆け寄って、後方から呼び止めた。 「こんばんは、今夜は、もう店は閉めるの?」 「ええ、少し家庭の用事がありまして……。明日は通常通り、午後八時まで営業致します。でも、お嬢さんの方に、もし、ご要望があるのでしたら、喜んで承りますよ」  女性店員は望まぬ来客を相手にして、不満そうな顔ひとつ見せずに愛想笑いをした。わざわざ呼び止めて、その作業を遮ってしまった以上、このまま無下に立ち去ることは出来ない。ここでも、『閉店間際の怪しい客』という、いらぬ印象を残す羽目になるわけだが、彼女の期待に応えないわけにはいかなくなった。 「そうね……」  私は腕を組み、派手なネオンに決して負けてはいない、真っ青な夜を見上げて、しばし、考え込んだ。贈り物とは、まず、それを受け取る側のことを真剣に考えなくては……。行き過ぎる人たちは、街角に巧妙にはめ込まれたパズルの一欠片として、美しい花々をまず見つめて、それを選んでいる私の姿を横目に映して、その光景を一切を記憶にとどめることもなく、それぞれの目的地へ向けて過ぎ去っていった。そう、甘美なる夢が、ただの偶然の一部として完全に消え去ったとき、私はごく普通の人になり得るのだ。金のためだったら、どんな仕事にでも就くことができる人間というのは、周囲の人から、その人生を羨まれることはないだろう。そういった人種を極端に蔑む人間も実に多い。そういった事情を理解できないこともない。自分だってこんなに根暗になった自分が嫌いだ。再び、いくつかの空想が脳裏で点滅する。とっくに諦めたはずの幻想と、それをさらに追い詰めていく現実。こうして他愛もなく花を選んでいる行為が、とても、貴重で美しい時間に思えるほどだ。 「ここにある、まだら模様のバラを三十本、束にしてちょうだい」 「本当に? こんなに買ってくれてありがとう。本当よ。今日は朝から全然売れていなかったから、店を閉める間際に、優しいお客さんがぽっと現れてくれて、ほっとしたわ」  こんな数本のバラが売れたところで、いったい、いくらの儲けになるのだろうか? おそらく、その利ザヤは、コロッケ二つ分にもなるまい。ただ、彼女が強い気持ちを込めて発したそのセリフは、とても偽りとは思えなかった。自分の商売に対して、あくまでも真剣なゆえに、愛想よくそう言ったのだろう。カフェも運営している花屋なんて、この近郊だけでも腐るほど存在するだから……。その厳しい生存競争のさなかにあって、自分の店だけが何とか生き残ろうと、良きリピーターを生み出そうとする会話のテクニックの一つなのだろう。 「送り状には、なんとお書きしましょうか?」 「そうね、この素晴らしい夜に敬意を表して、『PS. I love you 』としましょうか」 「ありがとう、では、五分ほどで包装できますので、少々、お待ちくださいね」  彼女は今夜最後の客への応対をそういう台詞で閉めて、細い水桶の中から選び取った、いくつかのバラを優しく手に持って、店内に入っていった。私はその隙に後ろを振り返って、歩道の様子はどうなのか、もう一度見渡した。着飾った通行人も、有名俳優見たさの沿道の場所取り連中も、明らかにその数が増えてきていることが分かった。こちらの任務を首尾よく成功させるためには、目的地にあまり早く着くことも、完全に遅れて着くことも失敗に繋がりかねない。如何ともしがたいが、焦るとろくな判断が出来ない。とにかく、行動を促す、最終的な連絡が来るまでは、努めて冷静に振る舞おうと思った。事前の下見にはいくらかの困難が伴い、たったの一度しか敢行できなかった。ここから、目的地まで、予期せぬ障害がなければ、ほんの十数分であるが、この人混みにあっては、どれほどの余分な時間がとられるのだろうか。自分の顔の印象を、ここの店員や通行人たちに微塵も残さないためにも、ちょっとの焦りや憤りさえ、不用意に顔に出すことは出来ないわけだ。おそらく、今日一日で、数十人は訪れたはずの来客の一人に、うまく紛れ込まなくてはならない。バラの束を注文してから、ちょうど四分が経過した頃、包装した花束を抱えて、女性店員が店内から颯爽と姿を現した。先ほどまでの、私の態度の節々から、『できれば急ぎたいのだが』という願望を嗅ぎ取ったような手際の良さであった。よく仕事のできるスタッフだ。私は大袈裟にならぬよう、簡単な感謝の言葉を述べて、美しい花々を両手で受け取ると、足早に店を離れた。 『ああ、素晴らしい、素晴らしい! とても、いい夜ではないか! 運命の針はようやく自分の方へと回ってきている。あの時とは、まったく逆だ! 闇から光へ! それが手に取るように理解できる。長い時間をかけて用意してきた、複雑なギミックが、きっと、成功して繋がっていくに決まっている!』と、はやる心をさらに急かすような、復讐を喜びつつも実に嫉妬深い言霊が、私の過去の記憶のどこからか再び蘇ってきた。  幹線道路沿いには、多くの若者たちが自慢の愛車を停めて、今夜の一大イベントのイルミネーションに合わせるべく備えている。車外に特殊なスピーカーを設置して、周囲には何の配慮もなく、派手な音楽を巻き散らしている。聞き慣れないハードロックの大音量が、辺り一帯に響き渡る。恋人たちの聴き取れないひそひそ声のほとんどを、かき消していく。通行人は驚いて目を見張ったり、とっさに耳を塞いだり不快な反応を示している。ほとんど裸のような恰好の男女が入り乱れて、首の後ろに両手をまわして抱き合ったまま、その場でくるくると廻り、踊り狂っているグループもある。誰が一番派手なのか、誰が一番うるさいのかを競い合っているかのようだ。  言うまでもなく、今日の一大ショーは、彼らのような衆目を集めたいだけの人種を対象としたものではない。呼んでもいないのに、『人混みが好きだから』という、不要な混乱を呼ぶだけの理由で、節操もなく集まってきているわけだ。ああいった不埒な行為を、自宅の周辺で行うのではなく、わざわざ大都会まで出て来て、見も知らぬ他人の目に見せつけたい、といった歪みきった欲望が、人間の心理の内部にどのように発生してくるのか、そして、発達していくのかについて、私としてはまったく分からない。台所の下の暗い物置の内部において、大量に繁殖した汚いドブネズミたちが、狂ったように踊ったり、時間をもて余すと、仲間の首を長い爪で掻き切ったり、共食いを始めたりするようなもので、容易に理解しがたい。  中には、今夜の祝祭を一緒に過ごすためのお相手が、いまだに見つかっていない哀れな人も多くいる。彼らはこの夜のために、磨きに磨いてきた、自分の車に気怠そうにもたれかかり、心の中では、半分以上諦めのある中で、通り過ぎていく派手な格好の女性たちを『何とか、こちらのモノにはならんか』と、鋭い目で値踏みしているわけだ。言うまでもないが、盛りをやや過ぎてしまったこの私に対しては、こういったタイプの若者からも、なかなか声はかからないわけだが。ニット帽を深く被り、地味で馴染んでいない、黒いコートを強引に羽織っているから、おそらく、彼らが期待しているような、うら若き上等な獲物には見えにくいのだろう。彼らは二十代前半で、なるべく若く、なるべく男性経験の少ない、暗い森の奥深くに用もなく迷い込んできて、急に不安に襲われ、大声で助けを求めているような、可憐な美女を探しているわけだ。 『これから劇場に行くんでしょ? 乗せていくよ、どう?』 『美味しい店、知ってるよ、一杯だけ、どう?』  相手構わずに放たれる、そんな無法な掛け声が、あちこちで飛び交っている。こちらは少しうつむき加減で、歩むべき道の幅だけを見ている。自分の歩むスペースだけがあればいい。街中に不穏な空気を感じれば、警察も動き出す。すでに何台かの巡回中のバイクとすれ違った。仕事の開始間際だが、心はあくまで冷徹なままに。こういう場で懐に武器を潜めた人間とはまったく思われずに、鼻から無視されているということは、自分の魅力が周囲の女性たちと比べていくらか足りなかったからであろう。『一度も声がかからず、非常に悔しい』とさえ思えなくなったら、女としては、そろそろ失格だろう。そのくらいのことは、何となく理解できているのだが。  そんな瞬間、待ちわびていた携帯のベルが、けたたましく鳴った。すぐ前を腕を組んで一緒に歩いていている、派手なワンピースを着た若い女性二人と、自慢の愛車を飛ばして遊ぶための友人がここへ来ることを待っている、眼光鋭い長い茶髪の別の男性が、こちらの呼び出し音に気がつき、すぐに反応して振り返る。物珍しそうに、私がどのような対応をするものか確認しようとしているのかもしれない。ここは、例え一刻であっても戸惑いを見せてはならない。 『今夜、一緒に劇場に行く約束をしていた彼からの不本意な電話が、今になって、ようやくかかってきて不機嫌になる女性』を上手く演じればやればいい。私はこちらに視線を向けた数人に対して、余裕の笑みを披露してから、三歩ほど壁際へ寄り、『遅かったわね、待ってたわよ』とでも言いたそうな顔をつくりながら、電話を耳に押しあてた。 「つい先ほど、相手役が外出の準備に入ったとの連絡がありました。ホテルの入り口からですと、あと十五分からニ十分ほどで接触できると思います。すぐに現場に向かえますか?」 「はい、そういうことでしたか。交通機関に遅れがあったんですね。連絡がなくて焦っていましたが、とりあえず、順調なようで安心しました。こちらの準備は万全です。それでは、約束の場所で主役をお待ちしています。これから彼女に会えることが、とても、楽しみです」  ろくに演技も出来ない、するつもりもない、相手側の無神経さなど、周囲に微塵も悟られぬように、慎重にそう答えると、何の未練もなく電話を切った。それをバッグに戻す前に、眼前を行き交う通行人たちの表情や視線を、逐一確認した。おそらく、これは職業病だろう。案の定、誰の視線も、それぞれの向かう先や望む先にあり、道の脇に佇む、私の方を注視している人は誰もいなかった。とにかく、開幕のベルは鳴らされたわけだ。さあ、これで余計な行動をダラダラととって、時間を潰していく必要はなくなったわけだ。それでは、足を速めよう、と思った矢先、思いがけなく、路上の方から声がかかった。 「お姉さん、電話の方はどうだったの? 彼氏は今夜、来れないって感じかな?」  陽気な声で語られるその口調は、明らかに自分に対して向けられていると思われた。左後方を振り返ると、前方のライトを明々と光らせた、4WDの漆黒の巨体が見えた。声の主は後方の荷台に座り込み、いくらか所在ない様子で、『話し相手が出来るなら、もう、誰でもいいや』とでもいった様子で、あきらめ半分で、くつろいでいるように見えた。私に対しても、冷やかしではなさそうだが、衣服を含めた自分の外見と、誰かと連絡を取っている場面とを見られたのは確実だった。組織の連中の憶測をも裏切る形で、すでに歩を進めており、私の現在位置は、約束の現場までものの数分の距離である。ここで処置を誤ると、後々面倒なことになる。すべての疑いを払拭するために、すぐに対応を考えなくてはならない。 「上司からのつまらない電話だったのよ。これから仕事だから、その細かい指示を受けただけなの。とにかく、口うるさくて嫌になっちゃう!」  寒さを凌ぐ以外の用途を到底考えられぬような、どこの大衆デパートにおいても、在庫処分のバーゲン価格で売られているような、生地が薄い、安物の黒いコートをひらひらとさせながら、『この格好で、オシャレな街でのデートはないでしょう?』と、仕草を添えて答えてやった。 「なるほど、そうでしたか。もし、時間が空いているなら、少しお高い店でお食事でもいかがかと、思ったんですけどね。こんな夜に、流行りの店に一人では入りにくいですから……」 「ありがとう、こんなに魅力的なお若い方から誘って頂けただけでも、十分に嬉しいわ。そうね、これから、華やかなイベントが始まって、特別な夜になるんですものね。こういう出会いは特に大切にしなきゃね。もし……、仕事があっさりと片付くようなら、その帰りに、また、この道を通ると思うから……」  その男性はこちらの丁寧なお断りを、少しも疑わぬ様子で、幼さを含んだ、にこやかな表情のままで、何度か頷いた。そして、『君の仕事が終わるまでは、ここで待ってるよ』とばかりに、少し名残惜しそうに、その手を振ってみせた。その表情には、軽薄な無法者たちが、ナンパに失敗したときに見せる、独特の悔しがり方とはまるで違っていた。それはつまり、今、声をかけてみた女性(ひと)は、逃がしても、あまり悔いのない程度の獲物であったとも取れるわけで、『あの女が、あと五歳ほども若ければなあ、少しは本気になって、追いかけてやっても良かったんだが』という、軽い口惜しさも見え隠れしていた。誘いを無視して、その手を払いのけて強引に通り過ぎたり、首を大きく振って断ったりした途端に、こっちの足元に唾を飛ばしてくるような連中だって世の中には腐るほどいる。それに比べれば、彼の対応は非常に紳士的であった。棘がなく、無邪気で明るい笑顔が特にこちらの気を引いた。もし、趣味の方向が少しでも合っていれば、楽しいトークの出来そうな男性だった。こんなに緊張するイベントの最中でなかったなら、お茶の一杯くらい、付き合ってみても良かったのだが……。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!