場違いな衣装 第三話

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場違いな衣装 第三話

 ずいぶん広かったはずの歩道は、それぞれ何の関連も持たないはずの通行人たちの群れによって、徐々に混雑を増していき、旅行者たちの自由度をも狭めていった。本来はただ安いレストランでの食事のために訪れた人々も、次第に、この波のゆく手に興味を持たざるを得なくなっていた。最初は広場のようにみえた空間が次第に埋まり始めた。自分にとって大切な儀式のために、せっかく準備をしてきた素敵な花束が崩れて落ちないように、胸の前で力を込めて大事に抱えた。その態勢のままで、野次馬たちを半ば強引に掻き分けながら、前へ前へと進まなければならなくなった。このまま、活気あふれるイベント参加者で埋もれる大通り沿いの道を、自分を妨害する通行人たちの背中を強引に押しつつ、真っ直ぐに進んでいった方が、距離だけで考えれば、明らかに近道ではあるのだが……。どうしよう、あまり目立つ行為をとってトラブルを引き起こすと、大勢の通行人に服装や顔を見られ記憶されてしまうことになるし、気が立っている客に睨まれ、それ以上に不要なトラブルに巻き込まれるかもしれない。短気に身を任せて口論を起こし、警察が寄ってきてしまったら最悪だ。それに、万が一の事故に巻き込まれた際には、この人混みでは逃走しづらくなる。さらに言えば、今夜のフェスタに乗っかろうとする人たちで、本来の移動予定時刻よりも、大幅に早い時間でありながら、すでに沿道が人で埋まってしまっている。そのうち、つまらない欲に駆られて、物見がちにデパートの閉店セールにでも突入したときのように、この場で身動き一つ出来なりトイレや食事でさえも、ままならなくなるのかもしれない。そういう事態になってからでは、素早い判断や機敏な動作はきわめて難しくなり、本来の任務に入る前に、脱出不可能になってしまうだろう。  右手に若者に人気のコーヒーショップの派手な看板が見えてきた。その内部には、休息のための席を求める人たちで余計に混み合っていた。テーブルを囲んでいる、派手に着飾った数人の若い女性とガラス越しに目が合った。『せっかく、並んでとれた席を貴女なんかに譲るわけないでしょ!』こちらは何も申し上げないのに、怖い視線を向けてそう訴えているようにも見えた。  距離的には少し遠回りになるが、次の分岐点で、一度右折して、狭い路地に入っていく方が結果的には良いのかも……。その場合、逃げ道が多少心配にはなるが、無難な結果に収まるのなら、その方がいい。 『今夜について言えば、街は相当混むでしょうけれど、貴女の出番がくる時刻までには、イベントホールに繋がる歩道には、観衆も警官たちも、まだ少ないはずです。なるべく、無関係者に外見を見られないように、現場まで移動するだけなら、ほとんど問題はないはずです』  あの野郎、裏付けがまったくない、曖昧な情報ばっかり流しやがって! 絶対的な根拠の伴わない情報は、実行する者にとっては、肝心なときに余計な迷いを呼ぶことになる。きちんとした裏付けが取れていない情報であれば、無理にこちらの耳に入れてもらう必要はない。非常の時に余計な混乱を招くからだ。それから、数分も経たないうちに、歩道の上の通行人たちの量は、どんどん増えていくように思えてきた。心臓は高鳴り、不安は否応なしに増していく。私は意を決して、街の中央を貫く大動脈をあきらめて、先ほど思いついたばかりの、裏の路地を進む作戦に出ることにした。慣れない現場と、初めて顔を合わせる相手がいる以上、そのすべてが思い通りの方向に進む仕事などあり得ない。裏社会で働く人間なら、常日頃『それほど大金が欲しいのなら、少しは危険に身を晒せ』と、口酸っぱく言われているわけだし、現にもっと大勢の人の目に自分の身を晒しながら、火炎の上の、細い綱をハイヒールで渡っていくような、非現実的で無慈悲な仕事だって、これまでに何度となくこなしてきたわけである。目撃者となり得る通行人が、思っていたより多いくらいのことは、大したアクシデントではない。   暗い路地はいくらか入り組んではいるが、この広大なベッドタウンのあちこちを、碁盤の目のように結んでおり、方向さえ合っていれば、目的地の具体的な見当はつかなくとも、ほんの少しの向きの修正で無事にたどり着けるはずだ。やはり、晴れ着に身を包んだ人々は、この暗い裏路地には、ほとんど姿をみせなかった。駅前の小さな本屋で購入してきたような、全米中の都市でばら撒かれている、大雑把な地図しか持ち合わせていないはずの旅行者たちが、小型の拳銃さえ携帯していないにも関わらず、わざわざ、視界もほぼ効かない不穏な空気漂う裏道へ入って来るとは考えにくい。『大通りを使うことが適切』という当初の予定を覆すという、この大胆な判断であったが、実のところ、正解だったのかもしれない。ただ、ここからは警察の巡回に余計に気を払う必要がある。もはや、ただ迷子になっただけの観光客を装うことは難しくなったからだ。  街灯は整備がまるで行き届いておらず、ほとんどの電灯は芯が切れかけていて、チカッチカっと薄い光を放ちながら、不気味に点滅している。地面には歩行者が捨てたゴミと枯れた落ち葉と安売りのチラシや腐り切った果物の皮が散乱している。狭い通りを囲むように立ち並ぶ、安アパートの窓明かりも薄くまばらで、この一区画に居住者がどの程度住んでいるのかは、さっぱり分からず、『誰も住んではいない』と断言できない分、かえって不気味な雰囲気を演出している。指定された現場は、もう、すぐそこなのだが、まだ、警備員やマスコミ関係者らしき人間の姿は確認していない。彼らは「人気俳優が劇場に向かうまでの短時間の間に、予期せぬ凶行に巻き込まれてしまう」という大胆な想定はできていないのかもしれない。実際にこの街では、過去にそんな事例はほとんど発生していないわけであるし……。  時間はまだ少しだけ足りているが、なるべくなら、数分ほど早めに現場に到着した方が成功率の向上に繋がるだろう。危険な約束ごとは、相手が慌てて目的地に到着する姿を、万全な体制で待つに越したことはないからだ。付近のアパートの住民たちが人の目を気にしないような恰好をして、平気な顔で行き過ぎていく。こちらの存在を怪しむ様子も、今のところまるでない。まだ、この賑わう街のどこにおいても、事件も事故も起きてはいないからだ。他人の視線がこちらに向けられていないのなら、歩む速度は出来るだけ速める。左側の石壁に上半身裸の浮浪者が、空腹と持病のために、すっかり力を失くして、もたれかかっていた。私の細腕が手を貸してやっても、立ち上がれるとは思えない。このまま放っておけば、たった数時間後には、背中に白い羽が生えてきて、天界の使徒たちの仲間入りとなりそうだ。だが、この私が天使のような御心を発揮して、病院や消防に通報してみたとて、この男が保険料を満額支払っていなければ、救急車での搬送にさえ、それなりの医療費がかかり乗車拒否されるご時世である。可哀そうだとは思うが、自分だってこの仕事でポカをすれば、明日にも同じような運命を辿ることになる身の上である。人生は常に成功か敗退。もし、その確率が二分の一であったなら、挑戦者としては、文句のつけようもないところだ。だが、スターとして生まれる確率も、その生涯報酬も常人の数万倍という圧倒的な大差があるからこそ、そこに欺瞞や嫉妬や裏取引や恐るべき犯罪が生まれる余地が生まれてしまうのだ……。 『あの人さあ、この間の試験もダメだったんでしょ? もう、何度同じことを繰り返すのかしら? 見ているだけで、可哀そうよねえ……。今度こそ、最終メンバーに残れるかもって、あんなに張り切っていたのに……。自分だったら、耐えられないわ……』  他人からは絶対に言われたくないセリフだ。ああ、こんなときに、見たくもないフラッシュバックが……。額にハンカチを押し当てて、何とか冷やしてやろうと、無駄な抵抗を試みたが、否応なく暗い夢想は広がっていく。 『どうだったの? 結局、キャストにはなれなかったんでしょ? それなら、ぜひ、自分の名前が飛ばされたときの感想を聞かせてよ』  何人の友人に……、いや、こちらで勝手に友人だと決めつけていただけの人たちに、そう言われたことだろう。彼女たちと日々交わした、さりげない言葉の中には、憐れみや同情の念などは、これっぽっちもなかったというのに……。  私が学校に通いながらも、何度も舞台俳優を選出するテストに挑戦していたことは、多くの同級生が何となくは知っていた。出席日数の関係で、数名の教師から、特別扱いを受けたことがあったせいである。放課後の厳しいレッスンを数年に渡り重ねて、何度か書類審査を潜り抜け、二次や三次の演技テストにまで進み、その度に撮影スタジオにまで呼ばれるようになり、名の知れたプロデューサーから励ましの声もかかるようになった。  あと、もう少しで成功をつかみそうだった頃、不用意ではあったわけだが、私としても、業界の人と連絡を取り合っていることに内心得意になってしまい、かなり浮かれた気分でいた。有名な演出家にレストランでの食事に誘われたことを知人たちの前で話してしまったことがあった。映画関連の企業からの二次審査の合格通知を、友人たちの眼前にひけらかした記憶もあった。後から遡って考えれば、そういった軽はずみな行為の数々が、知らぬ間に人間関係を少しずつ悪化させていたのかもしれない。あの頃、少しでも自分の未来の可能性のことを深く考えていれば……、他人の中途半端な成功話なんて、我がことのように喜んでくれる、お人好しの友人など、私の側には、ひとりだっているはずもないことくらい、簡単に判断できたはずなのに……。 『あのスタジオの演技試験を三次まで通るなんて、すごいね!』 『上手くいけば、来年には舞台に上がれるんじゃないの?』  上辺だけの作り笑いを繰り返して、できる限りのお愛想を込めて、適当な相槌を打ちながらも、その裏では、みんなで私の計画の破綻を全力で願いながら、薄笑いを浮かべていたのだ。上位のオーディションでは、外見でも、歌唱や演技力においても、他の国に比べて圧倒的にレベルの高いこの国においては、上には上がいるものだ、ということを思い知らされただけに終わった。  レッスンに通い始めてから数年後、将来を賭けた大勝負には、完全に敗れ去り、夢を打ち捨てて、映画と演劇の街を重い足取りで去る羽目になり、家族や友人からの温かい出迎えを求めて、何とか故郷に戻った頃、自分を侮辱するような匿名の手紙が、毎日のように実家のポストに投げ込まれるようになった。私がここ数年に渡り、生活していくための金に困り、食いつなぐために、ほとんど裸のような格好をして夜の街に立ち、風俗店や深夜営業の酒場の呼び込みをやっていたとか、場末のスナックで一晩いくらで酔っ払い相手に嫌らしく絡み合いながら、一緒になって踊っていた、などという、根も葉もないデマが近隣の街にまで流されていたのだ。実家の近所に住む、顔も見たことのない若造たちが、自分たちの行き先のない人生の憂さを晴らすために、はやし立ててやろうと毎日のように近寄ってくる。こっちがムキになって、いかがわしい噂を否定しようとすると、向こうはさらに盛り上がって、余計に笑いものにされた。それなら、すべてを無視してやろうと、分厚い耳栓をつけて、取り澄ましたような顔をして街を歩いてみても、『君の望み通りに、一流の風俗嬢になれて良かったな! それで、ここ三年でいくら稼げたんだ?』などと、会話もしたこともない若い男女たちから執拗に声を投げられた。  こんな状況下で、老年まで平然と暮らせる神経を持った人がいるのかは知らないが、そんな日々がこれからも延々と続くことを思うと、私は気が狂いそうになった。半月も持たずに故郷を捨てて、資金が許す限り、なるべく遠くまで逃げ出すことにした。しかし、自分の気に喰わない人間が、いったん弱みを見せると、相手が完全な燃えカスになるまで満足できないハイエナたちは、さらに本領を発揮するものだ。耳にぶち当たってくる卑猥な雑音のすべてを、一つひとつ消し去っていくのは、簡単な作業ではなかった。ある日、夕飯のための買い物から家に戻ってみると、私と昔通っていた劇場の下っ端のスタッフとが性的な関係にあったことを詳しく書き記した、バカげた三流週刊誌の記事の切り抜きが、三十枚以上も拡大コピーされて、郵便ポストの中に放り込まれていた。夜中に突然通りの方から石を投げつけられ、窓ガラスが粉々に割られたりした。ドアの表面には、私が結局なれなかった、恋愛映画のヒロインの名前が、赤いペンキで下品な書体で、これ見よがしに大きく書かれていた。『この名前を一生背負っていけ』とばかりに……。  私は直接的には、彼らに対して一度も嫌な思いをさせた覚えがないのに、人間という生き物は、己が楽しみのために、あるいは単純な刺激欲しさに、ここまでのことをするのだ。たった半年の間に、住所を三回も変える羽目になった。たった一つでもいいから、助けとなり得る、温かい言葉が欲しかった。でも、一番仲が良かったはずの友達たちでさえ、最初から最後まで、いっさいの連絡を寄こさなかったのだ。警察も法律も同級生との仲間割れと境界線上にある、曖昧な暴力に対しては、すべてが無力だった。  人生の大きな挑戦に敗れてしまい、ゼロにまで戻されるのであれば、まるで違う線路上にある、新たな生活を一から踏み出すために、それは良いことでもあるはずなのだが、勇気をもって挑んだチャレンジに勝てなかった敗残者に向けられた、『善良であるはずの市民たち』から贈られた、強烈な悪意に対しては、幼少の頃から抱いてきた、私の切なる願いたちは、今の自分にとって、まったくプラスにならなかったのだと思い知らされた。それからの人生は大幅な負債を持って、進むことになってしまった。  漆黒に染められた過去に意識が飲み込まれて、いつしか、自然に呼吸が止まっていた。このままでは、すべての思考が停止してしまいそうだ。気持ちを少しでも前向きにするために、バッグの中の小型のベレッタを一度取り出して眺めてみた。金色に輝く弾丸が六発とも、きちんと弾倉に込められていることも確認して、それをコートの右側のポケットへ移した。人生で一度だけ、自分とその人との運命が交錯する瞬間があるとするなら、その時刻は今やすぐ傍にあるとでも思いたい。そうでなければ、過去の友人を名乗る亡者たちに、こちらの神経が喰い殺されてしまう。今夜、これから起こることは、決して犯罪などではなく、過去の悲しい自分へのせめてもの罪滅ぼしになれば良いと思っている。  無意識のうちに、直線距離で二百メートルほども前へ進んでいた。一週間前の下調べの際の目安通り、狭く目立たない十字路を立ち止まることなく左折した。前方からは大通りに溢れる光線が少しずつ差し込んできた。目的の小綺麗な外観のホテルが目の前に見えてきた。一度、黒革の手袋を外して、バッグの一番下から、小型の薄い茶封筒を取り出した。中には大切に持ってきた、鮮明に写った若い女性の写真。写されたのは、今から、約五年ほど前。若い俳優は化粧と整体によって外見のすべてを誤魔化すから、今夜のイベントでも、十分に使えるわけだ。ホテルから飛び出してくる際、標的は必ず顔を隠すだろう。つまり、目的地のすぐ傍まで近づいてから、細部をいちいち確認する行為に、それほどの意味はない。ただ、今回の場合、我が標的の顔をもう一度視野に入れておくことは、この上なく、気持ちを落ち着かせることがよくわかった。肩まで程よく伸ばして、ナチュラルにカールした金髪。大きな青い瞳にくっきりとしたまつ毛。少し頬骨が出ているが、このタイプの顔の場合は、それが良い方への特徴になっていて、決してマイナスにはなっていない。国中の若い男性からの絶えない声援が、それを証明している。外見が美しいだけで、記者からの質問に対して大した受け答えもできない、中身のない女優はあちこちで見かけるが、彼女の場合は舞台の上でのすべての表現に、他人を喜ばせるための愛嬌と知性があふれ出ている。自分の演技にどうすれば観衆が好意を持ってくれるかを、深く研究している。多くの観衆を引きつけることが出来るのは、演技や歌声だけではなく、結局のところ、そういった才能があるからなのだと思う。私が挑んだ最終オーディションでの当否の差も、そこにあったのかもしれない。当時の私には、その辺りがまるでわかっていなかった。もちろん、これ以降の見苦しい言い訳は、この忌々しい写真を手元に持ち出してまで、いちいち披露することはないだろう。  彼女は今夜の一大イベントのヒロインである。当然、舞台を見る人によって好みはあるのだろうが、あの人の笑い方や演技を好きだの嫌いだのと評して、自身は酒を飲んで見苦しく騒いでいるだけの、ただのやじ馬たちと自分は違う。私だけに課せられた、特別な感情を長い間持ち続けていた。ただ、その詳細を、彼女に伝え得る方法は、今や何も存在しないのである。勝者と敗者は過去にも未来にも、絶対に共存し得ないからだ。才能の有無は存在する空間を痛烈に引き裂くのである。出来れば、早く彼女に会いたい。左腕で花束を支え、右手をポケットに入れたまま、ゆっくりとした足取りで路地を抜けて、自分以外の不審な人通りが無いかを用心深く確認してから、ホテルの正面へと踊り出た。しゃれたデザインの小規模なブティックホテルであった。それほど目立つ看板は出ていない。本当にここで合っているのだろうか? 待ち伏せる場所は予定と100%一致していなければならない。不安にもなるが、もはや、行き過ぎる他人との交渉は出来ない。  自分の生活費をどんなに汚い手法によってでも取得しようと近寄ってくる、意地汚い報道関係者や『どうしても握手をさせてくれ』と、しつこくせがんでくる、熱烈なファンたちの視線から逃れるために、あの大女優は、すべて合わせても十五室ほどしかない、この小規模なホテルをわざわざ選んだわけだ。もちろん、舞台のヒロインの沽券に関わらない程度の高級感はあった。しかしながら、実はそれこそ、こちらの思い通りなのだ。例えば、衆目を集めるお大尽の泊り客が多くいて、それを追うマスコミの前衛基地となっているようなホテルでは、こちらが待ち伏せしやすい、正面入り口前の通りや駐車場付近が、必然的に観光客で混みあっている。賑やかなホテルのすぐ近くにおいて、完璧な仕事を求められたら、こちらとしては困るわけだ。  身の危険を感じるほどには、人通りは多くはなかった。それも、今夜のイベントとは、おそらく無関係と思える通行人がほとんどであった。そのことは想定外の幸運と表現しても良かった。こちらの動作に気を配る、不審な視線も今のところ感じることはない。映画会社から派遣されている警備員も、差し迫った用があって、速度を上げながら巡回してきたパトカーも、お目当ての女優の匂いを嗅ぎつけてやってきた映画オタクたちも、この付近には、まだその姿を現していなかった。  さりげなく上を見上げて、四階の一番右の窓の様子を、確認してみた。もちろん、カーテンは閉められていた。しかし、その部屋の灯りは、まだ点いているように見えた。ただ、単なる消し忘れや、こちらの目を眩ますための小細工かも知れない。勘が鋭い相手だったら、様々な不安要素を警戒して、色々な手段を講じてくるだろう。ホテルの入り口からは一刻も目を離せない。猟師の目を欺いて、暗い林の中から、突然、飛び出て来る白貂のような素早い動きで、この網の目をすり抜けられてしまうかもしれない。ここで標的を見失ったら、今夜の失態のほとんどすべてが、私の落ち度になってしまう。さりとて、何の目的も示さずに、ホテルの真ん前に長時間突っ立っているわけにもいかない。おそらく、本人は今頃、会場までの移動のためだけの念入りな化粧でもしていて、イベントホールは徒歩でも、それほど時間のかからない距離であることから、こんな余計なことをしていても、リハーサルの時間には、まだ十分間に合うと、呑気に構えているのだろう。標的は自分の周囲で、今現在何が起きているのかをまったく知らないはずだ。悠長なものだが、焦らされるのは常にこちら側だ。ホテルの従業員の視角にうっかり入ってしまい、その一瞬の反応で、不審者と判断されてしまえば、それだけで通報される恐れがあった。  今夜のイベントに使用される大劇場の開場の時刻が少しずつ近づいてくる。直前に受けた情報によると、彼女自身はオープニングセレモニーには登場せず、出演するのは、メインイベントである演劇の後半部分のみだから、おそらく、すでに会場入りしている、他のスタッフの予定には、合わせるつもりはないのだろう。ただ、こちらの状況はかなり悪く、後数分もここにはいられない。このままでは不測の事態が起きかねないからだ。一番嫌な時間帯だ。壁の方を向いて、中世からの歴史を感じさせる、古い煉瓦の間の傷を意味もなく眺めながら、バッグやコートの内ポケットの中を何かを探すようにまさぐっているフリをした。万が一、警察官が通りがかったときに、ここで待ち人をしているために、タバコや口紅を探しているように見えてくれればそれでいい。後方で誰かの足音が聴こえるたびに、極力、気配を消す努力をした。『姿を見せたいのに、まだ、見せられない』病院に飾られている比較的目立たない色合いの観葉植物のような気持ちになった。  ついに、腕時計の針は指定の時刻を指してしまったが、危惧していた通り、標的が出て来る気配は感じられなかった。時間の経過とともに、大通りを伝って会場へと向かう通行人は、さらに勢いをもって増えていく。高層ビルのイルミネーションが点灯され、人声は次第に高く大きくなっていき、街の雰囲気は少しずつ騒がしくなっていく。いくら図太いといわれている私でも、こんなに人の往来の多い場所で、いつまでも、のんびりと佇んでいるわけにはいかないのだ。暗がりでも写せる、高性能カメラを構えた、マスコミ記者たちや、それに追随する自称演劇マニアや機動隊バイクの巡回が、いつ来るだろうかと恐れていた。そして、手元に抱えている、つい先ほど購入したばかりの、美しいバラの束をふと見た。相手に手渡す前に萎れてしまわないかが気になっていた。私にしてみれば、これだって、大切なイベントのひとつなのだ。  さらに五分が過ぎた。周囲の目をごまかすために、タバコを吸おうかとも思ったが、その行為自体について、マネージャーから、何度も叱られていることを思い出して、ここは考え直した。この後、任務が首尾よく進んだ場合でも、その余計な動作だけでお叱りを受けることになる。今後とも、嫌々ながらに、この仕事を続けていくにしても、マネージャーと直に会って酒を酌み交わすことには絶対にならないだろう。だが、もし、そんな機会があったとしたら、今までのたび重なるルール違反を理由にして、彼女は出合いしなに、私の顔面を思いっきり引っ叩くだろう。それだけは、まるで、すでに体験したことのように、はっきりと想像できる。もし、我々二人が目的の異なる裏組織に勤めていたら、裏通りでのすれ違いざまに、躊躇なく殺し合っていたかもしれない。それくらいの関係である。こんな愚にもつかない想像を膨らませて、高鳴る気持ちを抑えつつ、目当ての標的をじっと待つしかなかった。呼吸はまだ平常だが、焦りと不安で、右足が微妙にバウンドしている。上を見上げると、いつの間にか、四階の窓の明かりが消えていた。ほとんど意味のない演技だけで、平静を保っているのも、そろそろ限界に近づいていた。こちらの期待に応える形で、私の標的はようやく動き出したようだ。こちらが我慢を限界ぎりぎりまでできたことが、ここにきて、ようやく功を奏したのかもしれない。  左側の聴覚に、ホテルの入り口のドアが静かに開いていく音が聴こえた。その内側で、今頃丁重なるお見送りをしているはずの、スタッフたちの掛け声は、この距離だとまるで聴こえてこなかった。まだ視線は壁を向いたまま、体勢はピクリとも動かさない。長い長い数秒間の後で、目立たない色彩の茶色いクロークに身を包んだ、うら若い女性がうつむいたまま、おずおずと歩み出てきた。顔もうまく隠れている。あの外見では、カメラマンが眼前で待ち構えていても、今出て来たのが一般市民だか、何らかの重要関係者だか、それとも、荷物の配達員だか、さっぱりわからないだろう。彼女は大通りの前に立つと、右から左へと素早く視線を走らせた。これから会場に向かうだけの、一般の泊まり客であったら、あんな慎重さは持っていないだろう。自分がどれほどの要人であるかを、明らかに知っているような素振りだった。誰にも張られていないと判断すると、いくらか安心した様子を見せて、広い通りを北に向けて力強く歩み出した。任務開始の時刻は、予定していたものより、だいぶ遅れてしまっていたが、動きのまったく読めない相手である以上は、常に計画通りにいくわけではない。十数人の天才的なスタッフたちが、ここ数週間、寝る間も惜しんで作成した今回の計画だったが、やはり、いささかの不備はあったわけだ。それは仕方がないことだ。この穴は、自分の方でカバーするしかない。今夜の仕事に同僚への不満を抱くことは禁物である。気持ちを熱くせずに冷静に遂行してやろう。  なるべく、気配を消したまま、靴音を少しも立てずに、周囲の誰とも無関係を装いながら、私の足は動き出した。彼女が何らかの気配を察知して、不意に振り向いたとしても、その視界の中には、こちらの身体がなるべく中央には入らない位置につけた。危険人物はすぐ真後ろにいるのに、相手はまだこちらに気づいていない。間抜けな話にも思えるが、親に頬を叩かれたこともない、あんな小娘に後方からの殺気を感じ取る能力など、備わっているはずもないのだろう。そのうち、不穏な空気に脅えて、何の脈絡もなしに振り向くのかもしれないが、万が一、視線が合ってしまったとしても、今夜はそれこそ雑多な種類の人間が街を歩いている。ぼろをまとい、あてどなくぶらぶらと徘徊している、明日をも知れぬ浮浪者から、旅慣れない東アジアからの団体旅行客、それから、プログラムを片手にイベント会場へと向かう、富裕層の著名人たちまで……。どれも疑いを持つべき存在とは思えず、彼らが何らかの拍子に振り返って、私の姿を見たとしても、買い物帰りのただの通行人だと思うに決まっている。ほとんどの人間は、ただならぬ嫌な予感を感じていたとしても、自分の良い方にしか解釈できないものだ。ただの傀儡である。私個人としては彼女の人生自体に重要な用事があるわけで、向こうの素性のほとんどを興味をもって調べているのだが、そもそも、遥か昔にすれ違っただけの二人であり、面識など、ほとんどないに等しいのだから……。  ただ、誰が見ているかも知れないこの大通りで、下手な動きは出来ない。ポケットの中の武器を取り出してみせるなど、もってのほかだ。十階をゆうに越えるビル群が周囲にひしめいており、その手に望遠鏡という存在ひとつさえあれば、地上の路上の隅を歩いている人間をも、その視界に捉えることは容易にできる。当然、一つひとつの動作には、十分な警戒が必要になる。この世界には、暗殺者を見張るための専門の密偵だって存在する。彼らは不審者の密告も、手に負えない残虐な事件の後始末も、警察の手の回らないことなら、何でも引き受けるという。  この広い道の前方のどこかで、何かに驚いたような、大きな歓声が上がったような気がした。著名人がステージに上がったのか、それとも、開幕を告げる花火が打ち上がったのかは、この位置からでは判断がつかなかった。開場の時刻まで、あと一時間を切った。そろそろ、会場の前に入場券を手にした人の列ができる。数人のスタッフではその処理ができず、人通りがさらに多くなる。この様子では、まだ標的には近づけない。不用意に接近してしまい、このタイミングで危険を察知され、大声でも出されてしまうと、あらゆる不測の事態に襲われるだろう。私は十五メートルほどの距離を取って、なるべく、自然な振る舞いで後を付けていくことにした。慎重に獲物の動きを伺っていたが、あくまで一人の女性としての動きであり、自分の身に迫る何かを警戒しているようには、まったく見えない。そもそも、行き過ぎる人に顔を見られて困るのは、本来であれば、私などよりも、向こうのヒロインのはずなのだが……。彼女は一度も顔を上げたりはしない。うつむき加減に歩みながら、最初の街灯の下まで来ると、何の迷いもなく、右手に進路を変えた。人の目につく広い通りはあえて使わず、出来るだけ近道となる、細く暗い路地を抜けて、狭いマンション通りを抜けて、向こう側の大通りにショートカットをして、そこで、劇場へと案内してくれる送迎車に乗り込むつもりなのだろう。こちらのスタッフの事前の調査によると、その判断が採用されるのは、およそ80%程度の確率らしい。今夜もおそらくは、同じような移動手段を取るだろう、と上役からは聞かされていた。幸運にも、それが的中したようだ。当然、向こうの通りに抜けてしまうまでの、ひと気のない細い路地を歩んでいる際の、ごくわずかな時間帯が勝負となる。この路地を抜ける前に、ごく自然に近づいていき、向こうに気配を悟られないうちに、背後から声をかけられればいいのだが……。  しかし、私が後を追って路地に入った刹那、前を歩いていた標的は、明らかな意図を持って、こちらの方を振り返った。日頃から、自分の動きが常に他人の目に晒されている、有名女優としての『慣れ』なのかもしれない。意外なことだが、誰かが後をついてきていることを薄々と感知していたようだ。彼女の脅えた目は、私が明らかに悪意を持った他人であり、確実に追ってきていることを確信した。こちらの右手は、まだ、コートのポケットに入れたまま。そして、左腕には薔薇の束を抱えたままである。大女優は自分の方へと速足で近づいてくる、こちらの姿をはっきりと見たはずだ。どんなに鈍感で間抜けな人間でも、熱烈なファンが今夜の出番を祝福するためにわざわざ来てくれたのだ、とは思わないだろう。標的の顔色がはっきりと変わったところを確認できた。もう、存在すら疑わしい一般人を装うような、余計な演技などをする必要はない。 「ちょっと、待って、待ちなさい」  無理だとは分かっていても、少しでも相手を安心させようと発せられる、こういったセリフは、道徳や法律に対して、真正面から歯向かうような、禍々しい仕事を長いこと勤めているうちに、自然と喉の奥から出てくるようになった。買い物かごを片手に持った、近隣の住民と思われる通行人が、何らかの不測の事態が出来していることを察知して、その場で歩みを止めて、真っ青な顔をした若い女性を追っていく私の姿や、その動きの一部始終を記憶に留めようとしている。標的は未来の通報者の目の前を全力で走り抜けていく。こちらとしても、今さら、一人ひとりの目撃者の細かい動向などを気にしていたら、こんな危うい仕事はやってられないのだ。事の成否も明らかになっていないのに、余計な犠牲者を出すのはまずいだろう。家庭生活においても、大掃除のときに目についた害虫や汚れたネズミたちを、すべて処理していけるほど、神経の行き届いた主婦はなかなかいないはずだ。しかしながら、何も危害を加えてもいないうちに、あちこちに通報されてしまい、真っ先に容疑者にされてしまうのも困る。ポケットにもバッグにも、当然、凶器は入っているし、警察から職務質問を受けたら、司法試験に通ってしまうほどに口が回る、知的な殺し屋でも、もはや、誤魔化すことは出来ないのだ。そこで、なるべく余裕の態度を装って、それらの疑惑を少しでも払拭しておかなくてはならなかった。私はこれから会場へと向かう有名ダンサー、いや、舞台女優なのだから……。  この細い路地の四方を取り囲む古い建物たちは、貧しい数家族が同居するような、安っぽい賃貸アパートばかりなのだが、右前方にそびえるアパートメントの三階の窓がふいに開かれて私の視線を誘った。騒音や光線などにより、この事態の何かがバレてしまったわけではなく、それは、ほんの偶然であった。部屋の内部からは、呆けた表情をした中年の女性が、ほとんど何の目的もなく、呑気に顔を出した。外の空気を吸いたかっただけの中年女は、今のところ、これから、大変な事件が起きようとしていることなど、予感すらできていない。その行動をあと五分ほど後ろにずらしてくれれば良かったのに……。よりにもよって、まったく、こんな時に! 私は再び息を整えて、自然と視線を地面へと伏せる。 『夕飯前にちょっと部屋の中の澱んだ空気を入れ替えようと思っただけなんです。私は何も考えずに、自然な仕草で窓を開いたんです……。そうしたら、まあ! あんな凶悪な事件を、この目にしてしまうなんて……』  翌日の大衆新聞において、そんな有力情報が載ってしまうと、こちらとしては大いに困る。多くの善良で暇な庶民は、殺害事件の現場に居合わせたい、などとは露ほども思っていないものだ。ただ、何の気なしに一大事の起こる前の現場へと近づいていく、図太い嗅覚だけは貧民の誰もが持っている。大事件の唯一の目撃者という肩書に何らかの魅力を感じるのか、それとも、自分の恵まれない人生に箔をつけたいのか、警察官に根掘り葉掘り尋ねられるのが、とにかくお好みの様子である。その上で、第一発見者の自分が、もし、容疑者にされてしまうとなると、これはもう、まさにサスペンス映画さながらであり、余計にスリルを感じたりもするらしい。警察署の面会室で安いお茶などを出されると、聞かれもしていないのに、あることないことぶちまけ始める。今の私のような、犯人側からすれば、これ以上迷惑な話はない。犯した罪については償う必要があるのだろうが、関わってもいないはずの事件のことまで、罪に問われる可能性が出て来る。どんなにあどけない人間に見えても、警戒は欠かせない。  こちらとしては、それほど慌ててはいけないのだが、鏡の前でせっかく整えてきた、その長い美しい髪を振り乱して、懸命に逃げていく舞台女優との間合いが、まったく開いていないことを、上目遣いで確認しながら後を追った。そして、コートの内ポケットから、チタン製のサイレンサーを取り出して、拳銃の銃口の内側のねじ切りに、静かに落ち着いて、指先には少しの震えもなく……、ゆっくりと廻して取り付けた。前を行く女優は、この局面において、不審者に追われているということが、どの程度危険な状況なのかは、すでに理解できている。ただ、追われている二つの要因を確実に理解しているのかどうかは甚だ疑問であるが……。おそらく、本番直前に護衛も付けずに、徒歩でこの暗い路地を抜けていくという選択には、多少の不安は感じていたのだろう。だから、今の最悪の状況に対して、事後の努力において、何とか苦境を脱してみせようと、ムキになるのはよくわかる。だが、それならば、なぜ、あんなに高くて走りづらい、まるでフラミンゴのような目立つハイヒールを履いてきたのだろうか?   彼女との間合いは、ほぼ十メートル。完全に錯乱している標的の身体は、疾走しながらも、右へ左へと大きくぶれていく。ただ、この暗がりや住民の視線など、不確定要因はまだ多く、容易に引き金は引けない。この周囲には路地裏の暗がりを、上半身Tシャツ姿で、平然とうろつくことが出来る、恥を知らない貧困層の住民どもが多く居住している。ということは、一発たりとも外すことは出来ないわけだ。高性能の静音機はすでに取り付けてあるが、すべての住居の窓と、この狭い路地のあらゆる十字路との間合いが、これほどまでに密着していると、ほんの少しの偶然によって、殺害の際の銃声を誰かに聞かれてしまう可能性は十分にある。それに、その柔い身体に撃ち込んだと思った瞬間に、わき道から自転車に乗った、空気の読めない邪魔者が突然飛び出して来て、本人すら望んでいない生贄にならないとも限らない。事実、そのようなきわめて不幸な手違いにより、暗殺者本人の落ち度は一切なかったにも関わらず、警察の手に落ちる羽目になってしまった同志も少なからずいるのだ。  碁盤の目のような、この細い路地は、緩くカーブしながらも、あと七十メートルほどは続く。そこを抜けた先の広い路地には、おそらく、迎えのハイヤーや警備員が万全の態勢で待ち構えているのだろう。そのことを考えると、仕事を成功させるには、もう、あと十数秒がリミットとなる。私はここが勝負所と読んで、最大限歩みを速めて距離を詰めていく。もう、第三者の目は気にしなくてもいい。少しずつ、獲物との差は着実に詰まっていく。必死に走るヒロインは、仄暗い路地の先に、微かな光を見つけたようで、そこに命が助かる可能性をわずかに見出したようだ。光の方向に向けて、一刻も後ろを見ずに懸命に駆けていく。しかし、錯乱状態の身体の動きによって、器用にゴールまで走り切れるほど、数か月前から練りに練られた、この舞台は甘くはない。貴女がこちらの世界の動きをまるで知らなかっただけで、今夜のシナリオの行く末は、冷酷な運命によって、すでにがんじがらめに塗り固められていたのだ。  獲物の身体は、右壁沿いに意味もなく放置されたゴミバケツを、何とか避けようと、足がもつれて、大きくよれて、こちらとの距離がまた少し縮まった。私はこれまでずっとコートの内に隠していた右手を、ゆっくりとポケットから出した。『さあ、こっちを見なさい』と標的に宣告したいわけだが、もう、大通りはすぐそこに迫っている。絶対に声は出せない。標的となった、可哀そうなヒロインは、死が間近に迫る恐怖には到底勝てず、最大限の哀願の眼差しによって、最期にもう一度、こちらを振り向いた。 「お久しぶりです。でも、どうせ、覚えてないんでしょう?」  当然、私の手に握られた漆黒の拳銃を、その美しい瞳に捉えたはずだ。そして、その銃口が間違いなく自分の心臓に向けられていることも。 『ねえ、この作業、面白いからやらせてあげるよ』  まだ、学生の時分、たしか、クリスマスイブの夜だと思ったが、友人に鶏の丸焼きを特殊な形態のテーブルナイフを使うことで、人数分に切り分けていく作業を手伝わせてもらった記憶(こと)がある。元々、肉屋を経営していた両親から譲り受けたものらしいのだが、その切れ味の凄さには、とにかく驚かされた。硬くて分厚い肉の筋に、サァー、サァーと刃先が入っていく。その特殊ナイフを自慢げに紹介したくて、敢えて私にやらせてくれたのかも知れない。その作業が余りにも楽しくて、誰にも食べきれない量の鶏肉が、すでに、お客全員の皿の上に配られていたにも関わらず、肉を割くことをやめられなくなってしまった。  暗殺者という、この不幸な仕事に就いてから、すでに四年にもなる。的に向けて拳銃を撃つときも、あの時と同じような感覚があった。 『貴方がたはレストランに行けば、何を出されても、ムシャムシャと食べるようだが、牛も豚も鶏も、命の重さとしては、我々人間とまったく同じはずだ』  それが正論だと主張する、偏向した無神論者もこの広い世の中には、数多くいるらしい。なかなか人を食った思い込みで、素晴らしいとは思うのだが、ただ、それと少し近い思いつきで、自分が考えたことは、ナイフで鶏肉を躊躇なしに切り刻める程度の度胸がある人ならば、おそらく、目の前に高くうず高く積まれた大金のためなら、拳銃で標的の胸板を貫くのも比較的容易であろう。つまり、自分に最低限必要な程度の金額さえ、確実に手に入るのであれば、人はどんなことでもやれるわけだ。斜めに35℃くらい、左目から一番よく見える位置に、その細い身体の中心が達したとき、人差し指の先が自分の脳が合図をする暇もなく、自然と引き金を引いていた。パーティー会場で、子供たちが控えめにクラッカーを鳴らしたかのような、乾いた音が二回耳に届いた。的中した位置は、想定していた場所よりも、若干離れていたように思う。しかし、仕事としてはまったく問題はなかった。彼女の身体がクルクルっとダンスのように頼りなく二回転してから、何とか生きようと、壁に縋りつこうとした。しかし、体勢を保つ力など、すでに残っているはずもなく、まるで、電源が切れたおもちゃのロボットのように、静かに地面の上に崩れ落ちたのだった。
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