場違いな衣装 第一話

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場違いな衣装 第一話

 ベテランの花形俳優であっても、年に一度の大舞台の本番が近づくとなると、自然と身は固くなるものらしい。数時間にも及ぶ、演劇の台詞のすべてを本当に覚えているのか、きちんと強弱をつけて演じられるか、相方との調子はどう合わせるべきか等々、不安がよぎることもあるはずだ。喉の調子がいまいちの日だってあるだろう。家族が病気になっても舞台の日程は変わらない。常に100%の演技が求められる世界においては、ほんの少しの準備不足が致命傷になりかねない。ましてや、この私はまだ経験の浅い役者である。自分の命がかかった本番までは、あと二時間ほど。次第に動悸は高鳴ってくる。  ただ、上役から嫌々引き受けてしまった、込み入った事情のある今回のような仕事の場合、「大勢の人が行き交う駅前の通りで、できるだけ真っ昼間のうちに、誰にも見られぬようにやってくれ」などという無茶を並べられるよりかは、なるべくなら、月明かりもない、漆黒の中での密かな仕事として引き受けておいた方が、気持ちの上では相当にやりやすいはずだ。裏社会には無数に存在する、どんな如何わしい仕事よりも、他人の視線を気にせざるを得なくなる仕事だからである。つまり、わたしの場合は、あの華やかな演劇舞台のように、たくさんの人の目に、自分の才能を見せびらかすような仕事とはいえない。それは非常に残念であり、後悔を呼び起こすことのひとつだ。うちの組織に所属する人間であるなら、誰であれ、なるべくなら、ひと気のない、静かな環境においてこういった依頼を完遂してみせた方が、気分もすっきりと落ち着くのだと強気に主張する。つまり「この自分に失敗はない」と。私は内部的には通常の人間である。自分に否応なく課せられた、このきわめて難しい勤めを終えて、安全地帯まで逃げ延びてくるたびに、気がつくと、額や背中には大粒の汗をかいており、『ああ、今日も何とか生き永らえたようだ……』と、実感もほとんど湧かぬままに思うわけである。  そして、今夜もこれまでに比類がないほどの、重大な仕事を任されてしまった。嫌な仕事が付いて回るのは、高級ブランドへの散財癖があり、普段から常に金に困っている自分の態度が一番悪いのだが……。時計の針がその運命の時刻に近づくにつれて、またしても、胃袋を針で突くような、特別な緊張感が襲ってきた。不安や恐怖を心で感じるよりも早く、繊細な感覚が左手の指先を、右脚の脛の辺りを細かく震わせ始めた。何とか心を鎮めたいと思い、『大丈夫、今のうちなら、件の現場もそれほどひと気はないはずだから。邪魔も入らず、標的もすぐに見つかり、あっさりと終わるよ』と、心の内で何度となくそう念じてみる。かつて、精神科医に教わった通りの処置方だ。本当にこれで効くなら精神薬代なんてまるで必要はないわけだが、案の定、あまり効いた試しはない。しかし、これ以外の対処法を知らないので、こうする。  次に窓の外の夜景を気にかける。今のところ、一番気にしなければならない街の気配は、思いのほか静かである。今夜の一大イベントの例年の盛り上がりを思えば、その開会セレモニーまでは、まだゆうに二時間はあるにせよ、この静けさは信じられぬくらいだ。それまでは、ベッドから起き上がってから、すでに三時間ほども、街をすっかり見渡せる上階の一室で、ふかふかのソファーの上に座り込み、身動き一つもせず、耳を澄ませていた。その間、不吉を知らせるようなパトカーや救急車のサイレンなどは、一度も鳴らされていない。今宵の祭りを目当てに、畑と湖と風車しか見世物のないような田舎から、呼ばれてもいないのに臆面もなくやってきた無法者どもが、信号に邪魔されてなかなか進路を開けない他の車にいい加減いらだってきて、しつこく鳴らし続けている、乱暴なクラクションひとつ、ここまでは聴こえてこないではないか。もし、何らかのくだらない騒ぎを聞きつけて、パトカー数台がさして必要もないのに出動して来て、この付近の路肩に立ち停まってしまい、これ以上の不測の事態だけは絶対に許さんぞとばかりに、周囲を警戒している姿が、この窓から見えてしまったとしたら、その厳しい事実は、これから人生を賭けた大仕事を遂行しなければならない、この私の神経質な心を、どれほど動揺させ、容赦なく痛めつけることだろう。未来に無事に生き永らえる可能性が限りなく低くなるということは、裏社会の根にひっそりとこびりつく、こんな職業の人間にとっても、最もつらい現実のひとつなのである。  今見ている壮大な光景は、この街ではおそらく、もっとも高い位置からの眺めになる。六階建ての四つ星ホテルの最上階の一室に、上役からの命令により、強制的に押し込められてから、すでに丸三日になる。これについては様々な事情もあり、職業柄、仕方のないことではある。しかし、もう間もなく、自分の身に再び訪れるであろう世紀の一瞬を前にして、何の助けもなしに平常心を保っていられるのかといえば、それは無理というものである。この仕事にはまったく不必要でマイナスにしかならないからと、禁煙をかたく命じられたのはもう三年も前のことになる。それにも関わらず、身分をいっさい明かさずに購入できる闇サイトからの通販によって、高級たばこを秘密裏に手に入れては、この三日間だけで、もう二十箱も空にしてしまった。自分で評価するのもなんだが、決して素行の悪い方ではないと思うのだが、豪華絢爛といえるこの異様なペースには、我ながら驚いている。  煙草の空箱は熟慮の末に、ホテルの外には持ち出さずに、すべて備え付けのゴミ箱へとすべて処理することにしたが、こんなに大量の残留品は、仕事が直前まで差し迫った今となっては、どんなに必死になっても隠すことは出来ない。仕事開始の時間が迫り、チェックアウトした後で、この部屋の後片づけにやってくる、これまた嫌な仕事を仰せつかった同僚のスタッフたちに、当然の如く見つけられてしまい、また、上司からはうるさい小言を言われる羽目になる。自分の出番が来るまでは、部屋からはなるべく出ずに、もし、暇と感じるようなら、時間を潰すために、大人しくこれでも観ていろと、各国の衛星チャンネルを網羅した、分厚いテレビ番組のプログラムを手渡されたのだが、どの国で制作された番組を拝見しても、こと笑いの創造という概念に関しては、しごく似通っていることに気づかされるだけだった。  大体、これから命を賭けて打ち合う人間が真っ裸の芸人が、頭から水辺へと滑り落とされる様を見て笑えるはずはない。こんなことを説明したくはないが、今夜の任務に失敗した際の、明朝の自分の姿である。ほとんど、なんの感情の動きもないままに、呆然と画面を見つめているだけの状態には、すぐに飽き飽きしてしまった。さりとて、自分に課せられた重大な任務を思えば、胸の高まりは徐々に高まっていくばかりである。しかしながら、他には気を落ち着けるための手段も見当たらないので、せめて、深呼吸をして動揺する心を鎮めてみたかった。そこで、左腕にきっちりとはまっている時計を念力でも使って、少しでも前へ進めてやろうと、長時間にわたり、眼力を強めて見つめているばかりなのだ。仕事前に集中力を高める手法のつもりで毎回行っているのだが、効果のほどははっきりしない。  仕事の本番がくるまでには、まだ、ざっと見て四十分程度はあるだろう。外出の準備を行うために、このソファーから、さっさと立ち上がりたいのだが、この取り扱いをひとつ誤れば、大事故も伴うこの物騒なアイテムたちを、時間ぎりぎりまでは、なるべく目にしたいとは思わない。ここを動き出すのは、まだ早いだろう。世の中には、あと一分でもいいから、この世で過ごしていたい、と涙ながらに訴えている、実に可哀そうな病人が多数存在するというのに、できるなら、時計の針を十分刻みでずんずんと進めていって欲しい、などと願っていることは、果たして正常な神経といえるのだろうか。  時間を少しでも潰すために、読みかけの恋愛小説でも手に取ろうかと、テーブルの上のバッグに手を伸ばしかけたとき、ふいに携帯電話のベルが鳴りだした。いちいち確認などしなくとも、かけてきた相手はわかっている。自分には数か月前にわざわざ予約を入れた、高級フレンチのディナーに誘ってくれる友人などいないし、こんな切羽詰まった時間帯に、ピンポイントで間違い電話などかかってくるはずもない。一応番号を確認してみた。残念、思った通りだった。この後、間違いなく追求されることに対して、いくつかの巧妙な言い訳を脳裏で創り上げながら、渋々と電話に出ることにした。 「十日前の仕事の件なんだけど」  丁重な挨拶も、体調の変化の確認も、現時点での状況への問いかけも、何も行わないままで、不快感を十分に示した、冷たい女性の声が耳に流れ込んできた。もちろん、電話の相手は今夜の仕事のすべてを管轄しているマネージャーだった。こんな時に電話向こうの表情なんて想像もしたくはないが、今夜の仕事の予定を話す前に、どうしても、私に言っておきたい事があるらしい。それがこちらにとっては何にも楽しい話でないことくらいは、すぐに理解できた。 「あなた、仕事の現場に向かうときに、胸と背中のぱっくり開いた、真っ赤なドレスを着ていったそうじゃない」 「ああ……、現場に着くまでは、ほんの三分、いや……、ほんの七分ほどの外出でしたので……。誰にも見られないでしょう。それに、どんな仕事であれ、作業自体が上手く行っていれば、つまり、依頼通りに仕事が済めばということなんですが……、大抵、そのくらいのことは見逃してくれるのではないかと……」  謝るのも意地を通すのも嫌なので、自分の舌は自動的にそのような半端な言い訳を生み出したわけだが、『嫌なところを突かれた』という思いは強くあり、正直なところ、動揺は隠せなかった。おそらく、相手に追随を許すことになるだろう。 「いい? 何度も言うようだけど、『あなたの仕事の現場を、一度でもいいから自分の目で見てみたい』と思っている一般市民は、決して広くはない、この街だけでも、ごまんといるわけなの。それに、この辺り一帯には、常にスキャンダラスな噂を嗅ぎつけて、その凄惨な現場にあやかろうと、思考停止状態でふらついている、薄っぺらいマスコミの記者たちが、自分だけがそうだと思い込んでいる『決して怪しくはない姿』に変装しつつ、著名人たちの気配を探りながら、貴女の近くを常にうろうろとしているわ。もし、仕事の本番に入る前に、あいつが今夜の主役だ、これから大金のかかった仕事に取りかかるつもりだ、まさしく本人だと、貴女の本当の目的や手段が事前にばれてしまったら、いったい、どうするつもりなの? これまでの準備のすべてがおじゃんになるのよ? どうやって、取返しをつけるつもりなの?」 「あの日はすでに深夜で、月も出ていない夜で、視界もほとんど効きませんでしたし……、私としては、外出するときは、いつも、なるべく顔を隠すようにはしています。例え、正面から見知らぬ通行人と行き違いになっても、パッと見では、そういった種の職業人だと、気づかれることはないと言い切れると思うのですが……」  この自分にだってプライドがある。細かいデリケートな事情を知りもしない人間に、上から目線で説教されるままに対話が終わってしまうのは、余りにも癪なので、そのような、せめてもの反論を繰り出してみた。不愉快なやりとりは、すぐに切り上げてしまうと、かえって自分の傷になる。さりとて、長話に持ち込むことが、必ずしも良い展開には結びつかないと、頭の中では理解できていても、性格上、一方的に浴びせられた不快感を、どうしても、相手の側にも同じ程度の凶器にして投げ返したくなる。 「それは、たまたま良い方向に偶然が重なっただけでしょう? 戦場で機関銃の集中砲火を受けても、ほとんど無傷で助かった人も、数万にひとりならいるわけです。もし、不幸な結果に繋がっていたら、今頃、貴女の身はどうなっていたと思うの? 5000万画素のデジタルカメラに、顔面をもろに写されて、翌日には、自然公園の早朝の日課として行われる、庭に集ったハトへの餌やりのごとく、駅前で通勤者に配られる大衆紙の大見出しによって、『まことに遺憾ながら、自分の不手際で世間の笑いものになってしまいました』では済まされないのよ。たった一夜の二時間にも満たないお仕事で、一般の倉庫会社の荷物運びの数十倍にも及ぶ給料を受け取る人が、大切な依頼人をなおざりにするの? 貴女は、過去に聞いたきわめて胡散臭い話を丸々信用するのなら、この世界では相当なレベルの人なんでしょ? それなら、くだらない趣味にふけらないで、自分のケジメを貫きなさいな」 「どうも、申し訳ございません。完全にこちらの不手際でした……。以後、気を付けます」  私は受話器を握ったまま、ほとんど無意識のうちに、軽く頭部を下げていた。左手の指先が微かに震えていた。これが他人の姿であるなら笑ってやるのに! しかし、もう無意味な抵抗はやめることにした。苦手な人間の言葉に悪意を感じてしまったら、反撃を試みるのは人として当然だが、そもそも、嫌っている人間と長話を続けていくことに、まったく意味はない。このままでは、仕事前に心傷をきたす。いくら宣伝文句は派手であっても、自分にとって、ストーリーがまったく受け入れがたい作品であったなら、早々に諦めて、なるべく早く映画館を後にした方が良いことの方が多いだろう。自分の身に現在下されている理不尽な要求が、どんなに受け入れがたいものであっても、この社会の根底に、上役と下僕という概念が永遠に存在していく以上、社会の底辺から打ち放たれる、すべての目に見える空砲とも思える反発は、自分たちとしては有効に思えても、実際には、まったくといってよいほど無意味である。 「そういえば、あなたと例の会議室の面談で初めてお会いしたとき、肩がぱっくりと開いた、蛍光色のピンクのワンピースを着てきたことを、今になって思い出したわ。いくら、名門大学で教えるような高度な知識を、まるで必要としない、こういった仕事でも、自分の未来を賭けた大事な面接に、あんなふざけた服装で、平然と来られる人とは、それまでこなしてきた多数の面談では、出会ったことはなかったから……。私はあなたの良家の娘を演じきった口調とか、わざと猫をかぶったような演技になんて、まったく興味は持てなかったんだけれど、うちの組織の幹部たちは、あなたの『何かを期待させるような、女の子らしい振る舞い』が、よっぽど気に入ったらしいわね……。だから、こちらとしても、あれは嫌々ですよ、試験を通して差し上げたんだけれど……。それにしても、まあ、外面のいい、見栄えのする子は、お金を稼ぐのに苦労がなくていいわね……。どんなに社会的経験の少ないおバカさんでも、最低限必要な道徳や礼儀なんて、まるで知らなくても、とりあえず、三食を食べていく分には困らないんだから……」 「あの、そろそろ、今夜のお仕事の詳細を説明して頂いてもよろしいでしょうか? 先方はあとどのくらいで本番を迎えられそうなのでしょうか? こちらの待ち時間の方も、かなり長くなっておりますので……。精神的に疲れまして……」 「私は別に貴女に嫌みを言うために、こんな差し迫ってから連絡を寄こしたわけじゃないし、本当のところはね、あなたのことが嫌いなわけでもないのよ……。ただ、今現在、あなたが関わっている業務は、この世界を根底から揺るがすほどの、とても大事な、本当に大事な、巨大なプロジェクトの最初の一歩なの……。気まぐれな乙女心によって起こされた、たった一つの、軽々しいミスでは、とても取り潰しには出来ない計画なのよ。こちらからは完全なる成功のみを命じます。いいわね?」 「はい……。お聞かせ願います……」  誰にとっても何の意味も為さない、しばらくの沈黙があった。電話の向こうは、レジュメに沿って、指示の内容を確認しているわけではなく、こちらの今までの返答の内部に含まれている真剣みの有無を、今一度吟味しているようにも思えた。こうした陰険な態度は、大仕事を控えた神経質な人間を、時として極度にイラつかせる。政治経済界から裏社会までを、ルール無用の暴力や言葉の圧力によって、容赦なく牛耳る、このような職業にあって『謙虚な真面目さ』などというものが、そもそも必要なのだろうか? さすがに、今回だけは結果の成否だけでこちらの能力を判断してもらいたかった。もちろん『与えられた職務に対する真剣さ』などという、自分のこれからの人生にとって、まったく縁の無かったものが、肉眼にはまったく映らない、ほんのカスとしてでも、心の奥底のどこかに残されていればの話だが。 「もう一度、確認しておくけれど、あなた、本当に誰にも見られてないんでしょうね? 例え、どんなに些細なことでも、心当たりがあるなら、今のうちに、正直に話しなさい。それが処理できる問題ならば、今からでも、こちらで動きます。ただ、その時点で、貴女を今回のプロジェクトから外して、今夜の計画は無期延期します。実行に移した後で、標的をすんでのところで取り逃してしまい『小さなアクシデントが重なった結果の誤算です』なんて、子供じみた言い訳をされても、到底許せるような案件ではないのだから……」 「こちらの姿を確実に見たといえるのは、ホテルの受け付けのスタッフだけです。マスコミや警察の関係者は、今現在、この界隈にはいないようです。ホテル外の人の動きには、チェックインしてからずっと注意していました。こちらを伺っている視線も今のところ感じません。相手方に想定外の動きが無いのであれば、このまま、作戦を実行したいと思います……」 「相手役も、今夜の一大イベントを前にしては、準備に相当な時間がかかっているみたい。予定時刻通りにイベントが行なえるのかについては、まだ不透明なところね。知っての通り、このプロジェクトには前例のない大金がかかっています。相手役も周囲のエキストラも、大勢の舞台スタッフも、今夜のイベントを成功させるために、全員が極度に慎重になっているのも当然でしょう。何せ、一晩で数億ドルが動くんですからね。向こうのビルの方には、標的の動きを逐一知るために、警備員に扮した数名の部下を張らせてあるけれど、あちらの報告を聞いても、なかなか動きがみられないみたい……。おそらく、標的はすでに何か嫌な空気を察していて、会場までの移動については、ギリギリまで我慢するつもりなのかもしれない……。まだ、イベントに向かうまで、45分くらいはかかるでしょうね。  事前に何度も説明した通り、あなたに割り当てられた仕事自体は、長くても、ほんの数分で終わるはずの作業ですからね。緊張は私たちの給料には算入されません。たった数分のお役目で、こちらとしては、あの高額な契約金を支払うことになるのよ。あなたの雑な判断や、些細なルール違反の一つひとつに対して、必要以上に神経質になるのも当然でしょう? いずれにせよ、もうすぐ、人出の多い夜の街に出てもらうわけだけれど、当然のことながら、行く先々で想定外のことも起こるでしょうし、時刻が迫るにつれて、先の展開はさらに読みづらくなります。今夜は州の外からも、旅行者が多く押し寄せ、警察や諜報機関の動きもきわめて読みづらい……。多少の危険が伴うのは当然だと思って、そっちも、いつも通りに、命を賭けて真剣に働いてちょうだい。頼んでもいないのに、意味のない動きをして、芸能ファンやマスコミのカメラの餌食にならないようにしてね」 「わかりました。では、もう少し、ここで待機します……。舞台本番の時刻が迫ったら、もう一度、連絡をお願い致します……」  てっきり、任務開始の合図を伝える連絡かと思ったのだが、そうではなく、ただ、ストレスを発散するために、こちらに嫌みをぶつけたいがための電話であったようだ。普通の企業においての業務連絡となれば、『今日は声に力がないけど、どうしたの? 最近、疲れてるんじゃない? 大丈夫? 代わりはいるから、三日くらい休暇をとれば?』などという暖かい気遣いの言葉が、先輩や上司から送られたりするらしい。だが、うちの業界では、大金に目が眩んで、いつ敵に回って情報を売り払うかも知れぬ同僚のために、わざわざ、気遣いの言葉を投げかけるなど、到底あり得ないことである。先ほどの話しぶりからして、向こうはさらに上の幹部からいびられているようだ。だが、幹部たちは状況がどんなに緊迫してこようが、葉巻タバコをくわえながら、今現在は、おそらく、野球中継を見ているだけだし、いざとなれば、とりあえずの逃げ道はあるはずだ。トップから与えられた無茶な指示を、眉間にしわを寄せることなく、下へ下へと淡々と流していけばいい。だが、こっちは中立の警察も含め、多数の敵方の視線の光る最前線において、爆薬の信管に少しずつ近づき、そっと触れるべく、身体を張っているわけだ。銃弾と歓声の飛び交う大舞台に上がるのは、いつも、こちらの方なのだ……。  黒檀の棚の上の上品な飾り時計の秒針が、少しずつ動いていくごとに、心は波立ち、イラついてくるが、窓の外の美しい夜景を眺めていると、ほんの少しだけ、気分が落ち着くような気がした。今だけは、あえて自分の未来を賭けた任務から目を逸らし、むかつく上司のことなど完全に忘れて、首尾よく成功した後のことだけを考えよう。そうして妄想に浸ること約十分。今回のところは、嫌みな口撃のすべてを忘れ、与えられた配役で取りあえず満足して、できる限り上手く演じてやろうとさえ思うようになれた。  この街一番の大劇場にて、今宵、大陸全土から富裕層の聴衆を集め、三か月に一度の大公演が開かれる。開場は今から約二時間後。この部屋の窓から下の大通りを眺めていると、空港や高級ホテルの方から颯爽と向かってくる黒いハイヤーが、派手なドレスやスーツを着込んだゲストたちを乗せて、ひっきりなしに行き来している。今夜、この付近を散策している人間のほとんどは、この街の元々の住民ではない。今夜のショーのために遠地から遥々訪れた『財布の分厚い』観衆なのだろう。一年以上も前から、来賓専用となる二階席をすでに予約してあった貴族階級の方々から、ゲストとして訪れた各国の政治家や、まだ、開幕セレモニーの入場チケットさえ確保できていない貧民層に至るまで、その顔ぶれは実に様々である。私はもう間もなく、彼らの前に飛び出ていって、今夜最高の舞台において、晴れの主役として演じてやるのだ。そう、出来るなら、華やかに演じたい。『誰もが憧れる大女優になれる』その決定的な資格を持っているのは、おそらく、私だけだろうから。  そんなことに思いを巡らせながら、ふと、時計を見てみると、先ほどの嫌な連絡を受けてから、すでに二十分が経過していた。時の針が私の意識を避けてワープしたかのような動きを示していた。不本意でもあったが、しかし、時間が自分の希望した通りの速度をもって進んでいる、というのは実にありがたいことだ。こうして、非情な現実を知らされ、日ごとに小さくなっていく自分の未来への希望たちを眺めながら、他人には見られぬ位置で、唯一の生を見つめながら、呆然と佇むこと以外に、時計の針をなるべく早く進められる手段など、他にあるのだろうか?  私はイタリア製の革のハンドバックから、小さな漆塗りの化粧箱を取り出した。高級ホテルのスイートルームには、バスタブの隣に、安ホテルでの一部屋分にもあたる、広い化粧室が備えられている。私がもし一般の旅行者であれば、いちいちお気に入りの化粧品のすべてを、小さなバッグに無理やり詰め込んでまで、こんな遠い旅先まで持ち込まなくとも済むのである。このフロアにすべて揃っているからだ。  壁一面を覆いつくすような金縁の大鏡には、指紋やシミの一つも付いていない。むろん、職務上、浸かることは許されないが、大理石で造られた豪華なバスタブは黒く上品な輝きを放っている。舞台女優がその服を大胆に脱いで、ふわふわのタオルケットをまとって、ここにつかれば、若者向けのファッション雑誌のトップグラビアとして、十分通用するほどの出来栄えになるわけだ。これまでの半生を振り返るならば、今となっては、もはや、皮肉でしかないのだが、この私でさえも、選ばれた上客のひとりになるのだろうか。  七人掛けのふかふかのソファー、ダイニングテーブルにも、マホガニー材の椅子が五脚付いている。例えば、常日頃から、ファンの目を気にして生活しているハリウッドスターなどが、家族を引き連れて、この広いスウィートルームを予約して、五日間もの間、世間一般の汚れた視線からとにかく逃れて、浮世を忘れて、優雅に過ごしていたとしたら、どうだろう? とてもお似合いのシチュエーションではないだろうか。今回の場合、チェックインからチェックアウトまで、客はずっとひとりであったわけだが、ホテルのロビースタッフたちの観察眼が、もし、まともであるなら、私の行動のどこを取っても、不審に思われないはずはないと誓える。もちろん、この国のどこをいくら調べようとも、私の素性を知ることは、まずできないのだが……。  この部屋の家具は全部合わせれば、軽く十万ドルはするのだろう。気品と繊細さによって散りばめられ、二十畳はある部屋のどの部分にも文句をつける隙は見当たらない。冷水の補充を頼むだけなのに、何があったのかと、心配そうに駆けつけてくる、有能なスタッフたち。『この豪奢な部屋を早く訪れるように』との、ハリウッド俳優たちへの推薦状を喜んで書かせて頂きたいくらいの、素晴らしいホテルであった。もう二度と、ここには来れないのかと思うと、残念でならない。自分だけの余暇をただ楽しみたいだけの、一般の旅行客層であったなら、本当に良かったのだが。  目的地までの移動時間を考慮すると、もう、そろそろ動き始めてもいい頃合いだ。私はなるべく足音を立てずに鏡の前まで移動すると、そこに備え付けてあった、可愛らしい真っ白な丸椅子に座り、軽く洗顔をしてから、頬に保湿クリームを塗り、化粧を始める。女性であるなら、誰しも心が浮き立つ時間だ。甚だ信用に欠ける週刊誌の情報であるが、化粧というのは、心のケアにもなるらしい。緊張の高まる今の時間帯には、まさにぴったりである。ファンデーションを少し塗って、なじませている間に、片目でバッグの中身を、今一度チェックした。いざ、目的のあの人に出会えたときに、商売道具が準備出来ていなかったとしたら、それは大変なことになる。左目を閉じて、コンシーラーを塗っているとき、廊下から微かな足音と布すれの音が聴こえた。呼吸を止めて、自然な動きで、バッグの中にそっと右手を忍ばせた。部屋の内部では何の物音もしない。このランクの部屋となると、空調の音すらほぼ無音である。見事だ。外を歩く者がどんなに足音を抑えたとしても、ドアからほど近いここまでは、ダイレクトに聴こえてくる。こちらの動きが警察に漏れているということは考えにくいが、万が一ということもあり得るだろうか? 数十秒ほど、じっと耳を澄ませて、身体のすべての筋肉の動きを止めていた。足音は部屋のドアの前では立ち止まらず、どうやら、そのまま通り過ぎていったようだ。安全確認の周回に来たホテルのスタッフか、あるいは清掃員だろう。私の今夜の居場所と、その隠密行動の詳細については、組織のトップ以外、誰にも知られていないはずなのだから……。  高価な化粧道具を用いて、メイクをしていると、ほんの短い期間でも、自分も特別な存在なのだと思い違うことができた、若い時分のあの瞬間を思い出す。嫌な記憶というのは、大きなブラシに漂白剤を塗りたくって、念入りに消してやったつもりでも、心の底の深いところに、長期間にわたり粘り強く残っている。いつしか、似たような緊張感を思いもかけぬ場面において引き起こす(フラッシュバックさせる)ものだ。あれは二十一歳の頃だったろうか? 運命の分岐点となった最後のオーディション。その、ほんの十五分ほど前、感じたことのない緊張と未来への期待の中で、控え室に引きこもり、今夜と同じように、たったひとりで震える手でメイクをしていた。分不相応とは知りながらも、子供の頃から、他人から羨まれる職へ就くことを目指していた。だが、最終オーディションまで残ることが出来たのは、長い挑戦の中でも、結局のところ、このときの一回のみであった。驚いたことに、あの時の自分の表情や顔色まで、まるで映画のように脳裏に鮮明に蘇るではないか。では、今夜もあのときと同じ、イヴ・サンローランの鮮やかな色彩の口紅を選ぶことにしよう。  女性に生まれた者であれば、誰だって、他人から少しでも注目される地位につきたいはずだ。のみならず、自分が全米第一位の花形となって、観衆の注目を一身に浴びながら、どこそこの煌びやかな舞台に立つ、という他人(ひと)から羨まれる夢を常に見ているものだ。口にこそ出さないが、同じような才能で、似たような顔立ちの友人たちを、ピラミッドの遥か頂上から見下ろしてやる日が来ることを想像してほくそ笑んでいるわけだ。だが、『人が否応なく生み出す勘違い』とは残酷で奥深いものだ……。結果からみれば、それらはただの図々しい願望であったわけだが、あの頃は純粋に努力を重ね続けていけば、最終的には、どんな勝負にも勝てるものだと思い込んでいた。 『すいません、先月の舞台を拝見させて頂きました。素晴らしかったです! ぜひ、サインを頂きたいんですが!』 『すいません、お写真を一枚だけ頂いても、よろしいでしょうか? こちらのレンズの方を向いて貰えますか?』  もし、あの時の一大試練を通ることができていれば、その翌日からは熱狂的なファンや報道陣の前に、ほぼ四六時中、取り囲まれる生活が始まっていたはずだ。我が豪邸の前には、スキャンダラスな事件など、まるで起こらずとも、常に情報に飢えた記者やテレビカメラが押し寄せて、私の行動を逐一伺っている。午前中は有名脚本家との次の舞台上での打ち合わせ。午後は演出家による念入りな演技指導と予定は続いていく……。私はハリウッド映画に馴染みの深い、憧れのスターたちと肩を並べて、カメラマンの前で微笑んでいる。夢想はいつだって夢想のままである。緊張してメイクをしていた、あの瞬間だけは、この自分だって、いつかはきっとそうなれると思い込んでいた。  過去の記憶に浸っているうちに、いつの間にか、右の眼の縁が少し濡れていた。慌ててハンカチでそれを拭った。結果から語れば、人生における、大勝負というものは、大抵の場合、上手くなどいくはずはないのだ。『残酷、非道、冷酷』運命という煉獄の道を、人(たにん)はそう言って笑う。実力だけでは勝負には勝てない世界。実力が足りなければ、さらに残酷な選択をせざるを得ない。自分にも、これまで敗退した人々と同じような結末が、ようやく降って来ただけだった。つまり、若き日の自分がどんなに目を腫らして泣いても、それは何も特別なことが起きたわけではない。学校を去ったあの子と同じ。ビルから飛び降りたあの子とも同じ。でも、自分だけはそうなるとは思えなかった。この惑星において、もっとも繁栄しているこの大国においても、『99%の人は、土と埃にまみれて、地べたで一生を暮らすわけでしょ。だから、貴女だって、この結果については我慢して受け入れなさいな。今なら、スーパーのレジ打ちとか、レストランのウェイトレスとか、駅前での特売品のビラ配りとか、とりあえず、普通の人生には戻れるわけでしょ』。我が傷ついた心に、尖った矢のように投げつけられた、そんな中身のない慰めでは、とても立ち直れなかった。結果を知らされた五分後には、すでに完全なる負け犬のレッテルを貼られ、スタジオの外へと放り出された。ハイヤーによる送り迎えも、二度と来なかった。二か月に渡る審査は誰かの勝利によって無事に終わり、今日からは、自分はまた敗北者として、ただの素人に逆戻り。いったい、何万の応募があったかは知らぬが、すべての夢は儚く過ぎ去り、放心状態になることで、何とかすべてを誤魔化そうとした。  さあ、もう現在に戻って来なければ。数々のやり切れぬ想像が過っていったが、仕事前のメイクは気分を十分に楽にさせてくれた。化粧室の家具についた指紋を念入りにふき取ると、部屋の電気を消して、もう一度、すべてがきちんと行われたかをよく確認して、商売道具の入ったバッグを手にして、私はようやく立ち上がった。
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