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第32話 それじゃあ、お元気で
花の都リトベル。
一年中様々な花が咲き乱れる、美しい都。
時計塔のある街の中央区。噴水を囲んで植えられているのは、ティセルと言う名の赤い花だ。冬に咲くティセルは雪に埋もれた白い街並みに文字通り花を添えて、リトベルの街を鮮やかに彩っている。
リナス広場の時計塔が昼を告げる。いつもは賑やかな中央区も、吹雪き始めた悪天候に人の姿はほとんどない。冷たい石畳を蹴って足早に歩いて行く足音だけが、雪に煙るリナス広場に響いていた。
その足音が、僅かに乱れる。――どんっと体に走った鈍い衝撃。誰かにぶつかったのだと気付いて振り返ると、真っ白な雪の降る中にくっきりと浮かび上がる黒いコートが目に焼き付いた。
「すみません、大丈夫ですか?」
「えぇ。こちらこそごめんなさい」
柔らかな女性の声だった。吹雪に煽られて乱れる胡桃色の髪が、女性の顔を覆い隠している。
「これ、落ちましたよ」
差し出された手には、先程買ったメリダルのハーブティーが入った袋が握られていた。
「すみません。ありがとうございます」
「メリダル、好きなんですね」
「え? あ、あぁ……はい、そうですね。以前知り合いが好んで飲んでいたもので」
「そう。実は私も好きなんです。メリダルのハーブティー」
口元に手を当てて、くすくすと楽しそうに女性が笑った。流れる髪の隙間から、赤みがかった桃色の瞳が微かに見える。その視線が交わる前に、女性の瞼は閉じられてしまった。
「今年は寒くなるそうなので、体に気をつけて下さいね。それじゃあ、お元気で」
セイルが何か言おうとするよりも先に、女性は踵を返して商業区の方へと歩いて行く。カツカツと石畳を蹴る足音が遠く離れ、やがて吹雪に紛れて完全に消えてしまった。
「…………ルシェ、ラ……?」
無意識に、セイルの唇が音を紡ぐ。けれど零れたその名を、セイルはどうしても思い出すことが出来なかった。
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