24人が本棚に入れています
本棚に追加
そして一年あまりが過ぎた。
カーテンを取り払った居間で、あたしはひとり残った荷物をカバンにまとめている。
そうしているのはあたしがマンションを去る日がやってきたからだ。
「お母さん。今度のお父さんは良い人そうだね♪」
「どうしてそう思うの?」
「おもちゃとお菓子、いつもくれるから♪」
そんなことで?
いつもの様に天井のロープに全体重を一点に預けて遊ぶ娘が、楽しそうにいつもより体を大きく揺らせて微笑んでくる。
「そうだよ♪それにいっぱいおしゃべりもしてくれる♪いっつもお母さんの話ばかりだよ♪」
そう、なんだ‥‥。
漆黒がほとんど亡くなった天袋の男の子の両眼も、こころなしか笑みでほころんでるようだった。
途端に‥‥あたしは、目尻に泪が溜まってあふれ出しそうになってしまった。
「彩花さん」
玄関口からの呼びかけにハッとなり、あわてて零れそうになった泪を袖で拭った。
ゆっくり丁寧に閉められた玄関ドアの前に立っているのは、あたしと同年代の男性。
こんなあたしのすべてを聞いて受け入れてくれて、それでも結婚して新生活を送ってくれると誓ってくれた男の人だ。
「ちゃんとぜんぶ話したらいいよ。大丈夫だよ♪」
そうあたしを一所懸命に説き伏せてくれたのは、天井の真ん中から垂れているロープで体重のすべてを首にかけて自分の体を吊って、ユラユラ素足をふって遊んでいるあたしの娘だった。
娘は、死産だった。
5年前。
付き合っていた男性に妊娠を告げた翌朝、ポストに挿入されていた消印無しの封筒で別れを告げられたあたしは、以来、一切の連絡が取れなくなって絶望し、こことは違うアパートで大きくなり始めたお腹を抱えて首を吊った。
幸い、向かいのマンションから異変に気付いた住人からの通報で一命だけは取り留めた。回復も順調だった。
でも、妊娠しているとき、甘いものとレモンを無性に食べさせられた女の子の赤ちゃんの命は、永遠に喪われた。
7年前。
大学生になりたての頃。
天袋の暗闇が消えていく中に揺蕩うふたつの眼の男の子は、あたしが見知らぬ若い男達にレイプされて出来た子だった。
だれの子かもわからない赤ちゃんは、ひとの体になっていなかった。
あたしはずっと、この子たちのこと忘れていた。
忘れていたかった。
だけど‥‥。
「大丈夫かい?」
優しげに声をかけてくれた彼は、もう位牌とオモチャ以外は空っぽになってしまった居間の入口に、静かに立っていた。
「急がなくていいよ。ふたりのご位牌におもちゃ、ちゃんともっていこ」
来るたびにご位牌にお線香をあげ、たまにおもちゃやお菓子を供えてくれていた彼はスッと自然に頭を深々と下げて、そしてゆっくり頭をあげて、座っていたあたしの手を取って促して、一緒に並んだ。
そうしてから、彼には見えない筈のあたしの子の床に置かれたご位牌を、ひとつひとつ丁寧に手にとって、
「彩花さんはこの斧祇洋介が責任をもって添い遂げます。だから、安心して見守っていてください」
だから親子水入らず、一緒に暮らしませんか?
でも、ご位牌の前の子供たちは首と目玉を左右に振って、娘は右手を挙げ、同じように息子は視線を上にゆるりと向けた。
「そうか、お母さんに寄り添う時期は終わったんだね」
コクリ。
彼の言葉にそれぞれ頷いたふたりは、娘は満面の笑顔をあたしたちに向け、息子も、片目を交互に消す不器用なウインクをしてるのがわかって、
「洋介さん。‥‥その、見えてるの?」
「‥‥見えるよ。家族になるんつもりだったんだから」
いいお父さんに出会えてよかったね♪お母さん♪♪
娘の声が柔しく耳に届き、そして押し隠していたあたしの嗚咽と泪はもう止まらなくなってしまった。
「お母さん♪お父さん♪一年したら本当のお母さんとお父さんになれるよ♪」
そう言って安心したように首からロープを外して、右手をブンブン大きく振って、そうしてから天袋から離れて涙ぐむ息子の目玉を肩に乗せた娘はハチ切れんばかりの笑みを残して、ある日突然この部屋で、見知らぬ女の子があたしの手を取り目玉だけの男の子と引き合わせ二人一緒に現れたときとは反対に、あたしの娘と息子だった見知らぬ女の子と男の子は、まるで陽炎が風に揺らめき消えていくように、うっすら霞んで逝ってしまった。
陽毬!結絃!
あたしが幸せになったら別れが来るなんて思いもしなかった!
ずっと一緒に居られるものだとばかり思ってた!
身勝手でごめんなさい!産めなくてごめんなさい!一緒に死んであげられなくてごめんなさい!強くなくてごめんなさい!一所懸命生きてなくてごめんなさい!
見守られてばかりでごめんなさい!
ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい‥‥‥‥。
はじめて子供たちの名前を叫びながら泣き崩れるあたしを、力いっぱい支えて抱いてくれた彼は、ゆるゆる床にあたしを座らせたまま一緒に泣いてくれた。
病院で命が宿ったと知らされてから、子供たちに付けようとした名前はご位牌に込められ、今、別れを告げられ告げるあたしたちは、鼓動の間で家族四人となって体を寄せ合い、確かに温めあい会っていた。
そしてまた一年が経ち、あたしは今度こそ母親になる。
おしまい。
最初のコメントを投稿しよう!