まさか

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 さて、職場での恭介さんはと言うと、今日も忙しそうだ。川村君の提出した書類へ目を通し、不備を指摘している。  私は生管宛に送られてきたデータを元に、納期と納入数を確認し、発注数を入力している。新たに使用する部品などは特にないから、いつも通りの作業だ。  そうしながら時々、横目で恭介さんの様子を盗み見た。  今、私の目に映っている課長と、昨日の恭介さん。それが同一人物だとはとても思えない。  日曜の夕方には恭介さんのマンションから自分のアパートへ戻る約束なのだが、昨日はなぜか家まで送ると言って、いくら断っても聞き入れてはもらえなかった。  送ってもらっても無駄足になるだけだ。やはり、と遠慮したのだが、恭介さんは頑として折れてはくれず、埒が明かないので結局送ってもらった。  「駅から十分も歩くんだろう? その間に何かあったら」というのがその理由らしい。  そんなの、金曜以外の平日は毎日一人で帰宅してるんですが。そう思ったが、そこに気づかれてしまったらなんだかもっとややこしい事を言い出すんじゃないかと思う頑なさを感じて飲み込んだ。  で、結局アパートの前まで車で送ってもらったのだが、「じゃあな」と向けられた柔らかな笑みに胸がキュンとしてしまって、テールランプが見えなくなっても暫くそこに突っ立っていた。  職場で見ていた課長は、こういう事をするような人だとは思いもしなかった。  もっとクールな対応で、自立した大人の女性と、程良い距離感のクールなお付き合い。そういうのが似合うように思っていたのだけれど。  実際、二人でいる時の恭介さんは、クールというより意外と砕けた人だ。冗談だって言うし、私が見たいと言ったお笑い番組を見ては一緒に笑っているし、時々からかってくるし。  一昨日私が寝ようとする時、恭介さんはまだ起きているからと言って、まるで子供を寝かしつけるかのようにベッドの傍までやって来ると、横たわった私のおでこにキスをした。それで、職場ではおよそ見せないようなそれは優しい微笑みを浮かべた。  「夫婦ならキスくらいして当然だ」そう言っていたから、多分おやすみのキスも当たり前なんだろう。  翌朝目を覚まして身動ぐと、隣にいた恭介さんにおはようのキスをされたから、もしかしたらそれもセットなのかもしれない。  新婚夫婦の実情なんてわからないけれど。
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