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「おやすみ」
穏やかな低い声が、私の背中にそう告げた。
え……寝るの?
なぜかほんのりショックなのは、複雑な乙女心のせいだろう。
いやいや、でもしないから。
だったらよかったじゃん。課長と体の関係なんて、そもそも恋愛感情もないのにそんなのおかしいし。
じゃあ、もしも恭介さんの方に恋愛感情があったとしたら?
いやまさか、そんなこと……でも。
それでもやっぱり、今日は何かが違ったような気がした。
痛いほどの強さで抱きしめられて、どこか余裕がないように感じた。
「吉永に触れられただろう」なんて言ったり、腰が抜けるような官能的なキスをしてきたり。
それら全部は、恭介さんにしたら契約を履行しただけのことなんだろうか。
やっぱりないか。恭介さん、上司だもんね。
好きだとか口説くような言葉だって一切言われていないのだ。自分が好きだと自覚したからってあまりに期待しすぎてしまった。
それに恭介さんは、職場では常に真面目な上司のままだし、特別好意を感じるような素振りもない。
いつもと違ったような気がしたのも、私の願望がそう勘違いさせたんだ。
私は、いつから恭介さんのことを好きだったんだろう。
だけどこの恋は片思い。そもそも、あんなに何でもできる人が私を好きになる筈がない。自分でも、売り込めるポイントが一つも見つからないのに。
ああ、なんてことだ。とんでもない人にとんでもない事を頼んで、その挙句とんでもない思いを抱いてしまった。
しかも、あと二ヶ月もこんな状態で夫婦ごっこに付き合ってもらう事が決まっているなんて。
私、耐えられるのかな。
寝ますと訴えて図々しく先にベッドに入ったくせに、全然眠れない。当たり前だ。今さっき好きだと気づいた相手が、すぐそこにいるんだから。
恭介さんはもう、眠ったのかな。
ベッドに入って何分経ったのか。寝返りを打つ振りでそうっと体を仰向けて、更に顔だけをゆっくりと恭介さんの方へ向けてみる。
私の方を向いて横たわっていた恭介さんは、しっかり目を閉じていた。
鋭い奥二重の目は閉じられた瞼の奥に隠れ、そこを縁取るまつ毛が綺麗。鼻筋も嫌味なく通っているし、唇はこうして見ると案外薄い。
触れれば、あんなに柔らかなのに——。
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