まさか

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「ふっ、まさかお腹トントンで本当に寝るとはな。ふっ」  翌朝起きた途端、こうだ。  さっきからこのセリフを何度も言われている。  私だって、そんなので眠れるなんて思ってもみなかったですけど。 「すみませんね、幼児で」 「ふっ、ははっ、あはははっ」 「笑いすぎじゃありません?」  左手薬指の輪っかに触れながら、恭介さんの顔をちょっとだけ恨めしげに見遣る。  そう。恭介さんはさっきからずっと、私を寝かしつけたことを思い起こして笑っている。  けれどもその前に、もっと驚くべきことが私の身に起きていたのだ。  リビングとベッドルームを仕切る扉が少し開いていたせいで自然と目が覚めて、起き上がって、伸びをして、両手で髪を撫でつけて気がついた違和感。  ボフッと布団の上に降ろした左手には、指輪が嵌められていた。  びっくりして声も出なかった。指輪を注文したことなどすっかり頭から消えていたし。  全部思い出してから恭介さんの元へ行き、興奮気味に左手を胸の前に挙げて見せた。それでお礼を言えば「木曜に届いたんだよ。それで良かったか?」そう言って微笑まれた。  いつの間に嵌められていたのかと驚きはしたものの、正直もの凄く嬉しかった。  だって、まるでサプライズで婚約指輪でも貰ったような気になって。  そんなことがあったせいか、好きだと自覚したせいか、どれだけ笑われても許せてしまう。  たとえ後二ヶ月間だとしても、この指輪がある間、私は恭介さんの妻でいられるのだ。  読みかけの新聞で顔を隠しながら、まだ肩を揺らしている恭介さん。  こんな風に笑い続ける姿は、ただの上司だった頃なら想像もできなかった。  それを知れたことを嬉しく思いつつ、醜態を晒してしまったことは死ぬほど恥ずかしい。  まあ、振り返れば初めから結構やらかしてしまったから、今更だとも思うが。  でもこれじゃ絶対、女として見てはもらえないだろう。だけど今、こうして二人で過ごす時間は幸せすぎる。  どうにも巻き返せない事へのもどかしさと、現状の幸福感。  今この瞬間、切ない方に目を向ける気にはなれず、左手の指輪にそっと触れて、だらしなく緩もうとする口元に頑張って力を入れた。
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