▼部下と結婚

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 それから二人で契約内容について話し合った。場所は職場の事務所内だが、まだ始業時間より随分前で二人の他に人はいない。とは言え職場で堂々とするような話でもなく、淡々と、業務内容を確認するようなやり取りに留めた。  俺のデスクの傍に椅子を引っ張ってきてちょこんと腰掛け、手帳に記した俺の字と顔を交互に見ては頷く。酔って絡むような酒癖の悪さは想像もさせない、ごく普通の女性に見えた。  その日の部内の朝礼で早速結婚報告をしたのだが、それもまた業務報告のような感じで、案外平然とこなせた自分がおかしかった。  実際に公表してみれば、秘密の社内恋愛だったのかとか、課長も意外とやるなだとか、それなりに揶揄われはしたが別にどうってことはなかった。これは石森の悩みを解決してやるための、まさに人助けなのだから。  それに何を言われてもサラッとやり過ごせる。この結婚が、心を伴わないただの契約であるのがその理由だろう。  今日決めた内容で今日結婚の報告をしようとすることに、始め石森は狼狽えていたが、言い出したのはそっちだろうと返せば腹を括ったらしかった。いつまでも思い悩むくらいなら、さっさと実行してしまえばいい。  拳を握り締め「よし!」と気合を入れる姿は俺からすれば滑稽だったが、女性にとっての結婚とはそれだけ大きなものなのだろうな、と呑気に思うだけだった。  提出書類の用紙を取りに総務へ出向いたのは石森で、それをデスクで手渡されたときはさすがに気恥ずかしくなったが、それは石森も同じだったようだ。ほんのり染まった頬の色がリアルで、一瞬、本当に職場結婚をしたかのような気分になってしまった。  何かしらの幸福物質が分泌されたかもしれないことは、独身男の俺にとっても無意味でなかったのかもしれない。いつもより早く仕事が片付いていく現実に、そう思わざるを得なかった。  だから、なのか。  さすがに定時きっかりとはいかなかったが、普段なら帰るはずもないこの時間に帰り支度をしていた俺の目に、石森の姿が映った。
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