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どうするつもりもないのにこんな冗談を言ってしまったのは、石森なら真に受けずに返してくれるだろうという気がしたからだ。
そんなことを考えるようになった今、関係は以前より確実に一歩、深まっているのだと思える。だから今の俺は、部下を少しでも理解できたような気になれたのが嬉しいのだ、きっと。
そんなやり取りをしつつ、互いの情報はある程度交換できた。
好きな食べ物に始まって、苦手なもの、休日の過ごし方、家族構成、連絡先の交換もして、これから三ヶ月の契約内容をもう一度確認し合った。
二人してそれを手帳に書き留めていく様は、仕事上の契約を交わすための書類でも作成するかのようだったが、そんな調子で本当に玄関に突っ立ったまま二、三十分話して「じゃあ、失礼します」と他人行儀に、石森は立ち去った。
誰に渡す予定もないまま財布に入れていたカードキーは、石森がパスケースに入れて持ち帰った。自分の家の鍵と一緒にパンダの顔がついたキーホルダーにぶら下げられなかったのを、なぜか悔しそうにしていたのが可笑しくて笑ってしまったが。
だが、結婚を迫って来たあの夜からは想像もできないほどの警戒っぷりは、逆に俺を安心させることになった。
石森なら、変な気を起こすことも、起こされることもなさそうだ。そうでなければこんなふざけた契約結婚などできるはずもない。
なのにこの時は、これがふざけた契約結婚だということにも気づけずにいた。
困っている部下を助けなければ。
婚姻届のダウンロード画面をぼんやり見つめながらプリントアウトされるのを待っていた俺は、そんな風に思い込もうとしていたのだろうか。
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