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「いいのかな」
その週の金曜、浅井課長との約束通り、合い鍵を使って部屋の前までやって来た。
公には旦那様であるが、本当は違う。でもそれを知っているのは私と課長の二人だけで、こうして鍵も預かっている。本人の許可もあるのだからさっさと中へ入ってしまえばいいのだが、躊躇ってしまうのはやはり、実情が上司と部下の関係でしかないからだろう。
とは言え書類なんかも提出してしまった今、私たちは正真正銘の夫婦なのだ。
いつの間に用意してくれたのか、署名捺印済みの婚姻届に浅井課長の指示通り記入して、二人で役所に提出してきたのは昨日。
浅井課長のおかげで不備もなく、すんなりと受理されたのだ。
いくら契約でも、この時は照れ臭かった。
係の人はニッコニコで『おめでとうございます』と言ってくれるし、浅井課長が、『よろしくな、奥さん』なんて言ったから、余計に。
今日の帰り際、『一緒に帰らなくていいのか』と揶揄う川村君の言葉にギクッとなった私を助けるためかもしれない言葉にも、戸惑わされて。
『なるべく早く帰るから、いい子で待っててくれ』
その言葉とともに、意味ありげに向けられた笑顔。
多分あれは、仲のいい夫婦を演じようとしてのものだ。あとは、私の反応を楽しむためもあったかもしれない。
『石森の反応を楽しませてもらってる』そう言った時の笑顔と同じだったから。
なのにこっちは、ドキッとさせられてしまった。だって、今までに見たこともないような笑顔だったんだもの。
仕事中は全く今まで通りだし、フリだとしても夫婦らしさを感じさせるような瞬間は皆無。それなのに、たまに向けられる笑顔が以前より甘くなったように感じてしまうのは、私が無意識に糖分を求めているからだろうか。
彼氏いない歴約一年で、確かに糖分は補給できていない感がある。あんな表情であんなセリフ、彼氏にだって言われたことはないし。
それをまさか、上司に言われるとは。
もしかしたら元カノにもそう言っていたりして。ああ見えて、案外女誑しとか?
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