夫婦ごっこ

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 午後からの会議で使う資料に追加が出たため、コピーしながらそんな事を考えていたら、後ろから、落ち着いた柔らかな声に呼びかけられた。 「石森さん、それ午後の会議用?」 「あ、英子(えいこ)さん。そうなんです、もうすぐ終わりますけど、急いでますか?」 「ううん、まあ、気にしないで」  英子さんは多分私の母親と同じくらいの年齢で、わからないときは英子さんに聞け、と言われるほどのベテランさんだ。気さくで優しい、正に生管の母と言うに相応しい存在だ。 「それより結婚、おめでとう」 「あ、ありがとうございます」 「あの浅井課長が結婚とはねえ。しかも社内恋愛。仕事ばっかりしてる子だと思ってたのに……あらやだ、自分の息子みたいな言い方しちゃって、ごめんなさいね」 「あ、いえ」 「ねえ、最近の若い人って指輪しないの? 金属アレルギーとか?」 「いえ、違いますけど」  まずい! 指輪なんて、そんなものすっかり忘れてた。  だって、どうせ三ヶ月で離婚だと決まってるんだし、まさか、買ってくださいなんて言えるわけもないし。 「そう。なら付けてきたらいいのに。せっかくだもの、私にも見せてほしいわ」 「そ、そうですね。忙しくて、まだ見に行けていないというか、はは……」  誤魔化しきれるか。  ああ、金属アレルギーってことにしとけば良かった! 「あらやだ。なら早く買ってもらわなきゃ。向こうは付けなくても、女にとってはそういうの大事でしょ? 可愛くおねだりしてみたら?」 「あはは、そう、ですね。でも浅井課長忙しいんで……」 「あら、忙しくたって、愛する妻のためなら時間くらい作るわよ。そうでなきゃダメよ、夫婦って。それに土日があるじゃないの」 「そ、そうですよね〜」  困る。買えないよ、離婚前提なのに! 「そうそう。あー、いいわね新婚。私もあの頃に戻りたい。また色々聞かせてね」 「あ、はいぃ」  言い終わると、英子さんは黙って席に戻って行った。私をからかいたかっただけか。  でもどうしよう。指輪は盲点だったな。これがもし本気の結婚なら、そんな大切なこと絶対忘れるわけなかったのに。
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