▼純朴なキスを

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 まさか部下と、こんな衆人環視の中キスをするわけにはいかない。  煽り立てる声がどこか遠くから聞こえるような感覚の中、自分がどうすべきか必死に考える。  今は彼女にとっての夫という立場なわけで、それなのにキスを嫌がるのもおかしなことだろう。それに、これは契約結婚ですと暴露してキスを免れたとしても、ひなたの面目が立たない。  どうする?  咄嗟に考えたが、取るべき行動が何なのかさっぱりわからず、気がつけば目の前にひなたの顔が迫っていて息を飲んだ。  両側から頬を固定する手に果たしてどれほどの力があると言えるのか。  その手を剥がして笑って誤魔化すことが出来ないわけでもないだろうに、どうしてか一ミリも動けない。 「っ!」  肩に力が入った。  それ以上考える時間は与えられなかったからだ。  目の前に、近すぎて見えないほどの距離に、ひなたの顔がある。閉じた目を縁取るまつ毛が、小さく震えたように見えた。  何もかもから遮断され、今感じ取れるのは、俺とひなたの、上司と部下にしては近すぎる距離感だけ。  ふにゃりと柔らかな感触を感じ取った自身の唇。  ああ、やってしまった、と現実を受け入れざるを得なかった。  緊急事態に遭遇した場合というのは、適切な対処をするのが難しいのだと痛感する。  ひなたは酔っているから、あとになって覚えていない可能性もある。だが、これだけ注目されていては、このキスをなかったことにするのは不可能だ。  自分からはどうすることも出来ず何秒かその状態で固まっていれば、ヒューヒューと周囲からヤジられ、我に返って慌てて離れた。頬を挟んでいたひなたの手から力が抜けて、俺の腕に縋るように降りていく。  触れた唇は信じられないほど柔らかく、ひなたが酔っているからか少し熱かった。ただ押し当てるだけの口付けには色気も何もないのだが、閉じられた瞼がほんの少し震えたように見えて、まるで本物の誓いのキスでもしているような気にさせられた。  ひなたはトロンとした目で俺を見て、それから、こてんと胸に頭を預けてくる始末だ。  甘えるようなその態度に、周囲は余計に沸き上がる。 「川村、本当に悪いが、今日はこれで帰らせてもらう」  満足したのか、川村はニヤけた笑顔を浮かべていた。 「はいっ! ごちそうさまです! おめでとうございまーす!」  何がごちそうさまだ。この決まりの悪さは、仕事と川村の結婚式で相殺してやる。覚悟しておけ。  腹のなかでそう言って、視線をひなたに戻す。
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