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第一章
深夜、バイトを終えて帰宅した。
いつも通り鍵を開け、ドアを開け、靴を脱ぎ捨て、ついでに服も脱ぎ捨てて、洗濯機に放り込みながら部屋に上がった。
冷蔵庫からストゼロを取りだし、開ける。
ぐいっと一口、暗闇の中で飲む。
そしていつも通り、部屋の明かりをつけた。
……え?
だれだこいつ?
何故ここに子供がいるんだ?
なんなんだ?
驚きすぎて、声が出なかった。
男の子……か?多分そうだ。ずいぶん小さい……1階だから、窓から侵入?
いや、鍵がかかってるはず……というか、
どうすればいいんだよ!
子供だから、ただ追い出す訳にはいかないよな。
いや、でも不法侵入だし、
近所の子供のイタズラかもしれないし、
ええい、
つまみ出してやる!
俺は窓際にうずくまる男の子とおぼしき子供を追い出すつもりで、声をかけた。
「おい、この部屋から出ていけ!とっとと自分の家に帰りな」
しかし、子供は身じろぎもせず俺の方も見ない。
俺はイライラしてストゼロをグイグイ飲み、その缶を荒々しい音を立てて流し台に置いた。
その音に子供は反応して、こちらをチラ見したが、眉間に皺を寄せたかと思うと、またすぐに視線を自分の膝に落として、膝を抱え直してうずくまったまま、頑なに動かない。
動かないなら、引きずり出してやる!と思い、子供に近づこうとして、我に返った。
俺、今、素っ裸じゃん!!
まじかよ、いやまじで裸だよ。こんなガキいると思わねえから、いつもの調子で脱いでたよ。
外は真冬の寒さでも、タイマーセットしておいた暖房のおかげで部屋はホカホカ。
暖かい部屋に帰宅して裸でストゼロをあおり、そのままシャワーに直行。出てきたら、残りのストゼロを飲みながら、適当に冷蔵庫のものでメシを食うのが、俺の日常なのだ。
だから、俺は今、服を着ていない。
ガキに素っ裸で凄んでたかと思うと、恥ずかしさが込み上げてくる。
ちくしょう!!
俺は悪くない。あのクソガキが不法侵入しているから、こんな恥ずかしい目にあってるんだ。
とりあえず、服を着なければ……。
俺は、裸をガキに見られるのが恥ずかしいので、部屋の灯りを消して、暗闇の中を手探りで備え付けのクローゼットから、Tシャツと下着とジーンズを取り出して着た。
そして再び部屋の明かりをつけた。
適当に引っ張り出して着た服だから、ものすごくローセンスな出で立ちだが気にしてる暇はない。
赤のTシャツに黄色派手派手グラフィックジーンズだったとしても
そんなこと気にしてる暇はない。
とにかくこの不法侵入者のクソガキをつまみ出さねば!
「おい、おまえ!このクソガキ」
窓ぎわにうずくまる子供に近づいた。
……なんか薄気味悪いガキだな。
血色の悪い顔、ボサボサの頭、それも背中の真ん中辺りまで伸び放題、それにガリガリに痩せた体……
小さく丸まって膝を抱えてる姿は、難民キャンプのポスターの子供を彷彿させる。
「おい」
俺は子供の腕に手をかけた。ぐいと引っ張ると少し子供は傾いた。その拍子に子供の腹の辺りが見えた。
え?
こいつ、服を着てない……。
先程までは離れたところにいたし、小さく膝を抱えて丸まっているし、伸び放題の髪の毛が体を覆っていて、わからなかったのだ。
こいつ
なんで真っ裸なんだ?
パンツも履いてないなんておかしいじゃないか。いや、パンツだけ履いていても、おかしいけど。
じゃなくて
真っ裸の子供が俺の部屋にいるって
おかしすぎるだろ。
俺、もしかして幻覚見てる?
本当にそこに子供がいるのかどうか確かめたくて、俺はもう一度、その子供の腕に触れた。
触れる……。
掴んでみた。
掴んだ腕を引っ張り上げ、そこに立たせようとした。
だが、予想外の強い力で、俺の手は振り払われてしまった。
ガリガリのくせに怪力?すげえ力だな。火事場のクソ力ってやつか?
なんでそこに頑なにうずくまってんだよ。
俺は、今度は肩を掴んで押してみた。子供はよろけたが、すぐにまた膝を抱えてさっきよりもしっかりと丸まって、膝に顔を埋めた。
触れる幻覚ってあるの?
俺は、頭を抱えた。
この状況は俺の処理能力を完全に超えている。
幻覚でも本物でも、なんでもいいからとにかくこの薄気味悪いガキがこの部屋を出ていってくれたら、それでいい。
「お願いだ、幻覚なら今すぐ消えてくれ。
本物の子供だと言うなら、とっとと立ち上がって、あのドアから出ていってくれ」
俺は玄関を指さしながら、叫んだ。情けないが、半分声が裏返っていた。
子供は、微動だにしない。
声すら出さない。
「喋れないのか?返事くらいしろよ。なんでおまえはここにいるんだ?どうやって中に入った?……なんで裸なんだ?」
子供は俺を上目遣いに見上げたが、何も言わない。すぐに俯いて膝を抱え直した。俺はもう一度子供の両肩を掴んだ。
「頼むから、出ていってくれ。おまえにも親がいて家があるだろう?お前の家に帰れよ!ここは、おまえの家じゃない。俺の部屋だ」
子供は相変わらず無言だが、肩に置かれた俺の手を払いのけようと暴れた。
こちらもありったけの力で子供を掴んで引きずり出そうとしたが、見かけによらないずっしりとした重さで、1ミリも動かすことが出来なかった。
殴り合いのような揉み合いのようなバトルを息が荒くなるまで続けたが、子供を外に運び出すことは不可能だった。
俺は、子供から離れて床にへたりこんだ。俺は、息が上がってしまってゼェハァ言ってるのに、子供は息も乱さず、頑なに膝を抱えてうずくまっている。
俺は横目で子供を観察しながら、呼吸が落ち着くのを待った。
見えるし触れるし、重てえし、これは幻覚じゃないよな。
訳わかんねえけど、俺の部屋には、今、裸のガキが、膝を抱えてうずくまっているんだ。
……警察呼ぼう。
俺はカバンの中のスマホを取り出そうと立ち上がった。
カバンは玄関先に乱雑に置いたままだった。カバンからスマホを取り出し、警察に通報しようとして、はたと気づいた。
裸のままだとまずくないか?
事情を説明したとしても、じゃあなんで着るもの貸してやらなかったんだという話になるよな。逆に、俺が変質者扱いされちまうかもしれない。
なんか着せよう……。
俺は、クローゼットを開け、Tシャツを選び始めた。
捨ててもいいようなやつにしよう。
……って言っても、バイト代やりくりして買ったお高いTシャツばかりだから、捨ててもいい服なんて持ってないんだ。
困ったな……。でも何か着せなきゃ、通報できない。
ハンガーにかけられた服を1枚ずつ確認しながら、捨ててもいいやつを無理矢理決めようとした。クローゼットにかけられたハンガーをひとつずつ見ていくと、最奥にかけられた、着ることも捨てることもできない、1枚の白いTシャツにたどり着いた。
これか……。
白いTシャツは白い絵の具で塗りたくられていた。僅かに生成り色も混じっていて、見る人が見れば、抽象画を描いたTシャツとわかる。
高校の頃に、美術室の部室で描いたTシャツだ。
演劇部の女子生徒に着せて、撮影しながら描いた。制作風景をYouTube動画としてアップするつもりで、1人前にインスタレーションだぜ!と自信満々で描いたものだ。
これのせいで、停学自宅謹慎、美術部退部になったんだよな、俺。
……もう、手放した方がいいのかもしれない。もう、これに縛られてちゃ、ダメなのかもしれない。もう、忘れてしまわなければ、ならないのかもしれない。
忘れなきゃ、ダメなんだよな。
わかっていたが、出来なかったことだ。棄ててしまわなければならないのに、棄てられなかった。忘れたくないから、棄てたくなかった。
でも、忘れた方がいいんだよな。
俺はTシャツをしばらく眺めていたが、意を決してハンガーから外した。
棄てるよりは、着せる方がいいよな。
俺は子供の方に向き直り、声をかけた。
「裸じゃ寒いだろ。これやるから、着ろ」
子供は顔をあげて俺をじっと見つめてきたが、動く気配が感じられないので、俺が着せてやることにした。
先程は暴れまくったが、今回は大人しく着せられていた。
女性もののMサイズだが、子供がやせ細っているからか、おしりの辺りまで隠れた。まるでミニワンピースのようだ。
これで、警察に通報してこの子供を保護してもらえば、終わりだ。
俺はスマホを手に取り110番通報をした。制服姿の警官が2名、20分ほどでやってきた。
2人の警官は玄関先で俺に状況確認をしてから、部屋に上がってきた。
そして部屋を一巡し、トイレ兼バスルームを覗き込み、2人でヒソヒソ話した後、俺に向かってこう言った。
「あなたの言う不法侵入した男の子というのはどこにいるんですか?」
忙しいのにイタズラはよしてくれと言わんばかりの表情だった。俺はカーッと頭に血がのぼり、動悸が激しくなるのを感じた。窓際にうずくまっている子供のほうを指さしながら、
「え?だってそこにうずくまってるでしょ、見えないんですか?」
と言ったが、警官たちは顔を見合せて首を横に振った。
「私たちにはだれも見えません。あなたが指さしているところには、宙に浮かんだTシャツのオブジェしか見えませんよ。まるで人が着ているかのような形で宙に浮いています。不思議な仕掛けですね。……しかし、警察相手にふざけてもらっては困ります。わざわざあれを見せるために、我々を呼んだのでしょうが、ああいったものは、お友達にでも見せて、楽しんでください。警察はあなたの遊び相手でもお友達でもありません。それでは、我々は帰ります。失礼」
そんな……。俺にはこんなにはっきり見えてるのに!
「待ってください!ほんとに見えないんですか?白いTシャツを着て、窓際にうずくまっているじゃないですか?」
叫ぶ俺の肩を、警官の1人が押さえつけ、
「いいかげんにしなさい。警察は君のイタズラに付き合うほど暇じゃない。もうその演技はやめなさい。」
威圧的な声で俺を制した。
「それとも救急車を呼ぶかね?頭の検査をしてもらうために」
俺は、訴えるのをやめた。たとえあれが幻覚だとしても、病院送りは御免だ。それに、警察が取り合う気がないということはよくわかった。
Tシャツが見えて、子供が見えないなんて、どうにも納得いかないが、警官たちは俺のことを、くだらないオブジェを警官に見せるためにわざわざ110番通報したイカれた野郎だと思っているのだから。
これ以上食い下がったら、本当に救急車を呼ばれてしまうだろう。
あきらめて警官を帰すしかない。
帰り際、
「あのオブジェ、すごい仕掛けだと思うよ。ちゃんとしたところで発表した方が、君の将来のためなんじゃないかな?きっと有名な彫刻家になれるよ」
1人の警官が俺に向き直り言った。
「本官の趣味は美術館巡りなんだ。あれは、面白いと思う。本当だよ」
優しく微笑んでくれたが、俺は顔をひきつらせて、
「すみません、もういいです」
と小さな声で返事する事しか出来なかった。
ガチャン
ドアの閉まる無機質な音が響いた。
俺は部屋に戻り、頭を抱えた。
叫び出したい。
でも、声が出ない。
俺が狂ったのか?
人間じゃない何かがいて、俺にだけ見えるのか?
はっきりさせたい。誰か教えてくれよ!
おれは幻覚を見てるの?
それとも、「なにか」がいるの?
こんな夜更けに、バイト帰りで疲れきっているのに、なんでこんなことで悩まなきゃならないんだ。
しかも、もしも俺の幻覚じゃないとして。
だとしたら、尚更不気味じゃないか……。
ああ、もう、どうしたらいいんだよ!
困った時も、調べたい時も、寂しい時も、手持ち無沙汰な時も、とりあえずスマホを触ってしまう癖のある俺は、テーブルの上に置いてあるスマホを手に取った。
LINEの画面を開く。この時間に、連絡できる知り合いを探そうと思ったからだ。
でもなあ……、なんて言えばいいか分からない。だれを選べばいいか分からないよ。
悩んだ末に、俺は、よく遊ぶ仲間たちのグループチャットに、メッセージを送った。
『俺、やばいかも。今、幻覚見えてるかもw誰か助けて 』
「w」をつけなきゃ、書き込めなかった。
俺は、スマホをテーブルに戻した。
通知が来て欲しいような、来て欲しくないような複雑な気持ちで、床に両足を投げ出して座り込み、じっとしていた。
子供が座っているはずの窓の方は、見ないようにしていた。
見ないようにしているのだが、なにか気配のようなものは感じてしまっている。
かたくなに膝を抱えてうずくまる、か細い男の子の、絶対にここを動かないという意思のようなもの、無言の圧力のようなもの。
俺、もう寝たい。疲れた。
幻覚でも、幽霊でもどうでもいいや。
もう、ないことにして布団敷いて寝たい。
……布団敷くのもだるいなぁ。
俺は床に寝そべった。目をつむる。
冬なので、真っ赤なTシャツと黄色のグラフィックプリントのジーンズのままでは、暖房がついているとはいえ、寒くて風邪を引いてしまうのだが。
むき出しの腕には、うっすら鳥肌が立っているのだが。
俺は、床の冷たさを背中に感じながら、肌が寒さで粟立つのを感じながら、身動ぎもせず、寝そべっていた。
ブー、ブブッ
スマホのバイブが鳴って着信を知らせた。
LINEだ!
俺は飛び起きスマホを開いた。
『 どしたん?通話する?』
幼なじみで同じ大学に進学し、俺のアパートから徒歩5分圏内に住んでるナオからだ。
俺が既読すると同時に、通話の呼び出し音が鳴った。俺は捨てられた子犬が拾われた時のような喜びようで、通話に出た。
「ナオ……起きてたんだな、ありがとう。まじでありがとう」
「なしたん?バイトでなんかあったん?」
ナオはいつも優しい。今日も優しい。ナオの声で緊張が少しほどけた。
「俺、幻覚見えてるかもしれない。頭おかしくなったかもしれない。警察まで呼んじゃったし。なぁ、幻覚って触れるもん?Tシャツ着せてやることできるもん?俺には見えるのに、警官には見えなかったんだよ。でも、着せてやったTシャツは、警官にも見えてるんだよ。おかしくねえ?俺がおかしくなったのか、オカルト現象なのか、わからなくてさぁ。今、俺、すごくこわい」
ナオはいつも話が終わるまで静かに聞いていてくれるやつだ。今も俺の話が途切れるまで、黙って聞いてくれた。
「ビデオ通話にしよか」
ナオはビデオ通話をオンにした。スマホの画面に、心配そうなナオの顔が映った。俺もビデオ通話をオンにする。ナオの顔を見て、内心の恐怖が少し和らぐ。ナオは癒し系の男なのだ。
「疲れた顔してんなあ。……その幻覚、どこに見えてるの?見せてみて」
俺の話をちゃんと真に受けて、ナオは言った。俺は、鼓動がまた早くなるのを感じながら、黙ってスマホのカメラを窓際に向けた。
しばらく、ナオは無言だった。俺も黙っていた。
「確かに、Tシャツは見えるな。人が着てるみたいに見える。……でも、誰も見えない。こんなオカルト、聞いたことないなあ……。オヤジ案件かもしれないなあ。……明日、オヤジ連れて部屋に行くよ。知ってると思うけど、俺のオヤジは坊さんだから。信者さんのお祓いとか、よく頼まれてやってるし。……きっと何とかしてくれると思う」
……ナオ。お前にも見えないんだな、あのガキの姿。でも、俺の話を真面目に受け止めてくれるんだな。ナオ、お前と友達でよかった。ありがとう、ナオ。お前、ほんとに優しいやつだよ。
心の中は言葉で溢れかえっていたが、
「ありがとう、ナオ」
それしか言えなかった。
「おまえ、そこに1人でいるのは嫌なんじゃないの?ウチくる?」
ナオの優しい顔と声に、気が緩んだのか涙が出た。
「行く」
鼻をすすりながら、俺は答えた。
「泣くなよ。変なTシャツ着てるけど、気にしないから、そのまま来いよ。待ってるから」
ナオは笑いながら、早く来いよと言って通話を切った。
俺はそそくさと立ち上がり、ダウンコートを羽織った。窓際にうずくまる子供のことは少し気になったが、一晩一緒に過ごす気持ちにはなれなかった。
子供は、俺の通話の内容も、ダウンコートを羽織り出かけようとしてることも、全く気にしてる様子がなかった。
ほんとに気持ち悪いガキだな……。
俺はスマホと鍵と財布を持って、部屋を出た。
外は雪か……。
傘を差すほどでもないが、雪がチラついていた。
時計を見ると、深夜2時を過ぎていた。札幌の2月は、1年の中で一番寒い。この時間は、最も寒い。旭川で育った俺でも、3年もここで暮らしてると、今夜の寒さは身にこたえた。
「早く、ナオのとこ行こ」
ガタガタ震えながら独り言を言って、おれは足早に歩き出した。
早足で歩くと三分でナオの家につく。
俺のアパートから出て西の方向にまっすぐ歩き、角を曲がった3軒目のアパートの2階にナオは住んでいるのだ。
実家は寺で裕福なのだが、親父さんは厳しくて、ナオに慎ましいアパート暮しをさせて大学に通わせていた。ナオは、寺の息子なのに贅沢をせず、バイトも週5で入れていた。俺より熱心に勉強もしていた。優しくて真面目で、友達付き合いもマメで、俺が女なら、ナオと結婚したいくらい、いいやつなのだ。
……いや、結婚したいってのは言い過ぎか。
曲がり角を小走りに走り、その勢いでナオの住んでいるアパートの集合玄関を勢いよく開け、階段を駆け上がり、1番奥の部屋まで突っ走った。
ピンポーン。
ナオの部屋のインターフォンを押すと間の抜けた呼出音が響いた。深夜のせいか、いつもより大きく聞こえた。
少し間が空いて、いきなりドアが開いた。
「早いなあ。まさか、ほんとにあのTシャツのままきた?……まぁ、入れよ。うどん作ったから、一緒に食おうぜ」
ナオ、おまえは本当に彼氏に尽くす女みたいに気が利いて優しいよな。
……でも、ナオ。その前に、トイレ貸してほしいんだよ、帰宅してからずっと我慢してたから、もう限界なんだ……。
「悪い、トイレ貸して!もれそうで、まじヤバい」
「え?……まじか。早く行けよ」
ナオは驚いたあと、笑いが抑えきれずに大笑いしてた。
「緊張感ないなあ。……いや、緊張しすぎてて、トイレにも行けなかったのか」
俺がトイレから出てくると、ナオは、右手で顎を触りながら、真面目な顔でそんなことを呟いていた。
「ションベンしたいとか、おまえのアパートが見えるまで、気がつかなかったわ、俺。……こんな夜中にごめんな。うどんも、ありがとう。めちゃくちゃ腹減ってるわ、食おうぜ」
ダウンコートを脱ぎながら、ナオに話しかけると、ナオは指さしながら腹を抱えて笑いだした。
「おまえ、まじで着替えないで出てきたんだな。そのドラえもんプリントの真っ赤なTシャツで。……しかも真っ黄色のジーンズ履いてんの?オシャレに興味無い俺でも、それはやらないよ?大学のヤツらに見せたいな。写真撮っていい?ツイートするから。まさか、朝からその格好?」
……!!
いや、一応このTシャツは某ハイブランドのドラえもんコラボのレア物なんですけど。確かに黄色のジーンズに合わせちゃ、まずいけど。そこまでドラえもんを笑うなよ。おまえだって、ドラえもんには子供の頃にお世話になっただろ!確かにスーツ着てキメ顔のドラえもんは、ユーモアに溢れてるけど、そこがオシャレなんだよ、わかれよ。
「真冬に半袖でバイト行かねーよ。……これには色々事情があるんだよ。変なガキが俺の部屋に不法侵入してなけりゃ、こんな格好でこんな時間にお前のとこに転がり込んできたりしねえよ……」
「そりゃそうだよな。うどん、食べようか。……親父には連絡しておいたから、明日、旭川から大喜びで飛んでくるよ。うちの親父は、そういうお祓い系の人助け大好きだからさ」
白木のテーブルの上に二つ、湯気の立つ小さな土鍋を並べながら、ナオは普段の調子に戻って言った。
悪ふざけがあまり得意ではないナオがふざけたのは、俺に対する気遣いなのかと、湯気の立つ土鍋の中のうどんをすすりながら思ったが、どうやら違ったようだ。
「これ、着なよ」
そう言ってネルシャツを差し出すナオの顔が、やっぱりドラえもんを見ていて、笑いを噛み殺していたから。
でも。
今夜はそんなナオの表情に救われた。
普段なら、人に笑われるなんて耐えられない俺だけど。
笑いを噛み殺しながら、俺の赤いTシャツにプリントされたドラえもんをチラチラ見つつ、うどんをすするナオの様子に、俺は救われた。
ありがとう、ナオ。おまえが俺の友達で良かった。LINEに返信くれて、真面目に取り合ってくれて、うどんまで食わせてくれて、客用布団まで出して待っていてくれて、そこでニヤニヤ笑いを見せてくれて、ありがとう。
胸に込み上げてくるものは色々あったが、声に出すことは出来なかった。
「食べたら、寝ような」
優しいナオの言葉に、
「ありがとう」
と一言返すのが精一杯だった。
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