第二章 6

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第二章 6

 守屋の逮捕から二週間が経った。アリバイは立証できず、凶器偽装の証明に不可欠な二村も(よう)として行方が知れない。勾留期限の十日目で起訴されずに済んだのは、本城が踏ん張ってくれているからだ。  今回、異様に強く働く「上の意向」に、本城は逆らいつづけた。優次が先日留置場ではち合わせたら、「クビになったら仁見んとこで雇ってもらうか」と軽口を叩いていたが、その顔は疲労でやつれていた。勾留延長の十日間が終われば、いよいよ起訴は免れない。  守屋との接見を終えて事務所に戻った優次は、深いため息をついた。すると優次の前に、ヨシ江が湯気の立つカップを置いた。 「濃い目に淹れておきましたよ」  母の代から変わらない、ヨシ江のブラックコーヒー。慣れ親しんだ苦みと芳香に、優次はほっと人心地ついた。 「ああ、美味しい……ありがとうございます」  突然事務所の扉が開き、つかの間の休憩は終わりを告げた。 「坊主! 公安(ハム)のネタが割れたぞっ」  仁見がタブレットを片手に乗り込んできた。「先生と呼びな」とすごむヨシ江を受け流し、仁見は優次に画面をかざして見せた。映っていたのはEメールのやりとりで、送信元は殺されたSEの浦住だった。 「送信先は……ヴェーダ出版社?」]  浦住のメールの宛先は「キヨハラ」なる人物で、ドメインが「@Vedas(ヴェーダ)」だった。浦住は、メールで「納品物」の受け取り場所を指定していた。十月二十日、午前二時。高森神社の拝殿、狛犬の足元に納品物を格納したハードディスクを置く――。 「高森神社って……事件現場じゃないですか」  優次はメールに目を凝らした。 「そうだ。で、漣組本部がここ……ほら、目と鼻の先だ」  仁見がスマートフォンに地図を映し、位置関係を明らかにした。 「二村の野郎は、モーゼルをちょいと拝借して、安威川組から言われた通り神社に置いてきたってわけだ。この距離なら朝飯前よ」  胸ポケットから愛飲のたばこを取り出しつつ、仁見が吐き捨てるように言った。 「この『納品物』というのは、何ですか?」  納品形態がハードディスクとのことから、浦住がかねて手がけていた違法プログラム等だろうと察しはついた。仁見はゆっくり煙を吐き出し、「サイバー兵器だ」と答えた。 「國府化学工業の社内ベンチャーが立ち上げたスマートファクトリー、あれを狙ってる。樹脂の製造工程で、重合槽の撹拌(かくはん)機に回転異常を発生させて、爆発火災を起こさせるんだ」  優次の頭に、いつか仁見と見た社長インタビューの映像が浮かんだ。例の工場は先月竣工し、各種メディアで華々しく取り上げられた。サイバー攻撃を受けての爆発事故となれば、社会に与える衝撃は計り知れない。 「マヘーンドラは、来月の生誕祭に合わせてこれをしかけるつもりだぜ。ったく、地下鉄テロといい、『凡夫』の命をなんとも思っちゃいねえ。恐ろしい連中だよ」  マヘーンドラ帰依教の信者らは、自分たち以外の衆生を「凡夫」と呼び、その救済を使命としている。殺人を救済の手段とする詭弁は、二十年前の地下鉄テロ事件当初、教団の凶暴性を表すものとしてさかんに報道された。 「……では、この『キヨハラ』が、浦住さん殺害の真犯人だと?」 「ああ、間違いないね。メールソフトの削のデータを復旧したら、浦住を『救済』しろって、幹部からの指示メールがあった」  仁見が顔をしかめた。優次はにわかに混乱し、「ちょっと待ってください」と口走った。 「公安は、安威川組に手を回してまで守屋さんに無実の罪を着せ、真犯人をかばっているですか? マヘーンドラ帰依教の信者を? 教団は、公安の監視対象じゃないですか」  困惑する優次に、仁見は「タイミングの問題だ」と告げた。 「公安(ハム)は、待ってるんだ……生誕祭を。いざ教団がテロに及んだタイミングで、連中を一網打尽にしたいのよ。そのためならケチな殺人事案(コロシ)一件、目をつぶるってわけだ」 「ケチな……って……」  優次は絶句し、わなわなと肩を震わせた。 「だって、だって……守屋さんの人権はどうなるんです。それに、テロが起これば甚大な被害は避けられません。公安はそれをよしとするんですか?」 「マヘーンドラ壊滅は公安警察の悲願だ。そのためなら民間人の犠牲も致し方なしって判断さね。人の命を命とも思っちゃいねえ。公安(ハム)もマヘーンドラも、同じ穴の(むじな)だな」  仁見が淡々と述べて、「だから嫌なんだ、公安(ハム)はよ。反吐が出るぜ」と毒づいた。その顔にありありと浮かぶ怨嗟(えんさ)は見るからに根が深く、優次は息を呑んだ。仁見が公安を辞めるに至った経緯は知らなかったが、優次に指摘されるまでもなく、公安の暗部など仁見は百も承知だろう。 「……すみません。嫌なことを思い出させて」  優次が神妙に謝ると、仁見は「なんで坊主が謝るんだよ」と破顔した。 「それにしても、よく入手できましたね、浦住さんのメール」  タッチパネルをスワイプし、優次が感嘆の声を上げた。これが物証として採用されれば、守屋弁護の突破口が開ける。もちろん正攻法で検察庁に持ち込んでも、公安からの圧力で握り潰されるるのがオチだ。公安と反目し合う組対にアプローチするか、あるいは――。 「今回はおれの力じゃねえ。連中がずさん過ぎただけの話だ」  仁見は鼻白み、肩をすくめた。 「すわ、地下鉄テロの悪夢再来か……ってな重大案件なのに、やっこさんのパソコンは普通にインターネットにつなげてやがる。メールも市販のセキュリティソフト以外に保護かけてねえし、あんなもん、その気になりゃあ中学生だってハッキングできるぜ」  マヘーンドラ帰依教は、マスコミが喧伝するような武装組織ではない。単に教祖を盲信する信徒の寄せ集めで、組織立った動きはむしろ不得手だった。その綻びが、情報セキュリティの極端な脆弱さという形で露見しても、何ら違和感はなかった。 「このデータ、プリントアウトさせていただけませんか? 僕に少し考えがあります」  優次の頼みに、仁見は「いいけどよぉ」とためらいがちに応じた。 「無茶すんじゃねえぞ、坊主」  携帯灰皿に吸い殻を押しつけて、仁見が釘を刺した。  メールのプリントアウトは百枚近くに及んだ。分厚い紙の束を鞄に詰めて優次が訪れたのは、三鷹駅前の雑居ビルだった。  ポスターに覆われた七階の一角を見上げて、優次はポケットにしのばせたICレコーダーをコート越しに確かめた。「キヨハラ」本人がヴェーダ出版社に居るとは限らないが、会社を任されている幹部なら、何らかの事情を知っている可能性は高い。動かぬ証拠を突きつけて追及すれば、決定的な事実をぽろりと漏らすかもしれない。  そんな胸算用で、優次はビルの入り口に向かった。しかし、自動ドアが開いた瞬間、突然後ろから腕を掴まれた。 「うわっ……」  不意を衝かれた優次は、引っ張られるまま後ろによろめいた。背中がどすんと何かに当たり、振り向くと一志が立っていた。  抱き留められてときめいたのはつかの間で、優次はすぐ我に返った。外見が瓜二つでも、この男は一志と似ても似つかぬ公安の犬だ。  笠居に触れられても、優次はもう取り乱さなかった。一志と寸分たがわぬ姿に胸が騒ぎはしても、別人だと割り切れた。治安維持のお題目のもと、無辜の民を犠牲にしてはばからない外道に、一志を重ねられるはずがない。 「何かご用ですか」  優次は冷ややかに言い、笠居の手を振り払おうとした。しかし笠居は優次の腕を離さず、何食わぬ顔で駅に向かった。 「ちょ、ちょっと!」  抗う優次に、笠居が人差し指を唇の前で立てた。「しっ」と鋭くささやいた唇におのずと目がいき、優次は硬直した。  頭では別人だとわかっている。だが、目の前に息づく肉体の―手を伸ばせば触れられる温もりの、圧倒的な存在感はいかんともしがたいのだ。  改札口へ向かうエスカレーターの前で、笠居は脇の小路に入った。「準備中」と札のかかった昼間の赤ちょうちんが、わびしげなたたずまいを呈していた。 「先生、一体何をするつもりですか?」  ようやく優次を解放し、笠居が聞いた。非難するニュアンスが感じられて、優次は顔をしかめた。 「決まっているでしょう、突き止めるんです。あなたがたが隠していることを」  改めてヴェーダ出版社へ向かうべく、優次は笠居の横をすり抜けようとした。笠居は優次の行く手を阻み、「いけません」と制した。 「危険です。普段はこれといって害のない連中ですが、導火線は長くない」  静かに言い含められて、優次は「何言ってるんです」と冷笑した。 「サイバーテロを目論む教団は、確かに危険な存在だ。でも、あなたがた公安なら、止めようと思えば簡単に止められるはず。うちの守屋に無実の罪を着せてまで教団を泳がせて、テロの発生を手ぐすね引いて待っているんでしょう? 僕はあなたがたの方がよほど怖い」  優次の脳裡に、河川敷で見た信徒らの姿がよぎった。塀のなかに思いを馳せて、一心に祈りを捧げていた。信仰という、彼らにとって唯一無二の愛のためなら、なりふり構わず何でもする。そうとは知らぬ間に公安の手のひらで転がされる彼らは、優次と同類だ。  笠居の顔からは何の感情も読み取れなかった。優次を見下ろす静謐な双眸は、胸をえぐられるほど一志に似ていた。優次は未練を断ち切るように、目の前の男を鋭くにらんだ。 「あなたたちが守ろうとしている『国家』とは、霞ヶ関の総称でしかない。あなたには、大事な人が居ないんですか? その人のためなら自分はどうなってもいいと思える、その人の周りも含めて全部大切にしたい相手が」  優次が一志を、一志が義生を愛し抜くような相手が、この男にも居るのだろうか――。心が千々に乱れて、優次の頬を涙が伝った。 「僕は、僕の大事な人のために戦う。守る相手の顔も判然としないような、あんたたちには絶対負けない!」  涙に震える声を張り上げて、優次は笠居を押しのけた。今度は阻まれることなく、路地裏から抜け出せた。  昼下がりの駅前を、サラリーマンや親子連れ、学生たちが行き交った。商店街から聞こえてきたクリスマスソングに、優次は眉根を寄せた。  一志はもうすぐ、獄中で八回目の誕生日を迎える。迎えられないかもしれないという可能性は、考えないようにした。
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