第三章 1

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第三章 1

 優次のヴェーダ出版社訪問は、結局未遂に終わった。「嫌な予感がした」と、後を追ってきた仁見に止められたのだ。優次はしばらく抵抗したが、「もう調査依頼受けてやんねえぞっ」と脅されては、致し方なかった。  不承不承ビルを後にし、優次は「笠居寛人にも邪魔されました」とぼやいた。仁見は「なんだってえ」とひっくり返った。 「監視対象(マルタイ)拠点(ヤサ)にのこのこ(たい)晒すなんざ、どんだけヘボ公安(ハム)だよ。ったく、最近の若い奴は全くなっちゃいねえな」  さんざんな評価に、優次は内心首をかしげた。先ほど笠居は、優次の腕を掴むまで完全に気配を消していた。笠居の所作には、戦場で同様のステルス能力を養った一志に通じるものがあった。 「……それとも、坊主。おまえもしかして、笠居とは前から知り合いか?」  優次は「まさか」と目をみはった。 「知り合いなら、仁見さんに調査をお願いしたりしませんよ」 「だよなあ……にしても、妙だなあ……」  腑に落ちない様子の仁見とともに、優次は帰路に就いた。  守屋の勾留期限が翌日に迫った朝、一志がふと「しようぜ」と言った。優次は一瞬きょとんとしたが、博打のことだと合点がいった。 「あ……ごめん、兄ちゃん。今日、持ってくるの忘れちゃった」  鞄は守屋の弁護資料で満杯だった。いつもしのばせている手本引きの札を、詰め直そうと一旦取り出したまま忘れてきたのだ。肩を落とす優次に、一志は「構わねえよ」とあっさり返した。 「明日は、必ず持ってくるから」  一志から何か求められることは稀だった。応えてあげられなかったことが耐え難く、優次は「ごめんね」とくり返した。悲愴な面持ちに、一志が「気にすんな」と苦笑した。 「……明日から、守屋もここか」  一志がぼそりと言い、優次は言葉に詰まった。守屋の逮捕について一志に話したことはなかったが、拘置所でもラジオは聞ける。加えて、一志の場合はどうやら刑務官や衛生夫たちからも情報が入るようだった。  忸怩(じくじ)たる思いで、優次は「うん、たぶん」と弱々しく答えた。 「ごめんなさい……僕が不甲斐ないから、こんなことに」 「おまえのせいじゃねえだろ」  一志がこともなげに言った。優次がすがるように見つめると、愛しい男は、優次にだけそれとわかる微笑を浮かべた。 「大丈夫だろ、おまえが居れば」  幼少時、学校から泣きながら帰宅した優次を慰めてくれたときと同じ、泰然とした口調だった。守屋の逮捕以来、二十日間以上ずっと張りつめていた緊張の糸が切れて、優次は涙を堪え切れなかった。 「ったく、泣き虫は相変わらずだな」  甘く響く低音でささやかれ、涙はますます止まらなくなった。ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻した優次に、一志が「おまえはさ」と呼びかけた。 「漣組の、守護神なんだからよ」  一志の言葉が胸に沁みて、優次は再び涙腺が緩みかけるのを必死に堪えた。 「うん……うん、兄ちゃん……」  濡れた目を手の甲でこすり、優次が何度もうなずいた。腕時計に目を落とすと、そろそろ暇を告げる時間だった。守屋と接見の約束があったのだ。馬喰町署で接見するのは、今日が最後になる。守屋の身柄は、明日の午後にも東京拘置所(ここ)へ移送される見通しだった。 「じゃあな、ユウ坊」  アクリル板の向こうで一志が立ち上がり、いつもの言葉で別れを告げた。 「うん、兄ちゃん。また明日」  幼い頃、一字一句変わらぬやりとりを交わしたアパートが懐かしく思い出された。当時からずっと、一志は優次が生きる理由のすべてだった。  深夜から雨が降りはじめ、明け方にかけて徐々に雨足が強まった。ただでさえ遅い冬の日の出を分厚い雨雲が遮り、ぐずぐずと夜が明けなかった。  雨粒が窓ガラスを打つ音を聞きながら、優次は暗い部屋で目を覚ました。アラームをセットした時間よりも、五分早かった。  ベッドから降りるなり、まず手本引きの札を鞄に入れた。今日は日課の面会を済ませたあと、東京地裁へ起訴状を提出しに来た検察官をつかまえて、公判前整理手続きのアポを取るつもりだった。その後小菅へUターンし、身柄を移された守屋と接見する。面会受付終了の午後四時までに間に合えば、一志に二度目の面会を申し込めるだろう。 「がんばらなきゃ……」  しとど降る雨と同様に優次の心も晴れなかったが、一志の顔と、貰った言葉を思い浮かべて己を鼓舞した。 「僕は、守護神なんだから……がんばるぞ」  長い一日になりそうだった。優次は手早く身支度を済ませてマンションを出発し、かしましい雨音を聞きながら駅に向かった。 「面会できないって……どういう事ですか」  弁護士面会の受付で申込書を却下され、優次は女性係員に尋ねた。だが「面会できません」の一点張りで、らちがあかなかった。 「なぜです? 身体の具合が悪いんですか?」  問いをくり返すほど、優次の胸に浮かんだ小さなシミのような不安がみるみる広がった。  その可能性を、考えなかった日はない。その瞬間がいつ訪れても取り乱さぬよう、腹をくくっていたはずだ。  一方で、その日を迎えた悪夢で絶叫して目を覚まし、夢でよかったと額の汗をぬぐった朝も数えきれない。 「まさか、まさか――」  紙のように白い顔で声を震わせる優次に、係員は目を伏せて、「後ほど担当の者からご連絡いたします」と口早に述べた。  スーツの内ポケットで、マナーモードのスマートフォンが振動した。見てはいけない、と本能が告げていた。それでも、今の状態が一秒でも長く続く方が耐え難く、優次は端末を取り上げた。通知はニュースアプリだった。 「……あ、は……ぁ」  硬直していた喉が緩み、間の抜けた音を漏らした。画面には、「指定暴力団漣組 漣一志死刑囚の死刑執行」とあった。  その瞬間、優次は自分がなぜこの場に居るのかわからなくなった。早く、帰らなくては。兄ちゃんが来る前に、アパートの鍵を開けておかなくちゃ――。  きびすを返し、去ろうとした優次の後ろから、忙しない足音が聞こえた。 「雨岸優次先生っ!」  自分の名前につく「先生」という敬称に首をかしげつつ、優次は後ろを振り向いた。紺色の官服をまとった若い刑務官が、滂沱(ぼうだ)の涙を流していた。全力で走ってきたのか、しゃくり上げる合間に肩で息をしていた。 「うっ……ううっ、先生、ことづてが……」  涙と(はな)で顔じゅうグシャグシャにしながら、刑務官が優次と向き合った。ぼんやりと突っ立ったままの優次に、若い男は洟をすすって言葉をつづけた。 「漣さんからっ……先生に、伝えて欲しいと」  優次の周りに、一志を「漣さん」などと呼ぶ者はない。その名がまず指すのは、一志の養父(ちち)だからだ。兄ちゃんのお父さんが何の用だろうと、優次は首をかしげた。  だが次の瞬間、見知らぬ男から告げられた「ことづて」が、夢うつつだった優次を残酷な現実に引き戻した。 「最期に……『半分じゃねえ、全部だ』って」  昨晩からの大雨で、綾瀬川は氾濫寸前まで増水していた。川沿いの道路を歩く優次が河川敷を見下ろすと、今にもあふれそうな川面のすぐそばで、白装束の一団がマントラを唱えていた。単調なしらべを延々くり返すマントラが雨音に溶けて、鈍色(にびいろ)の世界に響いた。  蓮華座を組む信徒らは傘などささない。優次と同じく、濡れねずみだ。ぐっしょりと水気を含んだ沙門服が痩身に張りついても、瞑目したまぶたから頬、おとがいへと雨水がとめどなく伝い落ちても、信徒たちは一糸乱れぬマントラをつづけた。  突然、優次の背中に鋭い痛みが走った。衝撃で堤防を転げ落ちた優次は、信徒たちから十メートルほど離れた地点に投げ出された。鞄の中身がぶちまけられて、守屋の弁護資料と手本引きの札が地面に散らばった。  地べたに仰臥した優次を、三つの顔が見下ろした。うち二人には見覚えがなく、もう一人は漣組の二村だった。 「セーンセ、まいど」  童顔に人好きのする笑顔を浮かべて、二村が会釈した。 「ホンマはこないなマネしとうないんやけど、先生、いらん事ばっかしよるし……」  二村の持つ花柄の傘から、ピンク色の影が差した。二村は子どものように傘をクルクル回し、泥まみれで雨に打たれる優次を眺めた。 「ボク、なんべんも言うてますやん。いまどき博徒なんて流行らへん。梶の代紋で安定経営目指しましょ、って」  足元に落ちていた張り札を踏みつけて、二村が大仰に肩をすくめた。 「せやのに、守屋のおっさんと先生が邪魔しよる。せっかく本家の直参から盃のお誘いもろてるちゅうんに、このままじゃご破算や」  二村の向こうに、マヘーンドラの信徒たちが見えた。一心不乱に祈りを捧げる彼らは、俗世のいさかい事になど興味を示さなかった。  二村が若い衆に目配せすると、男たちは左右から優次の両腕を掴んで引き起こした。二村の前で膝をつく格好となったが、優次に抗う気力はなかった。  うなだれる優次の顎を二村が掴み、顔を上げさせた。 「守屋のおっさんには、このまま別荘行って貰わなあかんのですわ。せやから、先生は余計なマネせんとってくれますう?」  二村があどけなく小首をかしげた。この男の面従腹背を、守屋が見抜けなかったはずがない。それでも見捨てなかったのは、凄惨な虐待を受けて育ったという二村の身の上に、己を重ねたからだろう。 「漣組はボクがちゃんと面倒見るさかい……安威川組の、『エダのエダ』としてね」  漣組。一志が人生をかけて義を貫いた証が、仇敵の底辺に成り下がる。優次の目がにわかに光を取り戻し、拘束から逃れようと激しく抵抗した。両腕に食い込む男らの五指にますます力が入り、みしりと嫌な音を立てた。 「っぐ……!」  優次が悲鳴を漏らすと、二村が「けなげですねえ、センセ」と揶揄(やゆ)した。 「今さっき吊るされたんやって? もう『狂犬』に(みさお)立てる必要あれへんな」  二村の手が、優次の前髪を鷲掴みにした。濡れ髪を力まかせに絞め上げられ、鋭い痛みが走った。だがこれ以上、この卑劣な男を喜ばせまいと、優次は奥歯を噛み締めて耐えた。  殺気のこもった目でにらむ優次に、二村はことさら甘く微笑んだ。 「十年来の借り、アイツに返しそびれた分、センセにたっぷりお返ししたいてお人がおってな。怖がらんでええよ、天国見せて貰えるさかい――」  二村が優次から手を離すと、優次の身体が再び地面に転がった。 「……あれっ?」  優次を捕らえていたはずの若衆が、二人ともこつぜんと消えていた。辺りをきょろきょろ見回した二村が、次の瞬間、優次の前から吹き飛んだ。 「やめろっ!」  聞こえるはずのない声がして、居るはずのない男がそこに立っていた。  男は片手で傘を拾い、もう片方で優次を抱き起こした。黒いコートが雨水と泥で汚れるのもいとわず、男は優次を抱き締めた。どくん、どくんと脈打つ男の心臓は、服越しでもわかるほどに熱かった。  男の肩越しに、失神して転がる三人の姿が見えた。すぐそばでヤクザが伸びていても、彼岸の「神」を崇める信徒らはいささかも動じず、マントラを唱えつづけた。 「しっかりしろっ」  優次の耳元で男が怒鳴った。その声の心地よさに、優次は泣きたくなった。 「あんた、『守護神』じゃねえのか。漣一志が大事にしてたもの、あんたが守り抜くんじゃなかったのかよっ」  男に叱咤(しった)されて、優次は息を呑んだ。 「おい、先生……先生……」  ――その声で「先生」と呼ばれたことは、数えるほどしかない。なぜ今、そう呼ぶのか。どうして、いつものように呼んでくれないのだろう。 「せ……っ……『ユウ坊』っ!」  優次はぴくりと身じろぎ、男の顔を見上げた。傘の温かな影に優次を匿い、静かなまなざしで優次を包む、男は――。 「……兄ちゃん。迎えに、きてくれたんだ」  ほっとして笑った優次に、が「ああ」とうなずいた。
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