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第三章 2
「ちょっと、そこで待ってろ」
ずぶ濡れの優次を玄関に立たせて、一志が部屋に入った。ほどなくバスタオルを手に戻り、優次を頭から丁寧に拭いてくれた。
古ぼけたアパートは、優次が母と暮らす借家にどことなく似ていた。
「兄ちゃん、家あったんだ。本部に住んでると思ってた」
優次が意外そうに言うと、一志はなぜか言葉に詰まった。
「もしかして、組には秘密だった? 大丈夫、守屋さんに言いつけたりしないから」
いたずらっぽく笑う優次に、一志が「ああ」と生返事をした。
優次の濡れたコートを一志が脱がし、壁のフックに引っ掛けた。雨水は優次のスーツまで染みており、一志はジャケットも同様に脱がせて「クリーニングに出さねえと」とつぶやいた。ズボンも酷いありさまだった。優次は一志が脱がせてくれるのを待ったが、一志は困ったように視線を泳がせた。その理由に思い当たり、優次は「あ、ごめん」と謝った。
「もう子どもじゃないんだから、自分で脱げるよ。大丈夫」
冷たい水が下着にまで染みて、気持ちが悪かった。優次はベルトのバックルを外すと、下着ごとズボンを引き下ろした。すぐに一志が優次をタオルで包み、「入れ」と促した。優次は靴と濡れた靴下を脱ぎ、「お邪魔します」と一志の後をついていった。
六畳一間の和室には、小さな液晶テレビとちゃぶ台、そして片隅にストーブが置かれていた。一志がスイッチを入れると、橙色の光が薄暗い部屋に浮かび上がった。一志は優次に暖を取るよう告げると、浴室に向かった。ほどなく、浴槽に湯が注がれる水音が聞こえてきた。
ちゃぶ台に、テレビのリモコンがあった。ニュースでも見ようかと優次は手を伸ばしたが、一志が足早に戻り「やめとけ」と制した。
外では強い雨がつづいていた。雨の音と風呂場の水音が、優しい二重奏を響かせた。
一志はちゃぶ台を挟んで優次と向き合い、黙ったまま胡座をかいていた。一志と共有する静寂は、いつも心地よかった。
しばらくして一志が湯加減を見に立ち、浴室から「沸いたぞ」と優次を呼んだ。狭い脱衣所ですれ違いざま、優次が「一緒に入らないの」と一志を呼びとめた。
「こんな狭い風呂、二人も入れねえよ」
呆れる一志に、優次は「そっか」としょげた。落胆ぶりが目に余ったのか、一志は小さくため息をついて「背中くらいなら流してやる」と言った。
「うん!」
優次がうきうきと湯船に向かい、背後で一志が苦笑した。
風呂は、一志より小柄な優次でも少し手狭に感じられた。膝を曲げて胸元まで浸かると、冷え切った身体に湯の熱さが染みわたった。
「はあ……あったかい……」
うっとりと目をつむった優次に、一志が「目、開けるなよ」とシャワーを掛けた。泥のついた髪を一志の長い指で梳きながら流されて、優次はふわふわと、幸せな気分に満たされた。
「これでよし、と」
温かい雨が止み、一志が言った。去りかけた手を優次が掴み、そのまま引き寄せると、たやすくキスの届く距離になった。
「兄ちゃん……」
すぐそこにあった一志の唇に唇を寄せたが、重なる直前に離れていった。優次が驚いて見上げると、一志は優次と目が合う前に顔を逸らした。キスを拒まれたのは初めてで、優次は悲しみよりも戸惑いを覚えた。
「なんで? 僕、何か変なことした?」
優次がためらいがちに尋ねた。一志の横顔に微かな緊張が走り、ややあって優次に向き直った。一志は浴槽のふちに手を掛けて、優次の目を覗き込んだ。
彫りの深さで、うっすら影が落ちかかる双眸。一志の黒々とした瞳は極夜のようで、優次を穏やかに包む。だが今日は少し違っていて、優次はいぶかった。違和感の正体を突き止める間もなく、一志のキスが降ってきた。
「……何も、変じゃねえよ」
ちゅ、ちゅ、とついばむキスのあわいに、一志が低くささやいた。延々戯れるだけのくちづけに優次が焦れて舌先をのぞかせると、一志にたちまち絡めとられた。
「んっ、……ふ、ぅう……っは……」
歯列を割り、口腔をまさぐられて、優次も情熱的に応じた。互いの舌を根元まで深く挿し込み合って、熱く濡れた粘膜を丹念に舐めしゃぶる。毎日のようにくり返しているはずの交歓なのに、不思議とずいぶん久しぶりな気がした。
そのためか、優次の下肢は、キスだけでもよおしはじめた。
「ん、ん……はぅ……っ」
舌を吸い合う隙間から湿った吐息を漏らし、優次は膝をこすり合わせた。一志がふとキスを解き、浴槽を見下ろした。頭をもたげたペニスの、くすんだピンクの先端を凝視されて、優次の頬がにわかに火照った。
「触って欲しいか?」
内緒話のように耳打ちされて、優次はますます赤くなった。
「う、うん……」
こくんとうなずいた優次に、一志が「わかった」と返した。恋人同士の甘さに欠ける、普段以上に硬い反応だった。優次は一抹の寂しさを覚えると同時に、それでこそ漣一志だと憧憬を強くした。
優次の屹立が、一志のたなごころに収まった。一志は柔らかく握り込んだ竿をトン、トンと優しいリズムで扱いた。包皮を無理に押し下げることはせず、一志は優次のペニスが熟すのを待った。
「んッ……あっ、あっ、あぁんっ……」
だらしなく喘ぐ優次の唇を、一志がおもむろに塞いだ。先ほどの激しさは鳴りを潜めて、ゆっくり舌を抜き差しするだけのキスだった。
やがて勃起が完全な形になると、薄皮はおのずと剥けて、カリ首にわだかまった。それまで亀頭には触れずにいた一志の指が、先端の浅い割れ目をえぐった。優次は不意打ちに悲鳴を上げて、湯のなかでとばしりを放った。
「っん、あ、ごめん……なさい、お湯……」
汚しちゃった、と重ねた唇の隙間で優次が謝ると、一志が「構わねえよ」と笑った。
「身体、洗うか」
脱力した優次を一志が湯船から抱き上げて、洗い場の椅子に座らせた。せっけんを泡立てて洗われるうちに、優次を睡魔が襲った。こっくり、こっくりと舟をこぐ優次に、一志が「寝てていいぞ」と労わるように言った。
薄れゆく意識のなかで、優次は一志に全身を拭われ、髪を丁寧に乾かされて、丈が余る寝間着を着せられた。布団の冷たさに身じろいだのもつかの間、すぐ温かな眠りが訪れた。
完全に眠りに落ちる直前、一志が優次に何かを握らせた。何だろう……と不思議に思ったが、目を開けて確かめるのが億劫だった。
「おやすみ、先生」
一志がささやき、玄関から出ていった。「先生」とは誰のことだろう。そうか、母が帰宅したのだ――。
混濁する意識のなかで安堵して、優次は極夜の闇に身をまかせた。
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