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第三章 3
まぶた越しに感じるまぶしさが、優次を安らかな眠りから揺り起こした。
「うん……?」
まぶたの裏にオレンジ色の光が溶け広がり、優次は眉をひそめた。うっすら目を開けると、金色の光の粒が、優次の視界を埋め尽くした。非現実的な情景は、優次をしばし圧倒した。
徐々に意識が覚醒し、優次はぎょっとして飛び起きた。小ぢんまりとした和室に、西向きの窓から燃えるような夕陽が差していた。寝かされている布団も、着せられているパジャマも自分のものではない。股間が妙に心もとないと思ったら、慣れ親しんだボクサーブリーフの代わりに、真新しいトランクスを履いていた。そもそもこの部屋自体、優次は全く見覚えが無かった。
掛布団を跳ね上げると、何か小さなものが転がった。白いプラスチックのUSBメモリだった。これにもさっぱり見覚えが無く、優次はますます困惑した。
ふと顔を上げると、液晶テレビの黒い画面に反射する自分と目が合った。部屋の隅に寄せられたちゃぶ台からリモコンを拾い上げて、電源を入れた。ちょうど夕方の報道番組が始まったところで、画面左上に四時五十二分と表示があった。
メーンキャスターの隣のパネルが目に入った瞬間、優次は凍りついた。「漣一志死刑囚 今朝執行」と銘打たれ、一志の経歴を時系列で整理してある。各項目をキャスターが解説するのに合わせて、七年前の映像が差し挟まれた。安威川組の事始め、本家周辺で警戒態勢を敷いていた警察官たちの前に現れた、返り血に染まった一志の姿。所轄署の留置場から小菅へ移送される車内で、まっすぐ前を向いた顔。法廷のスケッチには母の姿もあった。
すっぽり抜け落ちていた、朝から現在までの記憶が、優次の頭に怒涛の勢いでよみがえった。優次は途端に青くなり、必死の形相で辺りを見回した。
「す……スマホ、僕のスマホ」
探し物はすぐに見つかった。窓の前に新品の服一式が積まれ、その上に優次のスマートフォンが置いてあった。通知のライトが点滅する端末を恐る恐る手に取ると、案の定、着信通知が百件を超えていた。
留守番電話も数十件入っていた。一件ずつ聞く時間はないので、冒頭だけ聞いて次々と飛ばしていった。大半がメディアからの取材依頼だったが、ヨシ江からも十件近くあった。最初のうちは『先生、早くお戻りください』と口調にまだ余裕がみられたが、最後の数件は、『坊ちゃん! ご無事ですかっ』と取り乱す様子が生々しく伝わった。
そして、一件は拘置所からだった。遺体が安置されている葬儀社の場所を告げるものだ。ごく最近聞いた覚えのある声だった。泣きながら一志のことづてをしてくれた、あの若い刑務官だと思い当たった。
取り急ぎヨシ江に電話すると、「ああ、よかった」と涙ながらにくり返された。ヨシ江からの一番新しい留守電には、『早まっちゃいけません、お願いですからっ』と泣きじゃくる声が録音されていた。優次は苦笑して、「大丈夫ですよ」と告げた。
「後を追ったりしませんから……ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
本音を言えば、それを考えなかったわけではない。だが、何もかも中途半端なまま一志のもとへ向かえば、一志に軽蔑される。一志は、義生への義を通すという人生の目的を果たし、司法の裁きからも逃げることなく、最期まで生き抜いた。優次が後を追えば、一志の生きざまを否定することになる。
執行を知らされた瞬間は頭のなかが白くなったが、少なくとも今は冷静さを取り戻していた。目の前に山積した課題を、粛々と片づけなければならない。
「事務所が大変でしょう。今から戻ります」
優次が言うと、ようやく落ち着いた様子のヨシ江が『先生、お待ちください』と答えた。
『今お戻りになっても、たむろしているマスコミの連中を喜ばせるだけです。それより、ご遺体の引き渡しをお済ませなさいな』
ヨシ江の気遣いに礼を述べて、優次は電話を切った。
笠居が用意してくれた着替えは、値札が全て切られていた。優次は黒のタートルネックとジーンズ、ダウンジャケットに着替えて、大きなパジャマを畳んで置いた。ちゃぶ台の上に、「コートとスーツは後日事務所にお送りします」と、角ばった字のメモ書きがあった。外見が瓜二つだと書く文字まで似るのかと、優次は素朴な感動を覚えた。
スマートフォンのGPSで確かめると、笠居のアパートは阿佐ヶ谷の外れにあった。小一時間後、優次は拘置所から知らされた武蔵境の葬儀社に到着した。
一志は安置室で布団に寝かされていた。付き添っていた女性スタッフが、優次と入れ替わりに出ていった。電話で依頼した、湯灌の準備をするのだろう。
子どもの頃と同じ、いとけない寝顔だった。優次が一志の頬にそっと触れると、微かな温もりが残っていた。
顔から肩、腕、足と、掛布団越しに感触を確かめた。死後硬直で固まっていたが、優次の記憶にあるのと変わらない、すらりと長い四肢だった。
優次は布団に手を潜らせて、一志の利き手に指を絡めた。顔と同じく、僅かな体温が伝わって、その微弱さが優次の胸を衝いた。
ほぼ八年ぶりの接触だった。ようやく合わせた肌から、優次が一志に熱を分けることはもう叶わない。ただ、一志の命の残滓を受けとめることしかできないのだ。
つい先ほど間近に感じた、命の息吹き。めまいがするほどの熱量を、否が応でも思い出してしまう。酷い裏切りだと慚愧に堪えない一方で、目の前の亡骸が一志だという実感がどんどん遠ざかる。緩やかに熱を放出し、冷たく硬くなっていく、かつて一志だったもの。記憶にある、静謐なまなざしの奥に固い信念を宿す漣一志と、どうしても繋がらない。
物言わぬ屍よりも、激しい雨に打たれながらヤクザを三人ぶちのめした男の方が、優次に一志を思い出させた。
「失礼いたします」
担当の女性スタッフが、同僚をともない戻ってきた。優次はハッと我に返り、「お願いします」と頭を下げた。
湯灌用の浴槽が部屋に運び入れられた。二人のスタッフがそれぞれ遺体の頭と足を持ち、手際よく浴槽に寝かせた。肌が露出しないよう、バスタオルで覆ってから衣服を脱がせる。流れるような所作を見ながら、優次はいつしか泣きじゃくっていた。
女たちに甲斐甲斐しく洗われる一志と、笠居の手で洗われた自分が重なり、優次はやるせなさに煩悶した。
笠居の「湯灌」が葬送したのは、身体の触れ合いなど要らないと自分を騙しつづけた、優次の詭弁ではなかったか。
むせび泣く優次の前で、湯灌を終えた女たちが、遺体に経帷子を着せた。つづいて死化粧が施されていき、女の指が遺体の首に触れたところで、優次が「待ってください!」と叫んだ。女は驚いて手を止めた。
「首の、痕は……消さないでください。故人はきっと、それを望みませんから」
絞首刑の傷跡は、一志が最期まで逃げなかった証だ。もはや優次に一志を喚起させない遺体のなかで、その傷跡だけが、一志の一志たる所以を証明してくれる気がした。
生前の希望通り、一志の葬儀では通夜も告別式も行わなかった。明朝の火葬まで、優次がろうそくの番をした。
零時を回った頃、廊下がにわかに騒がしくなった。安置室のドアが開き、仁見と本城が小競り合いをしながら入ってきた。一気に眠気が吹き飛び、優次は目を丸くした。
「お二人とも、どうしてここが」
思わず口走った優次だったが、愚問だったと苦笑した。ヨシ江にはこの場所を伝えていたのだ。仁見がヨシ江から聞き出し、本城は勝手についてきたのだろう。
「音信不通になっちまうから肝が冷えたぞ」
しかめ面の仁見に、優次が「申し訳ありませんでした」と謝った。本城は「若先生は、後追いなんかするタマじゃねえよなあ」と破顔した。男たちは順番に線香を上げて、遺体に語りかけた。
「あの世で愛実先生にちゃんと礼を言えよ。寿命を削って、お前にけじめ付けさせてくれたんだからな」
仁見が懐かしげに言った。つづいて本城が、「最近はろくなヤクザがいねえ」とぼやいた。
「おまえみたいな筋の通ったのは、絶滅危惧種だったよ。だからおれは、おまえが嫌いじゃなかった。親父さんもな」
しみじみと言う本城に、仁見が「マル暴の台詞とは思えねえな」と茶々を入れた。再び小競り合いをはじめた二人に、優次が「あのう……」と切り出した。
「ん? どうした、坊主」
「こちらを、ご確認いただけませんか」
優次が仁見に手渡したのは、笠居から託されたUSBメモリだった。
「なんだ、そりゃ?」
仁見の肩越しに覗き込み、本城が首をかしげた。優次が「笠居刑事からです」と告げると、二人の顔色が変わった。
「守屋さんが冤罪である、決定的な証拠です。確認いただいて、担当検察官にもお見せいただけませんか?」
優次は深々と一礼し、「僕が行ければよかったんですが……」と言いよどんだ。恐縮する優次に、仁見が「任せとけ」と言った。
「坊主は明日、火葬やら何やらで忙しいだろう。本城もいるし、心配すんな」
仁見の隣で、本城が「守屋の方は、明日おれが小菅で様子見てきてやる」と胸を張った。
「ありがとうございます」
優次は微笑み、棺に向き直った。ろうそくの焔が揺らめく向こうで、線香が細い煙を薫らせた。
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