エピローグ

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エピローグ

 ヴェーダ出版社の清原(きよはら)は、寛人が内通者(エス)候補としてマークしていたマヘーンドラ信徒だった。國府化学工業に対するサイバーテロの陰謀が発覚してからも尾行をつづけていたが、殺人まで犯したのは想定外だった。  まだ泳がせろとの上層部の意向で、命令のまま真実を隠蔽したが、身代わりにするよう命じられたのが漣組の若頭で途方に暮れた。案の定、母の後を継いで顧問弁護士となった雨岸優次が現れ、寛人は深く懊悩した。  漣一志の死刑執行がなければ、寛人が優次に隠蔽の証拠を渡すことはなかっただろう。だが、一志を喪い壊れかけていた優次を、あのまま放っておけなかった。  大局を見るとの名分で殺人を看過する公安のやり方に、疑問を抱いたのは確かだ。寛人が警察官を志した原体験である、マヘーンドラ帰依教のテロを待ちかねるような戦略にも、大いに反感を持った。それでも、離反するに至った一番の理由は、優次の言葉だった。  大事な人――漣一志を守るために戦うと宣言した優次が、寛人はまぶしかった。雨岸家を監視していた際、寛人が何より魅かれたのは、一志を思う優次の一途さだったと改めて胸を衝かれた。  言うまでもなく、一志の外見が寛人に生き写しだという事実は、寛人が優次に寄せる思いに少なからず影響を及ぼした。そもそも、執心の端緒はそこだった。自慰に耽る優次の声を耳にし、自分のこの姿なら、優次の頭のなかの一志に成り代われるのではと妄想してしまったのだ。  清原が逮捕されて、公安一課は上を下への大騒ぎになった。寛人は停職処分となり、年明けまで自宅謹慎を命じられた。十二月中旬、離島の駐在所への異動を内示された。  引っ越し準備を済ませて御用始めに出勤すると、急遽本庁に呼び出された。監察かと身構えたが、受付で告げられた行き先は五階の組織犯罪対策部だった。  大部屋に入るなり、組対四課の名物刑事・本城が「よお、ドッペルゲンガーってのはおまえか」と寛人の肩を叩いた。  寛人は本城が預かる13係の所属となった。住んでいたアパートは既に引き払ってしまっていたので、三軒茶屋の独身寮に入居した。  闇に潜む公安稼業と比べて、大立ち回りも間々ある組対の現場は刺激的だった。どこへ行っても「げえっ、漣組の狂犬」と仰天されるのには辟易したが、やがて「マル暴に漣一志の亡霊がいる」と、斯界でもっぱらの噂になった。  異動して初めての有休、漣一志の墓参りに行った。優次に遭遇したのは、偶然ではなかった。本城が、「若先生は墓守に熱心だ」とヒントをくれたのだ。  墓に手を合わせる寛人を、優次が「兄ちゃん」と呼んだ。執行当日ほどではなかったが、その目は焦点が合っておらず、危うい印象を受けた。同時に、優次のささやきは、寛人の心を激しく揺さぶった。  一志というよりどころを喪失し、崩れ落ちそうな優次を救いたいという挺身。「亡霊」としてなら、優次に愛されるのかという私欲。  優次の弱みにつけこんだ側面は否めない。だが、優次が八年弱にわたり触れることが叶わなかった一志の身体と、望みうる限り同じものを、寛人なら――この世で寛人だけが、優次に与えられるのだ。いびつな恋を、更に歪な形で昇華することに、迷いはなかった。  そうして三年が経ち、寛人は昇進人事で西荻窪署へ異動となった。ようやく板についた、本職よりもヤクザらしいど派手なスーツは、マル暴刑事(デカ)の制服だ。  パトロールと称して、優次の事務所に足を伸ばした。デスクでパソコンに向かっていた優次が、寛人を見るなり「兄ちゃん」と笑顔になった。  寛人は相変わらず、「一志」を演じていた。さすがに優次がまだそれを真に受けているとは思えなかったが、時折――特に閨房(けいぼう)では、優次はままごとを好んだ。  ベテラン事務員の野上が、寛人にうさん臭げな目を向けた。手土産のシュークリームを渡しても、フンと鼻を鳴らされて、寛人は苦笑した。「公安(ハム)上がりは嫌いだよ」というのが、彼女の口癖だった。  それでも「ついでだからね」と、野上が寛人の分までコーヒーを淹れてくれた。応接のソファセットで優次と茶菓子をつついていたら、優次がふいに「ねえ」と切り出した。 「うん? なんだ、ユウ坊」  初めは口にするたび違和感のあった愛称も、すっかり馴染んでいた。そんな寛人から優次は目を逸らし、ぼそりとつぶやいた。 「……だけじゃ、ない」 「えっ?」  思わず聞き返すと、優次は姿勢を正して、寛人の目をじっと見つめた。まっすぐな、曇りのないまなざし。優次が一志に向けたのはきっと、こんな顔だったのだ――。 「血だけじゃ、ないです」  そう告げられて、初めて思い当たった。  この目を、表情を優次から向けられるのは、初めてではなかった。優次はいつから、このまなざしを、寛人に向けるようになったのだろう。  窓の外から、少し気の早いクリスマスソングが聞こえてきた。二人の間に流れた沈黙が、降誕のメロディに優しく寄り添った。 〈了〉
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