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第一章 1
桜の花弁がはらりと舞い、狛犬の額に着地した。四月も三週目に入り、ソメイヨシノはなかば葉桜だ。雨岸優次は賽銭箱に小銭を投げ入れて、日課の拝礼を済ませた。
綾瀬川神社から、川向こうに巨大な建物がうかがえた。花曇りの空に溶ける灰色のたたずまいは、東京拘置所だ。放射状の収容棟を束ねる中央管理棟に、優次が先ほど訪れた面会室があった。
「兄ちゃん、今朝は機嫌よかったなあ……」
優次が小さく笑った。今日も「その日」ではなかったと、今は幸せを噛み締めたかった。明日の朝も、優次は「その日」が来たのではと怯えて目を覚ますだろう。明日が「その日」ではありませんように……と毎朝祈る優次を、苔むした狛犬だけが知っていた。
漣一志が収監されている東京拘置所の弁護士向け面会受付は、午前八時半に始まる。朝一番で面会し、綾瀬駅から霞ヶ関へ。午前の開廷に間に合うよう、東京地裁に入るのだ。優次が司法修習を終えて以来くり返してきた、平日のルーティンだった。
地下鉄の真っ暗な窓を眺めつつ、優次は一昨年の秋を回顧した。
確定死刑囚との交流が許されるのは、家族と弁護士のみだ。一志の死刑が確定してから、優次がひまわりの記章を手にするまでの約二年間、優次は一志と一切の接点を失った。
一昨年秋、久々に再会した一志は、何事もなかったかのようにニヤリとした。「よお、ユウ坊」と、幼い頃のままの愛称で呼ばれて、優次が目をうるませた。一志は優次にだけ見せる柔らかな表情で、「先生になっても、泣き虫は治らねえな」と苦笑した。
ほどなく東京地裁に到着し、十時から民事の口頭弁論、十一時から刑事事件の公判が行われた。優次は昼休みの間に三鷹の事務所へ戻り、午後一時からは大阪地裁の訴訟に電話会議で出席した。
雨岸法律事務所が主に手がけるのは、母の所長時代から今も変わらず、漣組とその友好団体関係者らの弁護だ。暴対法違反の旨で検挙された組員の刑事事件が多く、事務所の台所は常に火の車だが、数少ない顧問契約や民事案件で糊口をしのいでいた。
電話会議の後は、遅い昼食をつまみながら、訴状や答弁書などの書類作成を進めた。ちょうどひと段落したとき、仁見慧佑が現れた。
「よお、先生。こないだの調べてきたぜ」
仁見は優次に持参した封筒を手渡すと、小ぢんまりとした事務所に据えられたソファに腰掛けた。
「ありがとうございます」
早速封筒から報告書を取り出して、優次が頭を下げた。明日の反対尋問に必要な証拠がきれいに揃えてあり、いつもながら的確な仕事ぶりに優次は感嘆した。
「さすがですね。仁見さんにお任せすれば、間違いないや」
「だろ? その辺の探偵くんだりと一緒にされちゃ困らあ」
仁見は満足げに笑い、たばこに火をつけた。かたわらでパソコンに向かっていた事務員の野上ヨシ江が、「禁煙だよ、タコ」と罵った。しかし仁見は意に介さず、「うるせえ婆さんだ」と紫煙を吐いた。
仁見の興信所とは、母の代からの長いつき合いだった。もともと公安の名物刑事だったという仁見の腕は折り紙付きで、優次も仁見が上げてくれた証拠にたびたび助けられていた。禿頭に太鼓腹と風采は冴えないが、鋭い眼光は、優次の子ども時代からいささかも陰りを見せなかった。
優次は一時期、この男が自分の父親ではないかと疑ったことがあった。母との間でその話題はタブーだったから、ある日、仁見に直接「僕のお父さんですか」と尋ねた。すると仁見は大笑いして、「坊主の父ちゃんは、おれよりずっと男前だぜ」と答えたのだ。
勝手知ったる事務所で、仁見がテレビをつけた。夕方の報道番組で、スーツ姿の若い男がインタビューに答えていた。
『私たちは今まさに、第四次産業革命を迎えています。あらゆるモノがインターネットでつながるIoT時代、日本のお家芸たるモノづくりも、進化なくしてはグローバルな競争から取り残されてしまう』
画面には「特集・インダストリー4.0」と銘打たれ、大手化学メーカー・國府化学工業の社内ベンチャー代表なる肩書の男が、熱っぽく語った。
『レガシーからの脱却なくして、日本の未来はない。新たな時代の到来です』
若社長の熱弁に、仁見が「レガシーねえ」とつぶやいた。
「漣組は、さしずめヤクザのレガシーか」
たばこの煙をくゆらせ、仁見が言った。
稀代の博徒として鳴らした漣義生は、舎弟らにも博打以外のシノギを許さなかった。バブルの仇花として栄華を極めた広域暴力団をよそに、漣組は今日に至るまで博打のみで存続してきた。
優次は「うーん」と小首をかしげた。
「一周回って、逆に生き残ってる感じですよ」
バブル崩壊に加えて、暴対法の施行で民事介入暴力のシノギを壊滅させられた広域暴力団は、資金源の大部分を失い青息吐息だ。仁見は「わはは」と噴き出した。
「そうさな、坊主の言う通りだ」
太鼓腹を叩いて笑う仁見に、野上が「先生だろう、このタコオヤジ」と舌打ちした。
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