第一章 2

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第一章 2

 一九九六年の年の瀬、漣義生は安威川組の刺客と死闘を繰り広げた末に絶命した。  当時、安威川組は跡目争いに揺れており、精強と名高い漣組を取り込みたいといずれの陣営も望んでいた。しかし頑として中立を貫く義生に、当時の安威川組若頭がしびれを切らして刺客を差し向けたのだ。凶弾に貫かれながらも日本刀で応戦した義生の壮絶な死にざまは、任侠史に残る一幕として今なお語り継がれている。  一志は乳飲み子の頃、漣組の本部前に棄てられていたところを義生に拾われた。義生の自宅を兼ねる組本部で、手本引(てほんびき)の豆札や目木(めもく)といった博打道具を玩具代わりに育った。義生を崇拝し、影のように付き従っていた一志は、義生の最期にも居合わせた。  中学校を卒業して早々、一志は海外の紛争地域へ向かった。銃火器の扱いを覚え、人間を殺す技術を磨き、親父(オヤジ)の仇を討つためだ。  面会で優次が一志に尋ねるのは、気分や体調に加えて、傭兵時代の思い出だった。時系列ではなく、ぱっと思い浮かんだことを話してもらう。いつか本にまとめたいと告げたら、一志は「おまえの好きにしろ」と苦笑した。  今朝は、一志が海外に渡ってすぐ、中東の紛争地域でイスラムの聖戦士団(ムジャヒディン)に加わったときの思い出話を聞かせてもらった。  聖戦士という割に入隊希望者の宗教はさほど気にされず、一志が「仏教徒だ」と素直に答えたら、翌日からAK(カラシニコフ)と弾薬を渡されて前線に出されたこと。訓練らしい訓練はなく、他の戦士の見よう見まねで銃の扱いを覚えたこと。干からびたナンの切れ端と、浄水剤臭い水だけで、何週間も飢えをしのいだこと――。淡々とした口調だったが、一志の経験談はどれも過酷だった。「親父(オヤジ)の仇を討つ」という一心であらゆる試練を耐え抜き、宿願を叶え、今はただ殺されるために生きている。 「悪くねえ余生だ」  と、一志は言った。 「空爆もねえし、流れ弾も砲弾の破片も飛んでこねえ。ブービー・トラップも地雷もねえ。それに、何より――」  一志が身を乗り出して、アクリル板に手をついた。優次が手を重ねると、一志は甘く微笑んだ。  仇討ちの半年前、ねだりつづける優次に折れて、一志がようやく与えてくれた唇。夏の終わりから冬にかけて、さんざん交わった。あれからもう八年近く経つのかと、優次は気が遠くなった。 「こうやって、おまえと話せる。最後の日まで……なあ、来るんだよな?」 「もちろん、兄ちゃん」 「他に欲しいものなんか、なんもねえよ」  満足げな一志の前で、優次は涙を堪えた。  一志の口癖は、「男は散るべきときに散る」。養父から受け継いだ信条だった。漣一志という男は、七年前のあの日、憎い仇の血だまりのなかで見事に散った。目の前にいるのは、その脱殻(ぬけがら)でしかない。たとえ司法の裁きでも、一志の魂までも捕らえることは叶わない。  わかっていても、その脱殻を手放せずにいる己のいじましさに、優次は恥じ入った。身寄りのない確定死刑囚の一志に面会できる娑婆(シャバ)の人間は、優次ただ一人だ。一志は優次の独占欲を見透かした上で、好きにさせてくれている。そんな男が優次は愛しくて、愛しくて――苦しくて、堪らなかった。  一志がこれほど優次に甘いのは、優次に気持ちを返してくれているからではない。優次の遺伝上の父が、一志にとって唯一無二の存在だからだ。一志が愛しているのは優次に流れる血の半分で、優次自身ではない。優次は、それでもよかった。なりふり構わず、長い恋をわずらっていた。  長引く梅雨が、優次の気を滅入らせた。地下鉄の黒い窓に映る自分の顔を見つめながら、優次は去り際に一志から言われたことを思い出した。 「守屋(もりや)が手紙をよこしたらしいぜ」  だしぬけに言われて、優次は困惑した。守屋忠敬(ただたか)は義生と同郷で、渡世入りの頃からの同志だった。役職のない漣組における事実上の若頭として、義生亡き後も組をまとめてきた。質実剛健かつ寡黙な男で、よほどのことがない限り優次には頼ってこない。恐らく、確定死刑囚は手紙も制限されていることを知らず、一志を頼ったのだろう。 「さすがに中身までは教えてもらえなかったけどな……おおかた二村(ふたむら)のことだろうよ」  一志が吐き捨てるように言った。二村は、義生の死後、守屋の盃を受けて漣組に加わった。安威川組系の二次組織の幹部と昵懇で、たびたび安威川組に与する動きをとるため、漣組内部では白眼視されていた。 「妙な色気出すようなら、さっさと金握らせて縁を切れ。それが親父のやり方だった」  義生への義と情で結ばれた漣組は、一般的な暴力団とは趣を異にしていた。破門・絶縁の作法もそうで、普通のヤクザ組織なら本人を追放の上、系列組織に回状を出して拾わぬよう周知する。だが漣組においては、当人と話し合って縁を切り、かたぎに戻るためのまとまった金を渡して送り出すのだ。 「……わかった、守屋さんに伝えておくね」  優次が努めて明るく言った。一志は「頼んだぜ、ユウ坊」と、優次をとろけさせる微笑を浮かべた。 
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