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第一章 3
ここ数年間表舞台に出てこない安威川組五代目組長が、いよいよ引退するらしい――。東京地裁の食堂で実話誌記者から耳打ちされて、優次は眉をひそめた。
一志の討ち入りにより当代から次期組長候補まで軒並み消された安威川組で、五代目を襲名したのは、それまで傍流とされていた穏健派の直参だった。抗争撲滅を標榜し、他団体と積極的な盃外交を推し進めた。その甲斐あって、五代目の政権下で大規模な抗争は起こっていない。
一方で、活躍の場を失った武闘派たちが、安威川組内でくすぶっているという話は、優次も小耳に挟んでいた。組長の雲隠れもクーデターを恐れてのことらしく、政権交代も時間の問題と目されていた。
優次の懸念は、もっぱら二村のことだった。守屋の恩情でまだ漣組に籍を置いているが、二村は懲りずに安威川組へ秋波を送っていた。代替わりの混乱に乗じて妙な「芸」をしないよう、注視する必要があるだろう。
朝から降りつづく雨は、一向に止む気配がなかった。東京地裁から三鷹の事務所への帰り道、物思いに耽っていた優次は、突然背後から襲われるまで尾行に気づけなかった。
「ッ……む、んむうっ!」
優次の傘がアスファルトに転がり、後ろ手に縛り上げられた。さるぐつわを噛まされて、優次は背筋が寒くなった。
暴力団の弁護を手がけていると、非友好団体からの攻撃は間々あった。ただし、中傷ビラをまかれたり、郵便受けに小動物の死骸を投げ込まれたりといった威嚇ばかりで、直接襲撃されたのは初めてだった。
安威川組の内紛に端を発した襲撃だろうか……。酸欠で意識がもうろうとするなか、優次の視界に巨大な白い箱が映った。安威川組専用車のハイエースだ。優次は力を振り絞って抵抗したが、詮無かった。
「おっと、先生。大人しくしときな」
「へへ、『狂犬』が別荘で寂しいだろう?」
下卑た笑いを耳元に吹き込まれ、優次は総毛立った。まずい、どうすれば――。
「何をしているっ!」
飛んできた鋭い声に、優次を拘束していた男たちが「なんだぁ?」と振り向いた。
「……げえっ! お、お前はっ」
男の一人が息を呑み、優次を戒める手が緩んだ。その隙に優次は男たちから逃れ、転げるように距離をとった。
背の高い男が、優次をかばうように立ちはだかった。男の後ろ姿越しに、チンピラたちが顔面蒼白で震える様子が見えた。
「ま、まさか、そんな……ありえねえ」
「くそっ、ずらかるぞ!」
驚愕のあまり動けずにいた男を、相方が引っ張って車に乗せた。ハイエースは優次の傘をぐしゃりと轢いて、たちまち遠ざかった。
優次の前に立っていた男が振り向き、左手に差していた傘を優次の方へ傾けた。その顔を見たとたん、優次は凍りついた。
「先生、お怪我はありませんか?」
高く、まっすぐ通った鼻梁。尖った頬骨に、彫りの深い目元。何もかも、優次が見慣れた一志の顔に生き写しだった。
「あ……あっ……」
優次は濡れた地面にへたりこんだまま、金魚よろしく口をぱくぱくさせた。一志と同じ顔の男は、背中が雨に濡れるのもいとわず、優次に労わるような目を向けた。
「……お気をつけください」
男は周囲をちらりとうかがい、優次に傘を手渡すと、音もなく立ち去った。
しばらくの間、優次は呆然自失だった。法廷ではかろうじて集中力を保っていたが、事務処理はミス続きで、ヨシ江を呆れさせた。
日課の拘置所通いでは、一志の顔を見つめるほどに、同じ顔の男が思い出された。ただならぬ様子を一志も察したはずだが、一志はいつもの静謐なまなざしで優次を見守った。
「『ドッペルゲンガー』の正体、わかったぜ」
一週間後、仁見が調査結果を携えて事務所にやってきた。一日千秋の思いで待っていた優次は、報告書を受け取るなり貪り読んだ。
男の名は笠居寛人といい、二十五歳の警察官だった。所属は、「警視庁三鷹署警備課公安係」と記されていた。
「おれの古巣の後輩さね」
仁見がソファに腰を下ろして言った。
「と、いうことは……公安一課ですか?」
尾行や張り込みなどを行う所轄署警備課員は、公安警察の最前線だ。ただし、個々の捜査員が本庁公安部のどこに紐づいているかは、表面上の所属情報のみでは知りようがない。仁見の情報網に、優次は舌を巻いた。
「すごい……よくわかりましたね」
感嘆する優次に、仁見がニッと笑った。
「坊主が今にも死にそうな顔してたからな。おれも手を尽くしたってわけよ」
横で聞き耳を立てていたヨシ江が、「先生だよっ」と顔をしかめた。仁見は「うるせえな、婆さん」と返し、もはや形骸化したやりとりを楽しんでいるようだった。
仁見は美味そうに煙を吐き、言葉を継いだ。
「担当はマヘーンドラ帰依教、地下鉄テロ事件で有名なあれだ。ほら、駅前のビルの七階に、ヴェーダ出版の本社があるだろう?」
仁見に言われて、優次は古ぼけた雑居ビルを思い出した。「今こそ目覚めのとき」、「真理はここにある」など啓発文句が大書されたポスターが、最上階の一角を覆っていた。ヴェーダ出版社は、マヘーンドラ帰依教の関連書籍を発行する、教団の関連企業だ。
マヘーンドラ帰依教は約二十年前、通勤ラッシュの地下鉄に化学兵器を発散させるという未曽有のテロを首謀した新興宗教団体だった。最盛期には一万二千を超えた信者数は、地下鉄テロ事件から教祖の逮捕までの数カ月間で十分の一に急減したが、その後は今に至るまで千数百人程度で推移していた。信徒らは現在も教祖の誕生日を「生誕祭」として祝うなど、帰依はつづいているとみられ、依然として公安の監視下に置かれている。
「歳は二十五、先生と同い年だ。ただし四月生まれで、学年は先生より一つ下だな。一九八八年四月、ピンとこねえかい?」
「はあ……?」
頭をひねる優次に、仁見は「民法817条の2による裁判確定日、って言やあわかるだろう」と種を明かした。
「あっ、特別養子縁組ですね」
優次はぽんと手を打ち合わせた。
一九八八年に施行された特別養子縁組制度は、産みの親との法的関係を解消し、養親が唯一の親権者となるものだ。戸籍謄本も「養子」ではなく実子と同様に「長男」「長女」などの表記になるが、民法817条の2、すなわち「特別養子縁組の成立」を家裁に審判された日が記載されるため、血縁関係がないことは一目瞭然である。
「一志も親分の養子だろう? 他人の空似ってレベルじゃねえからな……DNA検査すりゃ一発だけど、どうする? 笠居の検体は回収できると思うが、一志の方は先生次第だ」
仁見に持ちかけられたが、優次は「いえ」とかぶりを振った。
「そこまでで十分です。あんまり兄ちゃんに似てるから、取り乱してしまって……でも、お陰さまで素性がわかりましたし、似ている理由もおおむね察せられた。もう大丈夫です」
報告書を封筒に戻し、優次は晴ればれとした笑顔を見せた。しかし仁見は「そうかあ?」と、いぶかしげだった。
「それにしても、納得いかねえんだよなあ」
腕を組み、眉をひそめた仁見に優次が「何がです?」と聞いた。
「徹底的に存在感を消すのが、公安捜査の基本の『き』だ。監視対象者の拠点近くでヤクザと揉め事なんざ、間抜けもいいとこだぜ。ハンデを押してまで公安に取り立てられた刑事とは思えねえ」
「ハンデ?」
優次が首をかしげ、仁見は「普通はな」とつづけた。
「特別養子縁組の養子なんて、生活安全や刑事、交通ならまだしも、警備と情報通信じゃまず採らねえ。実親がどこの馬の骨とも知れねえなんざ、危なっかしくてな。しかも笠居の場合、あの顔だぜ? なのに公安、しかもマヘーンドラ担当なんて……刑事として相当優秀じゃねえとありえねえ」
ふうっと煙を吐き出して、仁見が「わっかんねえなあ」とくり返した。
優次の脳裡に、笠居の姿が浮かんだ。あのとき向けられた、温かなまなざし。一志の静かな瞳と、優次を労わる表情まで同じだった。
ややあって、仁見が「もし、追加調査が必要ならいつでも言えよ」と告げた。
「おれと坊主の仲だ、サービス価格でいいぜ」
紫煙を薫らせる仁見に、ヨシ江が「そんな予算ないよっ」と釘を刺した。
「あ……野上さん、すみません。頼みませんから、安心してください」
恐縮する優次に、ヨシ江は「悪いのは先生じゃありません、このぼったくり興信所です」と、口をへの字に曲げた。
「ぼったくりとはなんだ、失礼な婆さんめ」
「なにをっ! やるかい、このタコおやじっ」
丁々発止の二人をよそ目に、優次は封筒を握り締める指先に力をこめた。
「たとえ兄ちゃんと同じ顔でも……実の弟だったとしても、あいつは……兄ちゃんじゃないんだから」
自戒をこめたつぶやきに、かえって優次の鼓動が逸った。
冷たいアクリル板を介さない生身の、圧倒的な存在感。呼吸も、温もりも、手を伸ばせば届く距離にあった。
優次はため息をつき、封筒を机にしまった。
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