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第二章 1
九月も後半に差しかかり、朝夕は過ごしやすい気候となった。秋の風が吹く綾瀬川の河川敷に、白装束の男女の姿がぽつぽつと見られた。立ち襟の長袖・長ズボンの上下は、「沙門服」と呼ばれるマヘーンドラ帰依教信者の正装だ。蓮華座を組み、彼岸にそびえる東京拘置所へ、無心に祈りを捧げている。通勤途中のサラリーマンやOL、犬を散歩させる近隣住民たちは、特に気にする様子もなく通り過ぎた。優次にとっても、既に見慣れた光景だった。
教祖の男は、地下鉄テロ事件を含む十五の事件で罪に問われた。控訴、再三の精神鑑定、特別抗告申立とその棄却を経て、九年にわたる裁判が結審。教祖は現在、一志と同じく確定死刑囚として東京拘置所に収容されている。教団にとって東京拘置所は聖地であり、こうして「巡礼」する信者が後を絶たない。
マントラを唱える信者らを、所轄の警察官が追い払う姿もたびたび見られた。河川敷という公共の場所で、特に危険をともなう行為ではないのだから、国家権力で強制的に排除するのはいかがなものかと優次は思ったが、信者らは団体規制法を前に無力だった。
特定の集団に対し国が差別の「お墨付き」を与えるという点で、暴対法と団体規制法はよく似ていた。沙門服がだぶつく、折れそうに細い手足をした信者たち。世間から虐げられて、塀のなかの「神」にすがる彼らは、自分と同じだ――。幼少時の記憶を喚起され、優次はシンパシーを禁じ得なかった。
一九九四年、優次は小学校に入学した。暴対法施行から二年経ち、反暴力団の気運がますます高まっていた頃だ。
優次がそれまで通っていた保育所は、小規模でアットホームな雰囲気だった。小学校は一転して一学年七クラスとマンモス校で、人見知りの優次は難儀した。
入学してほどなく、私立幼稚園上がりのクラスメートから「おまえのママ、『ヤクザの手下』なんだろう!」と面罵された。優次はまだ「ヤクザ」の意味を知らなかったが、相手の口ぶりから母の悪口らしいと察せられた。
大好きな母を突然悪く言われ、優次はショックで泣き出した。その反応が子どもならではの無邪気な嗜虐心を煽り、悪意はたちまちクラス全体に伝染した。
学校でのいじめはまだ耐えられたが、堪え切れなかったのは放課後の学童クラブだ。保育所で仲の良かった友だちに、酷い言葉を投げつけられたり、あからさまに無視されたりするたびに、優次の心にひびが入った。
一学期の終わりには、優次は学童に通えなくなっていた。帰りの会が終わるなり脱兎のごとく教室を飛び出し、母と暮らすアパートの扉の前に、日が暮れるまでうずくまった。
夏休みが始まり、いよいよ学童から逃げ切れないと怯えていた優次に、母は「うちに居ていいよ」と告げた。僥倖に舞い上がったのもつかの間、出勤する母と入れ違いに、見知らぬ少年がやってきた。見上げるような大柄で、まなじりが切れ上がった鋭い目つきの少年を前に、優次は縮こまった。
「漣一志です。よろしく」
一志と名乗った少年は優次に一礼し、部屋の隅に腰を下ろした。小さな部屋の対角線上に、怯えた優次が逃げ込んでも気にする様子はなく、しきりに左手を動かしていた。たなごころに収めた何かをさばいている様子だったが、優次の位置からは確認できなかった。優次はいつしか一志に近寄り、器用に動く左手をのぞき込んだ。
「なあに、それ?」
四つ這いで寄ってきた優次に、一志は「繰り札」とぶっきらぼうに答えた。赤と黒の墨できれいな模様が描かれた小さな札を六枚、左手のなかで水車の羽根よろしく回す巧みさに、優次はぽかんと口を開けて見入った。
「すごいねぇ」
優次が思わず漏らすと、一志は優次を一瞥し、持参した手提げ袋をたぐり寄せた。繰り札よりも一回り大きい紙の札を六枚取り出し、優次に手渡す。札には繰り札と同じ赤と黒の墨で、菱形や漢数字などが描かれていた。
一志は更に、それらと同じ模様が彫られた木札を取り出し、自分の前に並べた。
優次が固唾を呑んで見つめるなか、一志は二人の間に四つ折りのハンカチを敷き、左手の繰り札を一枚、その下にしのばせた。残りの札は、伏せて布のわきに重ねられた。空いた利き手で、一志がポケットを漁った。
「ほら、張った」
一志の大きな左手が、優次の手のひらに丸くて硬いものを置いていった。透明なフィルムに包まれた、橙色の飴玉だった。
「……?」
きょとんとして飴玉を見つめる優次に、一志は優次が手に持ったままの紙札の束を示して、「これだと思う札を、俺に見えないように出して、飴を乗せろ」と言った。優次はおずおず、「三」と描かれた札を裏返して膝の前に置き、飴玉で重しをした。
「参ります」
一志が厳かに言い、右から三番目の木札を拾い上げて、右端に並べ直した。
「三間の一」
つづいて一志がハンカチをどけて、先ほど隠された繰り札があらわになった。繰り札にも、「一」と漢数字で記されていた。
優次の出した札は「三」だった。一志は優次の札をめくった指で、転げ落ちた飴玉をつまんだ。
「俺の勝ちだ」
一志の長い指がフィルムを剥がし、飴玉をひょいと口に放り込んだ。優次は呆気にとられていたが、ほどなく一志から新しい飴玉を託された。飴玉と一志の顔を交互に眺めていたら、一志が口端を片方だけ吊り上げた。
「もうひと勝負するか?」
優次の胸が、にわかに高鳴った。
「はあ? おまえの母ちゃんが『手下』だ?」
夏休みも半ばを過ぎると、優次は手本引きの作法をすっかりマスターしていた。一志と交代で胴を引きながら、優次はクラスメートの心ない言葉を一志に打ち明けた。いつも物静かな一志が、珍しく声を荒げた。
「馬鹿言ってんじゃねえ。おまえの母ちゃんは、『守護神』だ。俺の大事な親父を守ってくれてるんだぞ」
「しゅごしん……?」
優次が不思議そうに一志を見上げた。一志は繰り札を切る左手を止めて、優次を見つめ返した。
「俺にできるのは、せいぜいおまえを学校の馬鹿どもから守ってやることくらいだ。でも、おまえの母ちゃんは、この国の全部から、親父を守ってる。すげえ人なんだよ」
憧れの一志から母を褒められて、優次は天にも昇る心地だった。
「ふふっ……ありがとう、兄ちゃん」
初めてつかう親しげな呼称に、一志が目を白黒させた。
夏休み明け、クラスメートからのいじめがぴたりと止んだ。あちらから話しかけられることはなかったが、優次が話しかければ、ぎこちないながらも反応があった。休み時間、一人で本を読んで過ごす優次に、クラスの面々は怯えたような視線を向けた。
二学期になっても、学童へは戻らなかった。毎日三時頃アパートへ戻り、宿題をしながら待っていると、四時過ぎに一志がやってきた。二人で手本引きや賽本引き、おいちょかぶなどにいそしんだり、テレビを見ながら他愛もない話をしたりと、気ままに過ごした。
夕飯は一志がつくってくれた。焼きそばや炒飯といった簡単な料理だったが、優次は嬉々として平らげた。そして八時過ぎに母が戻ると、一志は家に帰っていった。泊まっていってとせがむ優次をたしなめて、「また明日な」と暇を告げるのだ。
そうして一年が過ぎ、二年生の冬休みを迎えた。優次は二学期の健康診断で虫歯を指摘されたが、多忙な母に言い出せずにいるうち、じわじわと悪化した。出勤する母を見送って、痛みに悶絶していると、一志が現れた。
「抜くぞ」
優次に口を開けさせて、奥歯を確認するなり、一志が言った。
「えっ……で、でも……」
「そこまでいくと、歯医者に行ってもどうせ抜かれるだけだ。乳歯だから、また生える」
青くなる優次をよそに、一志は抜歯の準備を進めた。黒くなった歯を糸で縛り、反対側の端をドアノブにくくりつけた。
「痛えが、動くな。耐えろ。イモ引いて動くと余計痛えからな」
一志の口からたまに飛び出す独特の言い回しに首をかしげる間もなく、優次の奥歯が宙を飛んだ。焼けつくような痛みが優次を襲い、口腔に生ぬるい液体がみるみるあふれた。
「い、いひゃっ、いひゃいぃ……」
ぽろぽろ涙をこぼす優次を、一志が抱き締めた。優次の顔を自分の胸元に押しつけて、グレーのスウェットが丹色に汚れるのもいとわず、「よしよし」とあやしてくれた。
激痛に涙がなかなか引かず、優次は一志の胸でしゃくり上げた。一志がおもむろに優次の両肩を掴み、顔を寄せた。優次が憧れてやまない、一志の凛々しい顔が視界いっぱいに広がったと思ったら、一志の舌が優次の唇へ割り入り、奥の抜歯痕を舌先で押さえた。
「んっ、ふ、ふぅうっ」
口のなかを一志の舌で埋め尽くされて、優次の口端から血と唾液がとめどなく滴った。錆臭さが一志の唾液で希釈され、代わりに微かなみかんの香りが伝わった。一志が優次との博打につかう、飴玉の甘いにおい――。
「……舐めときゃ治る、そんなん」
血の味がすっかり消えた頃、一志の舌が優次の口から出ていった。頭の芯がぼうっとして、ただただ一志を見つめる優次に、一志は赤く染まった唇で微笑んだ。
自分がもともと同性に惹かれる性質だったのかはわからない。だが、優次にとって性愛の目覚めは、間違いなくあの瞬間だった。
翌年、義生が泉下の客となり、一志は海を渡った。年に数回受け取るエアメールだけが、優次の心の支えだった。
しばし懐古に耽っていた優次が、ハッと我に返った。河川敷では相変わらず、沙門服の信徒らが彼岸に祈りを捧げていた。
老若男女とりまぜた集団に、優次と同じ年頃とみられる青年の姿もあった。拘置所の分厚い壁を射抜かんとする、鮮烈なまなざし。彼の世界はきっと、彼の祈りが向かう先に広がっている。降り注ぐ秋晴れの日差しも、頬を撫でるそよ風も、現の全てが彼にとっては意味をなさない。
川越しとアクリル板越しの逢瀬に、何ら違いはない。身につまされる思いで、優次は河川敷から顔をそむけた。
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