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第二章 2
昨夜の天気予報の通り、明け方は格段に冷え込んだ。十月には少し早いかと迷ったが、冬用の布団を出して正解だった。優次は寝ぼけ眼をこすり、目覚ましのアラームを止めた。
身支度を整えながらテレビをつけると、昨夜未明、中央区日本橋で変死体が発見されたとニュースが報じていた。死因は胸部を数カ所撃たれたことによる心臓損傷で、体内に銃弾が残っていたという。
不穏なニュースに、優次は漣組関係者による犯行でないことを祈った。抗争に発展しそうな揉め事は耳に入っていないが、安威川組の代替わりが近いとささやかれる昨今、斯界の情勢は極めて不安定だ。優次は一抹の不安を抱いたまま家を出た。
一志は新品のオックスフォードシャツを着ていた。季節の変わり目に、優次が差し入れたものだ。優次の見立て通り、カーキのシックな色合いが、一志の精悍な顔立ちを引き立たせた。うっとりする優次を前に、一志が「今朝は冷えたからな」と言って顔を逸らした。不器用な照れ隠しに、優次が「ふふっ」と微笑んだ。
「急に寒くなったもんね。風邪に気をつけて」
「ああ。おまえも」
一志がふと、シャツの生地をつまんで「そういや、こんな色だった」とつぶやいた。
「え、何が?」
「サヴァの被服支給だ」
八年間の傭兵生活のうち、一志は四年目から七年目までを東欧の小国・サヴァ共和国の傭兵部隊で過ごした。傭兵らに対する正規兵の差別的扱いは万国共通だが、サヴァ軍はとりわけ酷かったという。
「新品は全部正規軍が取っちまうから、俺たちに回ってくるのはツギハギだらけの中古品ばっかりだ」
一志は人差し指と親指で「C」の形をつくり、一センチに満たない幅を示してみせた。
「このくらいの小さな穴が、沢山空いてる。蜂の巣になって戦死した奴の『お古』ってわけだ。正規兵どもは縁起が悪いってイモ引いてやがったけど、俺たちは選り好みしてられなかったからな」
ククッと笑う一志に、優次は「そうなんだ」とあいづちを打った。仇討ちのために一志が乗り越えてきたものの大きさが、改めて胸に迫った。
「……悪くねえよ、本当に」
一志がたびたびくり返す台詞だった。正直な思いの発露か、それとも自分に言い聞かせているのか、淡々とした口調からは読み取れなかった。
「外国で犬死にせず、力を蓄えられた。ジギリをかけて、親父の仇を討った。やり残したことは何もねえ。こうやってお前の顔見て、飯食って、布団の上で寝て……服に穴も空いてねえ。いつ吊るされたって構わねえよ」
そう言って浮かべる一志の微笑は、優次だけのものだ。優次は微笑み返し、鞄から豆札を取り出した。つづいて、木札と紙下代わりのハンカチを狭い机に並べていく。
豆札を繰る優次のぎこちない手つきに、一志が「相変わらずヘッタクソだな」と笑った。
「いいでしょ、もう……さあ、張った張った」
アクリル板に阻まれて、一志に張り札を手渡すことは叶わない。代わりに一志は瞑目し、「よし」とうなずいた。
「参ります」
優次は右から五番目にあった「三」の木札を右端に置き、ハンカチをめくって豆札を明かした。
「古付の三か。ケッタツの五・三で、種だな」
一志が脳裡の張り札を明かし、渋い顔でぼやいた。優次はくすくす笑って、「兄ちゃん、もうひと勝負いこう」と誘った。
午後、東京地裁の書記官室で優次が和解手続きに臨んでいると、携帯電話に漣組本部から着信があった。幸い、原告側も弁護士の出席だったのですぐに片づき、優次はエレベーターで地下一階に向かった。
昼営業が終わった食堂の片隅に腰を下ろし、改めてスマートフォンを見ると、おびただしい数の着信記録が残されていた。組本部からのものが最も多かったが、古参組員からが数件、更に守屋の内妻からもあった。一方、守屋本人からの着信はない。嫌な予感を抱きつつ、優次は組本部に折り返した。
『せ、先生! 大変です!』
呼び出し音が鳴る間もなく電話を取った若衆が、取り乱した様子で叫んだ。
「一体どうしたんです?」
『さっき警察が逮捕状持ってきやがって、親父が……!』
若衆は守屋の舎弟だった。すなわち、守屋が逮捕されたということだ。優次は一瞬あぜんとしたが、すぐ我に返り「連行されたのは、どちらの警察署ですか?」と尋ねた。
「今から接見に行きます」
『先生っ……あ、ありがとうございます! 馬喰町署です』
馬喰町署は、日本橋地域の北部を管轄している。朝のニュースで見た射殺事件の、特捜本部が置かれているはずだ。
「まさか……」
優次が独りごちた。胸騒ぎは酷くなる一方だった。
馬喰町署で接見を申し込むと、留置場係が応対に出た。若い男の困ったような様子を怪訝に思っていたら、恰幅の良い刑事がどすどすと足音を響かせて現れた。現場でたびたび顔を合わせる、組対四課の警部・本城だ。暴力犯特別捜査第13係の係長を務めている。本庁から捜査本部へ派遣されたのだろう。
「よお、若先生。早速いらっしゃったな」
母を知る人々は、優次をしばしばこう呼んだ。マル暴一筋で、母ともさんざんやり合ったという本城もその一人だった。強面にニヒルな笑みを浮かべて、本城が留置場係と優次の間に割って入った。
「お世話になります……って、えっ?」
一礼して顔を上げると、本城が優次の肩に腕を回してきた。
「ちょ、なんですか、本城警部」
「この事案、なーんか、きな臭えんだよ」
本城が留置場係に背を向けて、優次に耳打ちした。たばこ臭い息がかかる距離に優次は委縮したが、本城は構わず言葉を継いだ。
「変死体が上がった時点で、被疑者は守屋だって割れてた。牛の爪なら所轄で事足りるのに、帳場が立つしよ。しかも担当は組対じゃなくて一課だっていうじゃねえか。連中、漣組のことなんかてんでわからねえ癖に……さすがにそこは組対部長が待ったをかけて、おれたちが来たんだけどな」
殺人事件は刑事部捜査一課の管轄だが、発生時点で犯人が割れている、いわゆる「牛の爪」事案は、所轄署だけで処理されることが多い。また、犯人が暴力団関係者とわかっている場合、殺人事件であっても組織犯罪対策課が担当するのが定石だ。
だが、特捜本部が設置されたことも、本庁の刑事部が出しゃばってきたことも、「きな臭い」というほど異常とは思えなかった。
「はあ……そうですか」
生返事をする優次に、本城は詰め寄り「で、極めつけがよお」と声を潜めた。
「朝イチで逮捕状取ってきたの、誰だと思う? 公安の刑事だよ」
「え……っ!」
一気に雲行きが怪しくなり、優次は息を呑んだ。本城も優次の反応に「なっ、臭えだろ?」としたり顔で言った。
「帳場の空気もいつもと違え。上の方でごちゃごちゃしてるみてえでよ……なあ、先生」
本城は「おれが言える立場じゃねえが」と前置きし、更に小声で言った。
「守屋の話をよく聞いてやってくれ。それと、仁見の奴なら何か掴めるかもしれねえぞ」
本城と仁見は警察学校の同期だとかねて聞いていた。優次がうなずくと、本城は優次を解放した。
「あの……もう、ご案内しても?」
蚊帳の外に置かれていた留置場係が、おずおずと声を上げた。本城は「おう、邪魔したな」と留置場係の肩を気安く叩いた。
「それじゃ、先生。お手柔らかに頼むぜ」
優次と出くわしたときの決まり文句を吐いて、本城が去っていった。優次は不安を抱えたまま、面会室に向かった。
「先生……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
面会室のアクリル板越しに、守屋が深々と頭を下げた。優次は「いいえ」とかぶりを振って、単刀直入に尋ねた。
「守屋さん、やってませんよね?」
「ええ、もちろん、もちろんです。先生、私は殺しなんてしていない!」
断言する守屋に、優次はひとまず安堵した。もし守屋が殺人に及んでいたら、長期刑、そして漣組の瓦解はまぬがれない。
優次は手帳を取り出して、質問をつづけた。
「被害者の方と面識は?」
「いいえ、全く知りません」
報道によると、被害者は港区在住の三十五歳男性、職業はフリーランスのシステムエンジニアとのことだった。
「漣組とSEなんて、接点が皆無ですが……警察は、動機は何だと主張していますか?」
「それが―」
被害者の浦住は家賃が月百万円の高級マンション住まいで、外車を複数台所持するなど、確定申告の額にしては羽振りの良い暮らしぶりだった。捜査本部でカネの流れを洗ったところ、ダークウェブでの荒稼ぎが判明した。
ダークウェブは、匿名性の高い通信手段でしかアクセスできない、閉じられたサイバー空間だ。麻薬や銃火器、窃取された個人情報、サイバー攻撃の請負サービスに至るまで、あらゆる違法商品がやりとりされている。浦住はネットカジノの立ち上げサービスや、サイバー兵器開発などを手がけてきたという。
「漣組が、浦住の開発したネットカジノにアヤつけて、呼び出して撃ち殺した……と」
「そんな、馬鹿な」
強引なこじつけに、優次は絶句した。
「警察は、何を根拠に逮捕状を請求したんでしょう?」
「現場に親父のモーゼルが落ちていて、そこから私の指紋が。ホトケさんの体内に残された弾丸の線条痕が、モーゼルと一致した、と」
「え……そんなの、絶対ありえない」
モーゼルのオートマチック三二口径は、義生が大切にしていた銃だった。若かりし頃、最初の親分に義理を返すための出入りでつかったという。義生も、形見分けで受け継いだ守屋も大事に手入れしてきた逸品だったが、半世紀もののアンティークだ。今でも動くのか怪しいものだった。
「モーゼルは、普段どちらに保管されていましたか?」
「組長室の金庫です」
優次は手帳にメモを書きつけながら、「金庫を開けられるのは、守屋さんだけですか?」と質問を重ねた。守屋はハッとして、にじむようにうつむいた。
「私以外に、開けられるとしたら……」
言いよどむ守屋に、優次が「二村さんですか?」と確認した。守屋は慚愧に堪えない様子で「はい」と答えた。
「あいつは、私が金庫を開け閉めするところを何度か見ています。後ろからのぞき込んで、暗証番号を控えていた可能性がある」
下唇を噛み、苦々しげに述べる守屋の胸中は察するに余りあった。漣組と安威川組をふらふらしていても、守屋にとっては親子盃を与えたかわいい舎弟だ。「子分に売られた親分」に成り下がったとの思いは、渡世の義理を重んじる守屋にとって耐え難い屈辱だろう。
接見が終わり次第、二村を当たらなければと心に決めて、優次は次の質問に移った。
「取り調べでは、被害者の死亡推定時刻はいつと言われていますか?」
「昨日の深夜二時頃だそうです」
「守屋さんが、どちらにいらっしゃったか教えていただけますか?」
刑事弁護では当然の質問だ。しかし守屋はうなだれて、「それが、先生」と声を絞り出すように言った。
「……昨日の晩は、富田會の『オオガイ』に出ていました」
「え、ええっ?」
守屋の言葉に、優次は動揺を隠せなかった。
オオガイとは、任侠団体が開く博打のうち最も大きなものだ。「総長賭博」との別名が示す通り、名の通った博徒や広域団体のトップのみが招かれる。富田會は安威川組に次ぐ規模を誇る広域指定団体で、そこが胴となると、国内の主たる指定団体は軒並み参加しただろう。
「わ……わかり、ました……」
暗澹たる思いに囚われつつ、優次はメモをとる手を止めた。常設の「コシヤ」や中規模の「ナイガイ」ならいざ知らず、オオガイとなると、開催の裏を取るのはまず不可能だ。
招待制の催しであるオオガイは、開催日時・場所・参加者などあらゆる情報が厳秘扱いだった。それを警察に明かすなど最悪の背信行為で、組織もろとも袋叩きに遭うことは必至だ。守屋自身も含め、昨晩オオガイに参加していたと供述する参考人は皆無だろう。ゆえに、アリバイの立証は不可能だ。
状況は絶望的でも、守屋に今以上の心理的負担をかけるわけにはいかない。優次はかろうじて笑顔をつくり、「凶器の偽装を立証する方向でいきましょう」と告げた。
「先生……よろしくお願いします」
守屋が改めて頭を下げた。
この男を守ることは、漣組を守ることとイコールだ。漣義生が殉じ、漣一志が人生をかけて通した「義」の、現存する唯一の証が漣組だった。
「僕が……僕が、必ず守ってみせます」
優次は膝に乗せたこぶしを固く握りしめて、決意を口にした。
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