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第二章 4
西新宿の外れにひっそりと建つ雑居ビルに、笠居の行きつけの店があった。優次は外階段を二階に上り、一見普通のマンションのような扉を開けた。仁見の報告書で見た通りの、小ぢんまりとしたダイニングバーが現れた。
「いらっしゃいませ」
薄暗いカウンターから、店員が控えめな声で言った。青年というより少年と呼ぶ方がしっくりくる、あどけない顔立ちをしていた。
「お一人様ですか?」
「あ、えっと……」
優次が店内を見回すと、入り口からは死角となる奥の暗がりに、ぼんやりとにじむような人影があった。そこそこ繁盛している店内で、笠居の座る一角だけ時が止まったように静かだった。
優次は店員に「待ち合わせです」と嘘をつき、笠居の向かいに腰掛けた。ウイスキーをちびちびやっていた笠居は、優次をちらりと一瞥し、再びグラスに目を落とした。
「……傘、ありがとうございました」
持参した傘の持ち手をテーブルのふちに引っ掛けて、優次がぺこりと頭を下げた。
少年のような店員がやってきて、優次に「お飲み物は?」と尋ねた。優次が炭酸水を頼むと、店員は微笑んでカウンターに戻った。
二人きりのテーブルで、優次はじっと笠居を見つめた。今朝もアクリル板越しに対峙した、優次の愛しい人と寸分たがわぬ居ずまいで、男はそこに息づいていた。僅かに手を伸ばすだけで、触れられる。たくましい胸に飛び込める。顔を寄せれば、くちづけることだって――。
「……先生、どうされました?」
鼻先数センチの距離に、笠居の顔があった。自分が身を乗り出しているのだと気づき、優次は弾かれたように退いた。
こんなことをしている場合ではない。守屋の逮捕状について聞きに来たのだ。優次は己の無様さに苛立ち、運ばれてきた水を一気に飲み干した。
「失礼……しました、お伺いしたいことが」
姿勢を正し、改めて男に向き合う。優次は男の顔を見ながら、一志との差異を探した。
優次の言葉を待つ、静謐なまなざし。凛々しい顔、寡言な唇。違うところを探すほどに、重なる部分ばかり見つけてしまう。優次は堪らず目を逸らし、「逮捕状のことです」と声を震わせた。
優次の視界の端で、笠居が眉をひそめた。尋問の端緒を掴み、優次は「ご存じですよね?」とたたみかけた。
「守屋さんはやってない。モーゼルを持ち出したのは二村さんと安威川組ですが、裏で手を回したのは……」
心ならずも緊張してしまい、無性に口のなかが乾いた。優次は舌打ちしたい思いを堪えて言葉をつづけた。
「あなたがた、公安でしょう?」
優次がにらみつけると、笠居は目を伏せた。
「仰っている意味がわかりません」
淡々とした口調に、冷静な面差し。それでも優次には、男の感情の機微が読み取れた。確固たる決意と、僅かな悔悟……更に、微かな憐憫の気配があった。この顔は、一見無表情なようでいて、実に豊かな感情を映す。姿かたちのみならず、情動の表れ方まで一志にそっくりで、優次はめまいを覚えた。
法廷と同様の厳しさで、笠居を追及するつもりだった。だが、この男に向き合うほど、優次が七年以上必死に押し殺してきた渇欲が、とめどなくあふれてしまうのだ。
優次は椅子から降りて、男の前にひざまずいた。床に額が着く寸前までこうべを垂れて、「お願いします」と懇願した。
「守屋さんを、無実の罪に陥れないでください。守屋さんは殺人犯じゃない。守屋さんは、守屋さんは……漣組は……っ」
他の客の視線を感じたが、優次は構っていられなかった。みるみる目頭が熱くなり、リノリウムのタイルにしずくが落ちた。ぱたぱたと小さな音を立てて降る、ささやかな雨。水面のかたちに歪む視界に、笠居が飛び込んできた。
「先生、やめてください」
男が優次の両肩を掴み、顔を上げさせた。
幼い頃、左手で器用に豆札を繰る、一志のしぐさに魅せられた。あの長い指に触れられたいと、最初に願ったのはいつだったか。やがて願いが叶い、けれど、どれだけ愛でられても足りなくて、足りなくて――そして、永遠に届かなくなった。
利き手である左の方が心持ち大きなところまで、笠居の手は一志と同じだった。
「……っ、離せよっ!」
優次は笠居を振り払い、立ち上がった。触れられた部分が火傷したように熱く、心臓が激しく脈打った。
涙に濡れた目で笠居を凝視する優次に、笠居が動揺した。一志は、兄ちゃんは、こんな気弱な顔をしない。ようやく見つけた差異に安堵して、優次は店を飛び出した。
新宿の人ごみに揉まれて歩く間も、三鷹行きの各駅停車に揺られても、両肩の熱は引かなかった。気がふれそうなほど欲しいものに限りなく近い、まがいもの。優次は下唇を強く噛み締めた。
車窓に映る顔は、酷いありさまだった。守屋を、ひいては漣組を守るためには、公安の裏工作を暴かなければならない。みっともない独り相撲をとった挙句、すごすご引き揚げるなど、一志に合わせる顔がなかった。
「兄ちゃん……兄ちゃん……」
飴玉を舐めるように、口のなかで呼び名を転がした。甘い余韻に浸りながら、優次はそっと目を閉じた。
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