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第二章 5
一志の誕生日は、義生が決めた。初雪がちらつくなか、組本部の門前で義生が一志を拾った日だ。少し気の早いクリスマスソングが街に流れる頃、一志は一つ歳を重ねる。
二〇〇四年初冬、塾の冬期講習から帰った優次が夕飯の支度をしていたら、母が満面の笑みで帰宅した。その後ろから一志が現れて、八年ぶりの再会に優次の息が止まった。機上で二十三歳を迎えたという一志は、優次の頭にぽんと手を置き、「大きくなったな、ユウ坊」と微笑んだ。
優次は十七歳になっていた。都内屈指の進学校に籍を置き、来年度の大学入試に向けて、受験勉強に励んでいた。第一志望は旧帝大の法学部。母が義生の「守護神」であったように、優次も一志を守りたかった。
その頃には優次も、自分の父親が誰だったか察していた。一志が優次にあれほど親切だった理由はそこだったのかと肩を落とした。だが落胆はつかの間で、優次はそれでもいいと思った。一志が気にかけるのは、優次に流れる血の半分だけだったとしても、優次が一志に向ける思いは変わらなかった。
帰国から半年と経たず、一志は新進気鋭の博徒として名をはせた。胴師を食いにかかるような張り方に、お目付け役の守屋は肝を冷やしたという。苛烈な勝負ぶりは、養父の再来とささやかれた。一志はいくつかの常盆で出入り禁止となり、代わりにオオガイへの招待状が届きはじめた。
またたく間に漣組の稼ぎ頭となった一志だったが、身分は一介の「部屋住み」だった。夜明けに賭場から組本部へ帰還し、電話台に突っ伏して眠る。優次が組本部に顔を出すと、一志は大抵、見かねた守屋に応接ソファへ転がされていた。そんなとき、優次は一志を起こさぬよう注意しつつ、電話台の横で勉強道具を広げた。一志の代わりに電話の番をして、眠る一志を見つめる時間は至福だった。
八月の暑い盛り、夏期講習の中休みに組本部を訪れた優次は、いつものように横たわる一志の姿を見つけた。鋭い眼光は鳴りを潜め、幼げな寝顔をさらしていた。
優次はソファの手前に立ち、真上から一志を見下ろした。「兄ちゃん」と、声に出さずに唇だけ動かしてみた。一志が「ううん」と身じろぎ、起こしてしまったかと慌てた優次だったが、一志は寝息を立てつづけていた。
いとけない寝姿は、子どもの頃を彷彿とさせた。夏休みや冬休みなどの長期休み、一志は一日じゅう優次のそばに居てくれた。今日のように暑い日は、アパートの窓を全開にして、トランクス一枚で涼む一志の姿がよく見られた。あの頃から、引き締まってきれいな身体だった。八年にわたる傭兵生活を経て、ますます鍛え上げられたことが、派手な柄シャツ越しでも見てとれた。
優次はおもむろに膝をつき、ソファに手を置いて、至近距離から一志を見つめた。薄く開いた唇から、吐息が漏れていた。一志の唇を目にするたび、優次の口腔に生温かい錆臭さと、みかん飴の香りがよみがえる。錯覚に、優次の脳裡が甘くしびれた。
精通の夢精から現在に至るまで、優次の自慰の拠りどころはずっと、一志に抜歯された思い出なのだと打ち明けたら、一志はどんな顔をするだろう――。
優次の唇を、一志の寝息がくすぐった。唇が重なるまで残り一センチを切ったとき、一志がうっすら片目を開けた。
「……おい」
一志が億劫そうに言った。優次は顔を近づけたまま、「なに、兄ちゃん?」と返した。
「やめろ……喰っちまいたくなるから」
一志は優次に背を向けて、シッシッ、と肩越しに片手を振った。犬猫でも追い払うようなしぐさに気をとられ、優次はにわかに一志の言葉を理解しかねた。
少し遅れて、一志の告白に気づいた瞬間、優次は目の前の背中に抱きついた。
「いいのに……だって、僕はずっと、兄ちゃんに食べられたくて仕方なかった」
一志の耳たぶに唇をつけて、声を耳孔に吹き込んだ。一志の表情はうかがい知れなかったが、優次がしがみつく肩から戸惑いの気配が伝わった。優次は構わず告白をつづけた。
「あのときみたいに、僕を食べて。歯、抜いてくれたときみたいにさ――」
一志の肩口に額をつけて、祈るようにささやいた。一志が息を呑み、沈黙が訪れた。
優次の心臓が、どくん、どくんと激しく脈打った。一志の背中、ちょうど心臓の裏に胸を押しつけると、自分のものではない拍動が伝わった。心音を溶かし合う心地よさに、優次はみるみる脱力した。
「……そういうわけに、いかねえよ」
優次にすがられたまま、一志がぽつりと言った。
「だって、おまえは……」
言いよどむ一志に代わり、優次が「僕が」と言葉を引き取った。
「組長の子どもだから?」
一志の沈黙は、肯定だ。優次は一志の腰に両手を回し、ぎゅっと抱きすくめた。しなやかな筋肉が張りつめた、平らな腹の弾力は、優次が夢見ていたより柔らかかった。
「なら、なおさら」
このねだり方は狡いと、わかっていても止められなかった。
「僕の言うこと、きいてよ」
昏いささやき声は、確かに自分が発したはずなのに、実感が湧かなかった。一方で、ようやく吐露したこの思いこそ、八年間拗らせつづけた初恋のなれの果てだと、優次は痛感した。
狡い言葉が、とめどなく優次の口をついで出た。
「僕のおねがい、聞いて……兄ちゃん」
振り向いた一志は、優次が見たことのない顔をしていた。その顔が色濃く映していたのは、後悔だった。ひたすら前に進みつづける一志は、過ぎたことを悔やまない。義生が殺されたときでさえ、一志が見せたのは、己の無力に対する憤怒と憎悪のみだった。
一志が何を悔やんでいるのか、優次は思いをめぐらせた。子どもの頃に世話したことか。再会し、八年前と変わらず懐く優次を突き放さなかったことか。それとも、優次との出会いそのものだろうか。
優次はため息をつき、一志の頬に片手を添えた。高い頬骨を親指の腹で撫でると、もうひとつため息が漏れた。一志は眉をひそめたが、優次から目を逸らさなかった。
「兄ちゃんが、僕を……愛する理由が、僕の血の半分だけでもいいから」
決して諦めではない、正直な思いだった。一志が自分を通して何を見ようと、優次は構わなかった。初めてで唯一の恋を、優次はなりふり構わず追いつづけてきたのだ。
何か言いたげだった一志の唇を唇でふさぎ、優次は「兄ちゃん」とくちうつしで呼んだ。一志のためらいは一瞬で、優次は気づけばソファに仰臥していた。
呼吸を根こそぎ奪うようなキスだった。優次の口腔を舌でまさぐり、舌を絡めて引き絞り、吐息ひとつ漏らすまいと封止する。しかし蹂躙の間にも、一志は優次が狭いソファから落ちないように支えてくれた。愛しい人にとことん甘やかされて、優次は恍惚と喉を鳴らした。
初めて抱かれて以来、一志は優次がねだるだけ抱いてくれた。誘うのはいつも優次からで、一志から求められたのは一度きりだった。
大晦日の晩、優次がアパートで机に向かっていたら、一志がふらりと現れた。
母は都内あちこちの所轄署に留置された組員らの接見に忙しく、帰りは深夜になると言われていた。夕飯を準備しようとした優次を一志が制し、焼きそばをつくった。一志の手料理を二人で食べて、母の帰りを待つ。幼い頃を思い出すと笑った優次を、一志が畳に組み敷いて、抜歯の代わりに肌を合わせた。
零時を回り、二〇〇六年を迎えた。カウントダウンの喧騒に巻き込まれた母がへとへとで帰宅すると、一志は組本部へ帰っていった。
「じゃあな、ユウ坊」
幼い頃からくり返された、別れ際のあいさつ。優次がアクリル板を介さずに一志と交わした、最後の言葉だった。
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