虎のあかいろ

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 万引きしたヘアカラーを制服のコートの左ポケットから取り出して、あたしはベンチに座った。12月にしては暖かい、金曜の午後の動物園。遠足の小学生もベビーカーを押す親子連れも、寒くなるにつれだんだん見かけなくなった。ゾウもコアラも居ないんじゃ、しょうがないか。あたしは売店で買ったホットカフェラテを啜りながら、ヘアカラーのパッケージを眺める。「しっかり染まる スーパーブラック」。もう何十回と見飽きるぐらい使ってきたカラー剤なのに、パッケージ写真に使われている人形が妹の弥生が持ってるものと同じブライスドールだってことに今日初めて気づいた。  あたしは地毛が赤い。そのこと自体は別に好きでも嫌いでもないけれど、生活指導の先生は染めろというので染めている。ママに地毛証明書を書いてもらえば、毎月染めることのめんどくささからは免れる。けれど周りへの説明は想像しただけでも面倒だ。中学受験をしてあの学校に入ってからもう六年近くも黒染めを繰り返しているのだから、あたしの地毛は真っ黒だとみんな思ってるだろう。あと3ヶ月。卒業したら解放される、くだらない儀式。墓石みたいなこの制服とも、毎朝校内放送で流れるお経とも、あの家とも、 一日も早くお別れしたいのに、進学先はまだ決まっていなかった。行けるところがないわけじゃなく、行きたいところがひとつもなかった。大学の学部案内サイトはどこも同じに見えた。  あたしがここのベンチによく来るようになったのは、虎がよく見えるからだった。陽に当たってごろごろしている、どっしりしたでかい猫。今日も目を細めながら前足の爪の先を毛づくろいしている。かわいいなぁ。本気を出せばこんな柵、どうってことなく破って出られるのだろうに、その本気を出す必要がここにはないものな。飢えることも、凍えることもない。勝手にパートナーがあてがわれ、子孫を残すことを人間は喜んでくれる。あたしが虎ならにげ出そうなんて考えもしないだろう。あたしは、その虎たちの牙や口の中の粘膜を見たくてここに通っている。じっと座って眺めていると、ぐわぁ、とあくびをすることがあって、その時の虎の目つきと鮮やかな赤い粘膜に、なぜかいつも鳥肌が立ってしまう。    ベンチのそばにおじさんが立った。補導員かもしれないので警戒して、カバンにヘアカラーを仕舞い、コートの右ポケットから単語帳を取り出した。おじさんは再放送のドラマで見るような二つ折りの携帯電話を耳に押し付けながら仕事の話をしていた。手が大きいのでおもちゃの電話みたいに見える。「日曜日ですか。だいじょうぶ。はい。空いていますよ」。ゆったりと柔らかく響いてずっと聴いていたくなるような声質と丁寧すぎる言葉づかいは大人の男性らしいのに、どこか舌ったらずな発音、特に「だいじょうぶ」のじょ、が、ちょ、に近い。日本人ではないのかもしれないな。わたしは警戒を緩めて、膝の上に単語帳を置き、冷めてきたカフェラテを飲み干した。おじさんはかわいい発音で話し続ける。  「式場の場所は、ホウエンザカの。はい。住所は?メール、あぁ、メールはちょっとこまります、今メモを取りますね。」  少々お待ちください、と言ってベンチにボストンバッグを置き、中をごそごそし始める。手帳はすぐに取り出せたのに、ペンがないようだった。あたしが胸ポケットからボールペンを抜いて差し出すと、おじさんは大きな体を折り曲げ、目と唇の動きで「ありがとうございます」、と言った。声は聞こえないのに、最後のす、があたしの中で舌ったらずに響いたのが可笑しかった。  住所をひらがなで、それから電話番号と時間をメモし終えたおじさんは、二度も「失礼します」と言って電話を切った。右手の、ミニーマウスのついたピンクのボールペンを見て一瞬驚いた目をし、あたしの方に前かがみで  「とても助かりました。」と言った。  「住所、メールで送ってもらえば良かったのに。」  「……漢字が苦手なのです。韓国から来たので」  「あの、お願いがあるんですけど。あたしの髪を染めてもらえませんか」 おじさんは体を屈めたまま、まっすぐあたしの目を見た。  動物園からも見える場所に、古いラブホテルがたくさん立っている。ママが生まれる前からあるような、和風の名前のホテル。自動ドアを入ると、街の慌ただしさとは違った時間の流れる空間だった。ローファーの足が歩くたびに、しとっと沈む絨毯の感触。実を言うとラブホテルには入ったことがなかった。予備校で知り合った何人かの男の子たちは、親が留守の時におうちに呼んでくれたし、高二までうちに来ていた家庭教師の大学生は一人暮らしだったから。慣れていないことを気取られないよう、パネルの適当な部屋のボタンを押して廊下を進む。廊下の突き当たりにある部屋番号のサインが点滅している。  ヘアカラーを出して、カバンをソファの上にどさっと置く。ガラス張りのバスルームに入って、ローブに着替え髪を解き、おじさんに声をかける。  「ローブ、着た方がいいですよ。意外と飛び散って汚れるから。それとも、別のことがしたいんですか?」  おじさんの腰に腕を回して言う。思っていたよりも自分の声が固くて、あてがわれたセリフみたいだ。こういうスレたことを言うときいつも、もう一人の自分がちょっと斜め上のところからせせら笑っている。数分前まで冴えない制服姿だったくせに。おじさんはまた正面からあたしの目を見つめ、何か言おうとしてから少し呆れたように腕をほどき、笑って首を横に振った。  あたしはバスタブに腰掛けてヘアカラーの箱を開け、手袋もつけずにボトルにチューブの中身を注いだ。何度も使っているから説明書なんか必要ない。ブラシ状になった吹き出し口をつけ、おじさんに手渡す。片手で髪の上半分をざっくり持ち上げて、  「このボタンを押すと泡が出てくるんです。下の方から満遍なく梳かしていけばちゃんと染まります。では、お願いします。」  おじさんはローブに着替え、あたしの髪を黙々と梳かしていった。しずかな時間だった。箱に描いてあるブライス人形の写真を見ながら、妹の話をした。妹の弥生は、生まれた時から目が見えない。  「もう15歳にもなるのに、家ではずっとこの人形を持ってるの。寝るときもベッドに連れていく。」  あたしたちは同じ部屋で眠っている。個室がほしいとなんどもママに訴えたけれど、いっしょに寝てあげてよ、の一点張りだった。ママは夜も働いてて留守だから。数年前に大きな地震があったときは明け方だったのもあってあたしでも呆然としたので、緊急事態を考えると弥生の不安を想像はする。でも、あたしは今の弥生が怖いのだ。生理もにおいでバレてしまうし、男の人の部屋で使ったボディシャンプーのことも気づいていた。小さな頃は弥生の存在が疎ましくてよく意地悪をしていた。見えないのをいいことに、アイスクリームをあたしの好きな味にすり替えたり、パパが買ってくれたぬいぐるみを見つからないよう隠してシラを切り通したりした。それぐらいならまだかわいいものかもしれない。あたしは独り言みたいに話し続けた。  「8歳のとき、飼ってた猫が死んだんですけど、弥生に無理やり死体を触らせたことがあって。だってね、弥生は何も見なくていいんだもの。憎たらしくて。冷たくなって、かちかちになった猫のこと、触って悲しくなればいいと思って。」  猫はうちの前で事故にあったのを見つけて連れて帰った。右の後ろ足がちぎれかけた猫は、あたしの腕のなかで最後は歯を食いしばるようにして悔しそうに死んだ。口の粘膜が外側にめくれていた。あたしは誰もいない家の玄関でただその時間を受け止めるしかなかった。お気に入りだった白いセーターが猫の血でいっぱい汚れた。弥生はずるい。ママの皺が深くなってきたことも、お店が心配で横顔に白髪が増えていくことも、自分のピアノの個人レッスン代が結構な額になっていることも、うちの通帳の残高がどんどん目減りしていて相変わらずパパの養育費なしには暮らせないことも、知らないで暮らせた。  冷たくなった猫を触った弥生の顔を見たときの、あの残酷な喜びをあたしは忘れていなかった。あたしは他にもひどいことをした。12歳のとき、ママのパソコンを勝手に使ってアダルト動画を見つけたあたしは、弥生にヘッドフォンをつけて音声を聴かせた。パパはよその女の人とこんなことしてるのよ。弥生は震えていたので、あたしは後ろからそっと抱きしめて髪にキスした。弥生の髪は子どもの頃からあたしと違って艶のある黒髪だ。弥生はあたしと違う。いつも無条件にママに守られていて、離れていてもパパに愛されている。ボーイフレンドが他のきれいな女の子を悪びれもせず目で追うときのあの気持ちだって知らないで生きていける。  「あたしも大事にされたかったなぁ」何気なくそう呟いたはずなのに、気づくとパッケージには涙が落ちていた。髪全体にヘアカラーが塗られた状態で、空っぽのバスタブの内側にずるずる沈み込みながら、声をあげて泣いた。おじさんは黙って背中をさすってくれていた。  髪を洗い、ドライヤーで乾かすとおじさんはもう洋服を着て、本を読んでいた。「ほんとに何もしないの?」と聞くと、「あなたはまだ子どもですから」と笑って、脇の下に手を入れ、たかいたかい、をした。照れくささを懐かしさが覆していく。18にもなってなんでこんなことが嬉しいんだろう。おじさんは仕事場の名刺をくれた。市内のキリスト教会の住所が書いてある。牧師さんだった。話ならいつでも聞きますよ、と言うので、ブレザーのポケットから数珠を出して「あたし異教徒だから」と笑った。  次の週、ひとすじ髪の染め残しがあるのに気づいた。あたしは初めて自分の髪を美しいと思えた。髪を染めるのは、それっきりやめた。
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