師はスキーをして走って転べ

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 ガタン、といってリフトが止まる。  その衝撃で、宙に投げ出されていた足が、不安定に揺れた。なんだなんだ、という不穏な空気が漂う。乗客が溜息を吐いて、またかよ、と舌打ちをする。 「ただいま、リフトの安全確認が行われています。御乗車のお客様は、今しばらくお待ちください。安全が確認され次第、運転を再開いたします」  その、少し機械的な女性の声がそう告げた。これで何度目のアナウンスだろうか。他の人もそう思っているのか、なんとなく苛々した空気が立ち込めている。雄人はただぼんやりと動き出すのを待った。リフトが止まるのはよくあることだ。どうせすぐに動く。ふぅ、と息を吐き出してみると、白い息が鼠色の空に霞んで、ゆっくりと消えた。  冬休み三日目。ふと思い立って近場のスキー場のホームページにアクセスしてみると、なんと、もうスキー場が営業していた。去年よりも早い開場だった。雄人はすぐに板やストックのサイズを確認すると、翌日――つまり今日――早速スキー場に向かった。スキー場までは歩いて行った。雄人の家からスキー場は十分もしないで着く。学校からでも歩いて行ける距離なので、遠足の行き先はいつもここだった。  雄人は手袋を脱ぐと、スキーウェアの胸ポケットに軽く手を入れ、腕時計を取り出した。もう、こんな時間。どうやらこれを滑ったら上がらないといけないらしい。時計をしまい、手袋を履き、肌が露出しないよう手首にまで袖を覆い被せる。浮き上がってきた帽子を深く被り直して、後ろに連なるチェアリフトを振り向いた。  そういえば、後ろの席は空白だったのだ。その代わり、後ろの後ろにはカラフルで人工的な色のスキーウェアが見える。良かった、と胸を撫で下ろした。一人でリフトに乗っていると、時々、なんとなく心細くなるから。もしも、気づかぬ間に人類が自分以外、全員消えていたら……。  ……なーんてね。 「お待たせしました」  誰もが、その瞬間を待っていた。 「ただいま、リフトの安全確認が終わりました。それでは、運転を再開いたします。ご注意ください」  歯車が大きく回り、リフトがゆっくりと動き出す。気のせいか、歓声が上がった気がした。雄人は安堵の息を吐いて、ストックを握りしめた。周りの景色がのんびりと通り過ぎていく。目の前にあった木が後ろに流れていくのを見て、ほんとに動いているんだ、と意味のない実感をした。やがて目の前に、白銀色の支柱が現れる。その表面には、薄く氷が張っているように見えた。できるだけ座席の内側に寄って座り、その時を、待つ。ゆっくりと、だけど確実に、その時は……来た。手を伸ばし、ストックを支柱に向ける。その先を、支柱に、押し付ける。  カーン、という金属が響く音がして、雄人は手を引いた。さり気なく周囲を確認する。悪いという気持ちはちっとも浮かばなかった。一種のスリルだと、その時は思えた。  飛び降り禁止、身を乗り出すのは危険、柱を叩くのはやめましょう。赤や黄色の文字が支柱に貼られてある。  世の中、ダメと言われるものにはちゃんと理由がある。廊下を走っちゃだめなのは、もし人とぶつかったとき怪我を負わせてしまうから、とか。リフトから飛び降りたら骨折する、とか、身を乗り出すとリフトから落ちてしまう、とか。  じゃあ、リフトの柱を叩いたら?  知らね。  もう一度、ストックを伸ばす。そろそろ降り場に付くのでこれが最後だろう。そう思いながら、ストックで柱を突い……  ふっ、と時が固まって、人と目が合った。白いウエアのスキーヤーと。なぜだか、目が離せない。氷を塗りたくったみたいに、身体がぴくりともしない。視線だけが固定され、お互い無言のまま、見つめ合う。  雄人は一瞬、わけがわからなくなった。どうして、だって。なんで、この人は下りのリフトに乗っているのだ、と。  基本的にこのスキー場では下りのリフトには乗れないことになっている。もしも降りるのに失敗した場合は、リフトが自動で停止するはずだ。だから、降り過ごしたわけじゃないはず。なのに、どうしてこの人は。  会釈しようか思い惑っていると、手に嫌な重さが加わって、ハッと振り向いた。スキーのストックが、支柱のハシゴに絡まっている。雄人は心臓が裏返ったような感覚に襲われた。ストックはそこにあるのに、リフトは進む。このままじゃ、ストックが曲がる。いや、自分が落ちてしまう。腕が千切れる。様々な不吉な未来が見えた。手首に掛けてるストックの紐を振り払って、思い切ってストックを手放す。コーン、と何度か柱に接触したストックは、新雪にズボリと埋まってしまった。  胸が狂ったように波打って、鼓膜にまで痛いほど響く。雄人は肩の温度がグッと下がっていくのを感じた。  顔を上げた。  息を呑んだ。ヒュッ、と喉から音にもならない悲鳴がする。自分の五感全てを疑った。訳がわからなくなった。  だって。そこにいた人が、そのリフトに乗っていた人が、忽然といなくなっていたのだから。  慌てて振り向く。雄人は身体の底が震えるのが分かった。  どの下りのリフトにも、そのスキーヤーの人影はなかった。 「――スキーの先端と、ストックを上げてお待ちください。まもなく、降り口です。危険ですので、スキーの先端と、ストックを上げてください……」  そのアナウンスが意識に届いたとき、幾分気分が落ち着いていた。ストックを失ったのは単に自分の不注意で、あの人がみえなくなったのもきっと、白いウェアだから雪と同化して見えなくなったんじゃないか、と。そう自分に言い聞かせると、本当にそうなんじゃないかと思えてきた。  板が地面に付いて、腰を上げる。緩やかなカーブを描きながら曲がって、さっと降り場から離れた。再度時計を確認する。約束の時間に間に合う自信が薄れた。  雄人はゆっくりと加速しながら、白銀の世界に入り込んだ。そういえば、ストックなしで滑ったことはあるけど、ストック一つで滑ったことはない。迷った末に、結局リフトを辿るようにしてコースを進むことにした。冬休みが明けたらどうせスキー授業があるし、家に帰ってストックをなくした、と母親に言ったら間違いなく驚かれるだろう。ならばこれは、柵の中に侵入してでも取りに行くべきだ。  板をハの字にしてズルズル下っていく。リフトの真下はコース外で、雪が膝くらいの高さまで積もっていた。それに、コースとリフトでは少し距離がある。この距離をズボズボと、しかもスキー板を履いたまま歩くと思うと不安になった。それに、そこはコース外なので、やたらと木が生えている。雄人には、林間コースよりも木の数が多く見えた。小さな枝も邪魔そうだ。当然といえば当然だろう。コース外が綺麗に整備されていたら、それこそおかしい。  ――おかしい。  微かな違和感が、不安という形となって、胸に溜まる。  滑っている人が、いない。  さっきまでリフトを乗るのに混雑していて、リフトにはたくさんの人が乗っていたのに、滑っている人が、いない。おかしい。誰もいない。本当に誰も。人類が消えた……とか?  冗談はやめてくれ、と内心で呟く。不安を振り払おうと、雄人は気持ちを無にして進み続けた。早くストックを取りに行かなければ。それが逆に、プレッシャーになったのかもしれない。  気が付いたら強風の中にぽつんと置き去りにされていた。風で、雪の粉が渦を巻いて舞う。横から降りつける雪が、ひっきりなしに顔を叩いた。朝刊の新聞の予報では、たしかに天気が崩れると言ってはいたが、午後から雪の模様です、なんていう生温いレベルじゃない。絶え間なく降り続ける雪と、肌を突き刺すような凍てつく風。見上げると、ビュウビュウという轟音が木々を駆け抜けていく。これが本場の吹雪、というやつなのだろうか。自然界では、こんなのは当たり前なのだろうか。  朝は快晴だったのに、と独りごちる。混雑のピークの少し前にレストランに入り、肉まんと缶のコーンポタージュで軽くお腹を満たしてから建物の外に出ると、うっすらと青い空に雲がかかっていた。何回か山頂まで行き滑っていると、その雲はだんだん濃くなっていき、さっきリフトに乗ろうとしたときにはもう、嘘のような曇天模様。リフトに乗って停止と進行を繰り返していると、雪が降った。最初は可愛らしいほどの、ゆっくりとしたスピードで落ちる雪。穏やかな雪。 「あっ……!」   バランスを崩し、転倒する。ウェアがめくれ、服に雪が染み込んだ。地を削りながら、確かな跡を付けて倒れる。雪の火花が散った。  短時間での積雪で、こぶが隠れて見えなくなったのだ。ふわっと身体が浮き、咄嗟に足に力を加えると、平衡感覚を失い尻から転ぶ。足が不自然なポーズで投げ出された。倒れたら、もう二度と起き上がれなくなるんじゃないか、と怖くなった。手袋の中で指を動かす。かたい。ひんやり。かたい。ようやくストックの感覚が戻ってきた。そうか……早く、帰らないと。雄人は意を決した。凍てついた脳みそが溶け出す。カタカタと思考が回転する。  起き上がるのには、少しコツが必要だ。まず身体を斜面側に倒して――転び方が良かったのでそこは問題なし――板を横向きに揃えたら、あとはストックを刺して自力で身体を持ち上げる。この、板を横向きに揃えるのが難しい。転び方によって、自分の足とは遥かに大きい板をグルリと百八十度回転させなければいけないこともある。雄人はストックを地に突き刺すと、そのまま自分の身体を引きずり起こした。ウェアはおかげで雪まみれになってしまった。でも、元の服の色が白いからいいんだけど。  辺りを見渡す。相変わらずの、雪と風。実を言うと、今自分がどこにいて、どこに向かっているのかがさっぱり分からなかった。視界は天気のせいで最悪。一度ストックを取りに行こうと林の中に入ってみたら、もう、現在地不明の事態に。なんとか林を抜け出すことはできたけど、ここはどこなのか。本当にここがコースなのか。という疑問が、胸にふつふつと浮かんできた。つまり。  つまりこれは、迷子、ということ。 「……あーあ、だっさ」  嘲笑う。自分を。    そうじゃないと、この状況を受け入れることができなかった。信じることができなかった。通いなれたスキー場で、まさかの、遭難。しかも、この年齢で。    板を前に動かす。  結局のところ。進み続けるという選択肢しか、雄人には思いつかなかった。  どれほどの距離を進んだのだろう。  歩いても、歩いても、同じ景色。まるで、この空間に閉じ込められたみたいだ。円形にして、その周りを延々と回っているみたい。  雄人は精神的にも体力的にも参っていた。  生きた心地がしなかった。  それは、ほんとうに小さな変化だった。  どうしてそれに気付くことができたのか、自分でも不思議に思う。でも、その自分の幸運に、今は縋りつくしかない。  見えたのだ。視界の隅で動く影を。雪じゃない。風に揺られた小枝でもない。明らかにヒト型をした、シルエット。  雄人はそのあとを追った。白いスキーヤーの背中を。あの色は雪のせいじゃない。スキーウェアの、少しグレーがかかった白。あの、下りのリフトの人。  きっとあの人は、リフトの係員さんだ、と直感的に思う。このスキー場では下りのリフトには一般的には乗れない。ということは、あの人はスキー場の関係者という可能性が高いのである。どうやって登ってきたのかは分からないが、でも、あの人に付いていけば、なんとかなる。そんな期待が、自分の口元を綻ばせた。嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。 「まって!」  叫ぶ。あの人を見失ったら、絶対、後悔する。そんな確証のない確信が湧き上がってくる。  スキーヤーは、ところどころで止まって振り返りながら、雄人が追いつきそうになると、逃げるように走っていく。それを何度も繰り返した。まるで、逃げ足の速いリスに遊ばれてるみたいだ。喩えるなら、鬼ごっこ。 「まって、」  今度こそ、追いつける。  ストックで地を蹴って、スキーで滑った跡を、なぞるようにして進む。  あと、もう少し。  お願い。   気付いて。 「まってくだっ……!」  さい。  語尾を飲み込む。  身体が前方に傾く。  足が雪に埋もれ、そのまま、貫通する。  え? と声が漏れて、肩に重力がかかる。  落ちる、と思った瞬間に、強烈な寒気がした。血の気が失せて、すぅと、意識が暗転する。何本もの枝を、背中でぱきぱきと折っていくような音。ごちゃごちゃとしたポーズのまま、止まることなく、落ちる。心臓を猫に掴まれているかのような緊張感に、泣きそうになった。水中に飛び込んだみたいに、世界がひどくゆっくりに見える。落ちたストックも、こんな気持ちだったのかな……なんて、思ってみたり。  視界の端で、白いスキーヤーは、宙に浮かんでいた。  ありえない――。  冷たい視線で、こちらを見ている。  絶望。恐怖。驚愕。悲しみ。  最後は、ぐしゃり、という音で、意識が破裂した。  ガタン、といってリフトが止まる。  浮いていた意識が、所定の位置へと戻ってくる。ハッとして瞼を持ち上げると、まず、チカチカと輝く白色の光が視界を覆った。思わず目を細める。黄色と紫っぽい色の幾何学模様が、瞼の裏側でうねって、消える。幼少期のときから目を閉じたら見える、あの模様。それは、家の天井の模様に、少しだけ似ていた。 「ただいま、リフトの安全確認が行われています。御乗車のお客様は、今しばらくお待ちください。安全が確認され次第、運転を再開いたします」  淡々と、抑揚のない声でアナウンスは告げる。その台詞のあとに聞こえてくるブーイング。またかよー、という不満の声。再び目を開けて、雄人は首を横にずらしてみた。白い雪、林、ウェアに手袋……――ここは、スキー場?  固まっていた意識が溶けていくような感覚。じんわり、じんわり、現実へと引き戻されていく。指先に、ストックのプラスチックな手応えが返ってきた。固く、ひんやりとした、素朴な感触。おもむろに顔を上げると、頬にポツポツと何かが落ちてきて、刹那、それは小さな水溜りへと変わった。これは。 「……雪?」  ガツンと脳みそを殴られたような感覚。  ぐしゃり。  自分が潰れる音。潰れた音。  顔がひきつる。怖くて、痛くて、肩が縮こまった。唇が、震える。お腹が素手で絞られているみたいに、きゅーっ、と痛くなる。  反射的に手袋を脱いで、雄人は目の前に、そっと手をかざしてみた。不健康そうな掌を凝視する。傷がない。透けているわけでもない。手相が消えたわけでもない。何も、変わらない。今まで通り、血が通っている。  生きている。 「夢……?」  大量の汗をかいていた。リフトの上だった。これだと、外の寒さで身体が冷えてしまう。そんな心配は、一割にも満たないくらいの数だけあった。  頭の中で、何度も記憶が再生される。  足が空中に浮いて、ほぼ垂直な崖を滑って――落ちて? そう。で、そして、叫ぶ猶予すら与えられなくて。  ぐしゃり。みたいな、べちょり。みたいな、ブルーベリーをスプーンで潰したみたいな感じで、自分も、潰れる。  胃が極限までに縮み込み、強烈なムカムカが喉を逆流しそうになった。「うっ」と口元を抑える。直前まで上ってきたそれは、ある地点でふっと勢力を弱め、大人しく胃へと戻っていく。それはそれで、とても気持ち悪く感じた。  夢だったのだろうか。  あんなに辛くて、怖くて、寂しい、現実的な夢。  しばらく、ただ灰色の宙を見つめた。ガラス玉みたいに、感情のない瞳で。焦点が合わず、景色が二重に見える。浮かんでくる思考は全部「痛い」もので、雄人は何も考えないようにと、全てを押し殺した。思考も感情も、全部。何も思い出したくなかった。  少しの間の後、どこかに取り付けられているスピーカーが、ツーという電子音を発する。 「お待たせしました。ただいま、リフトの安全確認が終わりました。それでは、運転を再開いたします。ご注意ください」  リフトが動き出すと、遠くの方で黄色い声が聴こえてきた。どこからが夢で、どこからが現実か。少し分かった気がする。  無性に時刻を知りたくなり、雄人は胸ポケットから腕時計を取り出した。針は、記憶通りの数字を示していた。これなら、あと一回滑ったら間に合うだろう。時計をしまい、辺りを見渡す。  不意に、ふっ、と一人の青年に目が止まった。なぜだか分からないが、なんとなく、直感的に気になる。そのスキーヤーと思われる人物は、挙動不審にチロチロと周りの様子を伺っていた。まるで、何かを警戒するみたいに。  何をするのだろう、と怪訝な面持ちで、雄人は静かにそれを見守った。腕を持ち上げ、リフトの外に伸ばす。ん? という違和感。いや、既視感。あれだと危ないな、と思いながら、固唾を呑む。あれだと、一定の間隔で並ぶ支柱にぶつかってしまう。案の定、そのスキーヤーは、ストックの先端を支柱に当てた。咄嗟に手を戻し、慌てたように顔を左右させ、周囲を見る。その顔は、どこか恥ずかしそうに赤らめていた。  雄人は首を傾げながら、あれ、と呟いた。その人はは、また、ストックを支柱にぶつけたのだ。それも、わざと。直後に、慎重に周りの視線を確認しているのが伺える。そうなると、必然的に、目が合う。……合った。白いウェアを着たスキーヤーと。  頭がくらくらした。お腹が緊張で裏返ったみたいに痛くなる。どうしてまた、このスキーヤーが。  夢? もしかして、まだ夢は終わっていない?  混乱して、背筋に悪寒が差す。歯がカタカタと鳴って震える。再び、気持ち悪くなる。色んなものがフラッシュバックして、ぐしゃり、という音に、虫酸が走る。後頭部が、心臓の鼓動と共に、波打つ。どくん、どくん。血管が縮んで、跳ね返る。  不意に、スキーヤーは乱暴に手を振ってみせた。その手から、細い棒のようなものが零れ落ちる。  ハッとした。  どうして自分は、こんなにも重要なことに気が付かなかったのだろう。  雄人が乗っているリフトは……下りのリフトだった。  咄嗟に手袋を脱ぎ捨てる。  自分の手の輪郭が、朧気に歪んでいるのを、たしかに見た。  夢は、終わってなどいなかったのだ。  終わることなんて、永遠に、なかったんだ。  目が覚めることなんて、きっと…………
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