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進学……のはずが就職
ナナセ・シドー。
ディンメル王国の王都にある、白蝶貝城の下働きを勤める二十二歳。
顔立ちは至極平凡。
結婚適齢期が十代後半の王国において、二十歳を越えても王宮勤めを続けるナナセは異色の存在だ。
「なぁなぁ。あんた、何で結婚しないの?」
ただ働いているだけなのに、今日もくだらない質問がぶつけられる。
澄んだ漆黒の瞳をスッと細めると、ナナセは騎士の青年に素っ気なく返した。
「それ、セクハラですよ」
「セクハラって何だよ」
「セクシャル・ハラスメントです」
「ますますわけが分かんねぇよ」
どれだけ暇なのか、青年は真面目に掃除しているナナセに話しかけ続ける。どうせならモップがけを手伝ってくれればいいのに。
騎士はいわゆる花形の職業で、騎士団に所属していれば結婚相手に困ることはないと言われている。
高給取りで誉れ高い。戦闘に特化しているからには、当然体つきも頑強。
男らしく頼りがいのある彼らは引く手あまたというわけだ。
ちなみに王宮勤めの文官も、騎士に次いで人気があったりする。
なぜかナナセに構い続ける赤髪の騎士も、侍女達に囲まれているのを何度か見かけたことがあった。
ナナセよりも年下のようだから若手だろうが、人気があるということはおそらく同年代の中では抜きん出た存在、または貴族家の出身に違いない。
王宮勤めになってから四年。
特に結婚願望のないナナセにも、その程度のことは分かるようになっていた。
「今まで付き合ったこととかないのかよ? 誰かを好きになったことは?」
段々面倒になってきたナナセは掃除を中断すると、腰に手を当てて騎士に向き直った。
「これ以上の質問は有料となります」
「金取るのかよ!」
「いえ、肉体労働で。腕がだるくなってきたのでモップがけを交代していただきます」
「騎士にモップがけさせるかよ普通!」
体力をもて余しているようだからちょうどいいと思ったのに、拒否されて残念だ。
再び背中を向けて作業に戻るナナセを、彼はまじまじと観察していた。
「あんた、噂通り変わってるな。俺こんな扱い受けたの初めて」
「お気に障りましたか」
「いや、何か楽しくなってきた」
「……マゾっ気」
「何か言ったか?」
「お気遣いなく」
「いや気遣ってるわけじゃねぇし」
そう言うと、彼は思わずといったふうに笑う。屈託のない笑みは彼をさらに幼く見せるが、ナナセは好感を持った。
業務の邪魔をされるのは腹立たしいけれど、悪気だけはないようだ。
侮蔑混じりに質問を浴びせられることも多い中、純粋な好奇心のみで話しかけてくる者は稀だった。
ナナセとしては二十二歳で働いていることの何が悪いという感じなのに、嫁き遅れ扱いはやめてほしい。むしろ働き盛りだ。
オランという柑橘系の果実の果汁を使うことで、床はピカピカになる。
モップがけを終えた廊下の美しさを確認し、ナナセは満足の息をつく。
「それでは、私は花瓶の水替えを行いますので。失礼いたします」
結局最後まで仕事ぶりを眺めていた青年にペコリと頭を下げ、木製の桶とモップを抱えて歩き出す。
彼とならばもう少し話してみたかったが、まだまだ仕事は山積みだ。
この世界は時間外労働という概念がないため、効率よく働かないと日が暮れてしまう。
ナナセは次の行動を頭の中で計算しながら、廊下を素早く歩いた。
◇ ◆ ◇
異世界転移、というものを経験してから、四年という月日が経った。
引き続き後見人には元の世界への帰還方法を探してもらっているし、決して諦めたわけではない。けれど、今となっては日常の煩雑さに押しやられ郷愁もどこか遠く感じる。
あれは、高校三年生になったばかりの頃。
毎日の受験勉強に憂鬱さを感じつつも、友人らと励まし合いながら志望校を目指し努力していた。
夢と呼べるほど大仰なものはないけれど、大学に行けば何か見つかるはずと淡い希望を抱いていた。
塾からの帰り道。星の綺麗な夜だった。
ノートと向き合いすぎて疲れた目を休めるように空を眺めていたら――文字通り、落ちたのだ。
胃がひっくり返るような浮遊感にゾッとしたのも束の間。いつまで経っても訪れない衝撃を不思議に思い恐る恐る目を開けると、なぜか視界いっぱいの青空が広がっていた。
マンホールにでも落ちたのだろうと考えていたのに、夜だったはずなのに、青空。
何が起こったのか分からなかった。
もしかしたら痛みもなく死んでしまっていて、ここは天国なのかもしれない。
見渡せば自然が多いし、遠くには白亜の建造物。とても現代日本とは思えない。
芝生に座り込んだままそんなことをぼんやり考え込んでいたら、人影が近付いてきた。
初老の、いかにも紳士といった風情の男性に、警戒心は浮かばなかった。
現実味がなく途方に暮れていたのもある。
「……神様がお迎えに来た、とか?」
ナナセが小首を傾げると、紳士はおかしそうに口許のひげを揺らした。
「神と間違われるなど、しがない役人にはおそれ多いことじゃ」
ゆったりとしたシルエットの白い衣服に身を包んでいたため、結構本気で問いかけたのだが、どうやらここは天国ではないらしい。
あるいは、天国にも役所が存在するのか。
「あの、お役人さん。私、何が何やら全然分かってなくて。とりあえず、ここはどこなんでしょうか?」
困惑をぶつけるも、彼は鷹揚に頷いた。
「先ほどこの庭園に、光の柱が立ったのじゃ。それは異界渡りの際に起こる現象という言い伝えがあってのう。そうして様子を見に来てみたら、こうしてあなたがいた。全く異なる世界から来たのなら、混乱も当然のことじゃろう」
「異界渡り……?」
「稀に起こるらしいが、今回は可愛らしいお嬢さんで安心したわい。文献によると、前回異界渡りでやって来たのは恐ろしい猛獣であったとか」
念のためと騎士を引き連れて来たが、杞憂に終わってよかった。
そう言ってのほほんと笑う紳士を、ナナセは呆然と見つめた。
全く呑み込めない状況でも、相対する人物が落ち着いていると気持ちが宥められる。
冷静に考えてみると、これは異世界転移というやつではないだろうか。勉強の合間に、息抜きでそんなファンタジー小説を読んだことがある。
ある日突然異世界に召喚され、聖女や勇者と呼ばれるままに世界を救う。
それがセオリーだったような気がするのに、あまりに現実は平穏だ。稀に起こるというからには召喚というより突発的な現象、つまり向こうにとっても事故に近いらしい。
これから自分はどうなってしまうのだろう。元の世界には帰れるのだろうか。
そんなことをぐるぐる考えていると、目の前に少し骨ばった手を差し伸べられた。
「私はレムンド・フランセンと申します。お名前を伺ってもよいかのう?」
「私は、志藤七瀬です。あー……志藤が苗字で、七瀬が名前になります」
「ナナセ殿。たいへん愛らしいお名前じゃ」
混乱は今なお続いているが、とりあえずレムンドと名乗る紳士が遊び人だったのではという疑惑は、ナナセの中で確信に変わった。
流れるように飛び出す賛辞といい、年輪を重ねてなお魅力的な容姿といい、彼に泣かされた女性は多かっただろうと思う。
「そのように不審がらずとも、取って食うなどせんから安心せい」
「いや不審なのはそこじゃないですけどね」
小声でこぼしながら、遠慮なく彼の手に捕まった。萎えていた足に何とか力を込める。
「一先ずは私が引き取ろう。ある程度の教育を終えたら、王宮で働けばいい。ちょうど一度に六人の侍女が辞めて、人手不足だったところじゃ」
帰る、という選択肢を示されないことを、半ば覚悟していたように思う。
けれど今は、まだ核心に迫る勇気がない。
レムンドは目を細めると、背を向けて歩き出す。
ナナセは躊躇ったのち、彼に従った。
一瞬、ここでついていけば二度と元の世界に戻れないような、そんな不安に駆られた。
それでも、他に道はないのだ。
何も考えたくなくて、ナナセはレムンドが持ち出した話題に乗った。
「六人も一気に辞めていくって、労働環境に問題あるんじゃないですか? すごく過酷な予感がするんですけど」
「安心せい。全員円満結婚退職じゃ」
「え、それはもったいない。全員辞めちゃったんですね」
「……もったいない? 辞めちゃった?」
相槌のように返した言葉に、レムンドは目を見開いてグルリと振り返った。
「全員辞めちゃった、という口振りから察するに、異世界では女性が仕事を辞めない選択肢があるということかの? 自営業でもないのに? ナナセ殿、そこのとこ詳しく」
なぜか異様に食い付かれている。
ナナセは戸惑いつつも答えた。
「え、だって、せっかくの手に職、辞めちゃったらもったいなくないですか? 次の仕事探すのも結構たいへんって聞きますし。赤ちゃんができたとかなら休職も当然だけど、産休制度があれば職場復帰できるのにな、と思いますけど」
「え? 産休? やだもうちょっと聞きたいことがありすぎるんですけど。はい召集かけてた騎士達は速やかに解散してー」
「いや、こっちこそ大胆に口調が変わってるの、すごく気になるんですけど」
先ほどまでの威厳に満ちた姿はどうした。
ナナセは様々な戸惑いに包まれたまま、レムンドに半ば引きずられるようにして連行された。
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