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だから、愛がいくら壁を立ち上げようと、今までと同じようにただ引くわけにいかない、少しでも自分を含め愛を思う人間がいるとアピールしようと、多々羅がムスッとしたまま立ち尽くしていれば、さすがに愛も根負けしたのか、溜め息を吐きながら、漫画雑誌をカウンターの上に置いた。
「そういうお前はどうなんだよ。彼女とか」
不満げに唇を尖らせながら愛が言う。多々羅は、まさか自分に恋の話題が返ってくるとは思わず、決意は途端に弱腰になった。
「俺は…まぁ…そもそも俺に近寄ってくるのは、弟目当ての女子ばかりでしたから、あまり恋に自信が無いのが正直な所ですけど…」
恋どころか、人生すべてに自信はないが。
苦い思いが込み上げるようで、多々羅は落ち着かない気持ちになる。こうなると、愛の気持ちも尊重したくなり、途端にしどろもどろになった。
しかし、愛はそんな多々羅の思いよりも、何か考え込むように天井を見上げている。
「弟って、一つ下の?あまり会った記憶が無いな…」
小さく首を傾げた愛に、多々羅は「ほとんど会った事ないと思いますよ」と、少し目を伏せた。
「あの頃は、あいつ病気がちだったので。まぁ、その内に俺の事を嫌っていったんで、例え瀬々市邸に行きたくても、俺が行くから行かなかったのかもしれないですね。だから、店長が覚えて無くても無理はないですよ。…あ、でもそっか、弟の方がしっかりしてるので、店長は弟の方が良かったかも。店長の事、女の子なんて勘違いしなかっただろうし」
苦い思いが連れてきた弟への劣等感が、多々羅に自信を失くさせる。愛への決意もすっかり萎んで、笑って逃げようとする自分がまた嫌になる。
愛は何か考え込んでいたようだが、ふと多々羅を見つめると、何事もなかったように再び漫画雑誌へと手を伸ばした。
「…俺は多分、多々羅君だったから、一緒に遊んでたんだと思うけどな」
ぽつりと、何でもないように愛が言う。思いもよらない言葉に、多々羅はきょとんとした。愛は、照れている風でもなく普段通りで、それが愛の本心からの言葉だとより感じてしまって、多々羅の胸に、愛の言葉がじんわりと染み渡っていく。
俺だったから。
多々羅は愛の言葉を胸の中で反芻し、その言葉の持つ重みをぎゅっと抱き締めたくなった。
誰かのではなく、何かのでもなく、自分だから選んでくれる。愛の何気ない言葉は多々羅にとっては特別なギフトのようで、胸を熱くする。
愛の手を引くどころか、こっちが引っ張りあげられてしまったと、多々羅は何だか泣きそうになって、それをどうにか堪えれば、照れくさくなって笑った。
「はは、ありがとうございます。そっか、そうなんですか」
涙を飲み込んだら、今度は嬉しさが全面に出て止まらない。そっか、そうなんだ。心の中で何度も繰り返す度に、顔が緩んでしまう。
「…なんだよ」
「いえいえ!」
にやにやしてしまう多々羅に、愛は眉を寄せて再び唇を尖らせたので、多々羅は慌てて背筋を伸ばした。なんでもありませんと、ポーズくらいは取っておかないと、前言撤回なんて言われてしまいそうだ。素敵なギフトは、まだ胸の中にその温度感を持ったまま、しまっておきたい。
それでも、多々羅の顔は緩んでしまうので、愛はその思いを探ろうとしてか、目を眇て睨んでくる。多々羅は慌てて逃げ道を探した。
「あ、えっと…そう、そんな訳で、俺は弟目当ての女子達と付き合ってましたよ。別れる時に、いつも気づくんです。あ、また、俺じゃなかったかって」
苦笑いも、先程よりも苦しくない。自分でも現金なものだなと思うが、嬉しいものは嬉しい。
愛は、多々羅の頬の緩みの追及を諦めたのか、漫画雑誌をペラペラと捲り始めた。
「でも、そればかりじゃないだろ。中には違う女性もいたんじゃないか?」
愛は、ちょっと面倒臭そうに言葉を投げている感じだったが、その言葉によって多々羅が真っ先に思い浮かべたのは、結子で。多々羅は思いがけず焦ってしまった。
「いや、でも、あの人はその、違うっていうか!」
「あの人?」
「え?」
きょとんとした愛の様子に、多々羅は途端に顔が赤くなる。
何、一人でテンパっているんだろう。結子の姿が浮かんだのは多々羅の頭の中だけで、そもそも愛は、多々羅が結子に気がある事すら知らない。
「はは、えっと、…あ、でも、そうですね。大学の先輩で、麗香さんって人がいたんですけど、その人は、純粋に俺を見て友達になってくれた気がします」
「友達?」
「はい、麗香さん恋人居ましたから。憧れるだけ、というか、麗香さんは学園のマドンナなんですよ。それで、その恋人が智さんって言うんですけど、この人がまた良い人で。麗香さんは大学一の美女なんて言われてたけど、モテ男のやんちゃな誘いには見向きもしないで智さんを選んだって、ちょっとした逸話があって。あんまり目立たないけど、後輩にも優しくて頼もしい人なんですよ、智さんって。俺、智さんも憧れでした、俺には無いものばかりで」
話を聞いていた愛は、釈然としない表情を浮かべている。
「…多々羅君は、どうして自分に自信を持たないんだ?多々羅君だって、いっぱい良いところあるだろ」
「はは、俺にはそんな、人に誇れる物はありませんよ。うちには優秀な弟もいるし。でも、ありがとうございます。店長にそう言われると嬉しいです」
多々羅は照れて笑っているが、そんな彼に、愛はムッと唇を尖らせるばかりだ。
愛がそう言うのも、多々羅へのフォローではなく、本心だった。愛からしてみれば、多々羅の手は魔法を生み出す手だった。
何も分からなくて怖がってばかりの自分を連れ出してくれた、愛の思いもお構い無しに強引に。けれど、その先にはいつも楽しい事が待っていて、気づけば笑っている自分がいて、愛はいつも救われた思いだった。
今だってそうだ、自分では出来ない事を、多々羅は簡単にやってのける。主に家事だが、それでも愛は尊敬していた。
なのに、それを軽く流され、愛にしては面白くなかったのだろう。そんな愛の気持ちに気づく事なく、多々羅は話を進めていく。
「それに、二人は結婚もしましたし。そもそも他の誰かが入り込む余地なんて無かったんですよね」
苦笑う多々羅。そこへ、カランカランと、ドアベルが鳴り、愛はカウンターから足を下ろし、漫画雑誌をその上に置いた。
「いらっしゃいませ…」
振り返った多々羅は、思わず言葉を呑み込んだ。そこにはひとりの女性がいた。ウェーブのかかった長い髪に、キレイめのカジュアルなパンツ姿で、低めのヒールを履いた女性。
久しぶりに会っても、彼女の着飾らない美しさは変わらない。
「麗香さん?」
彼女も多々羅を見て、驚いたようだ。
「え、多々羅君?え、どうして?多々羅君が探し物してくれるの?」
「いえ、俺は最近入ったばかりで…というか、探し物の依頼ですか?」
「えぇ、ネットで見て来たんだけど…ここで良いんだよね?」
ネットで宣伝なんかしていたのか。新事実に多々羅は驚いたが、慌てて顔を綻ばせながら相槌を打ち、愛を振り返った。
「紹介します!こちら、店長の瀬々市さん。店長、今話していた先輩の麗香さんです!依頼ですよ!」
愛はすかさず眼鏡を掛けて立ち上がり、ピシッとスーツの皺を伸ばして、よそ行きの顔をした。
「初めまして、店長の瀬々市です」
「橘です、よろしくお願いします」
「さ、こちらへどうぞ、お話を伺いましょう」
そう愛は麗香を応接室へ促し、多々羅にお茶の用意を頼んだ。
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