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38
多々羅が食器を片付け、早速ゴーグルとイヤホンを装着して戻ってくる。愛はその様子に溜め息を吐きながら、テーブルの上に麗香のコンパクトミラーを置き、それに語りかけた。
コンパクトミラーの化身は、道具を使わずとも姿を現してくれた。化身にも何か訴えたい事があったのだろう。
現れた化身は、赤を基調としたアジアンテイストのワンピースを着ており、頭に花の飾りをつけた手のひらサイズの女性だった。
「初めまして、私は宵ノ三番地の瀬々市です。麗香さんが身につけていた指輪についてお聞きしたいのですが」
彼女は愛の翡翠の瞳を見ると、やはり怯えた様子を見せていたが、それでも、愛の表情や声を聞いている内にその気持ちも和らいできたのか、今度は泣き出しそうに表情を変えた。
「人の記憶は戻らないの?あんなに幸せだったのに…麗香は、本当に幸せだったのよ?」
そう悲しく訴える化身に、愛は化身と視線を合わせるように床に膝をついた。
「記憶が戻るかはこの先分かりませんが、記憶を失っても、結べる絆はあるかもしれない。その為に、何か知ってる事を教えてほしいんです」
多々羅は思わず愛の横顔を見つめた。
愛の言葉は、上辺だけのものではない、切に願う気持ちが見えて、多々羅はどこか安堵したように頬を緩めていた。
愛は、自分の家族とは距離を置いている、それを思えば、一度途切れた関係なんて、と言いそうだが、そうじゃなかった。それなら、愛だって結子達と昔のように…と、つい期待してしまう。
「麗香さんが指輪を外した所とか見てませんか?」
愛の優しい問いかけに、化身は涙目になりながら口を開いた。
「私は鞄の中だから見えなかったけど、今、修理に出されてる鞄が言ってたわ。智が麗香の指輪を外したって」
「それっていつか分かりますか?事故の日でしょうか?」
「えぇ、まだ麗香が眠ってる時だったって」
「それからは?どこにいるかとか、分かりませんか?」
「分からない、あの日から智とは別々になっちゃって、智の持ち物にも会えないから…」
「そうなんですね…事故の前は、喧嘩とかもなかったんですよね」
「私の知る限りは。私が眠ってる時は分からないけど…」
「そうですか…ご協力感謝します」
「…翡翠のあなた」
その一言に、一瞬、愛は固まった。
翡翠、その瞳の色は、恐れられる不吉なものだ。
愛の胸に嫌な思いが過ったが、化身が訴えたかったのは、愛を苦しめるものではなかった。
「私、噂は信じないわ。だからお願い、二人がまた一緒に居られるように協力してあげて。私達は、寄り添いたくても何の力になれないから」
切実に訴える化身からは、麗香への愛情に溢れている。その様子に、愛はそっと微笑んだ。持ち主をこんなに思い案じているのは、このコンパクトミラーが大事に扱われてきた証拠だ。この化身は、恐らくこの先も、禍つものになる事はないのだろうと愛は思う。
同時に、愛自身の事を恐れずにいてくれて、嬉しかった。
「勿論です、その為の探し物屋ですから」
愛がしっかりと頷くと、化身はほっとしたように微笑んだ。
翌日、愛と多々羅は麗香と共に、今は智だけが暮らしているマンションに向かった。
「いいんですか、お邪魔して」
「うん、あの日以来、私も来るのは初めてだけど、私の家でもあるから好きに来て良いって」
そう穏やかに言う麗香だが、家のドアを前に躊躇う様子を見せた。
「麗香さん?」
「あ、ごめんね…、このドアの先に、私は本当に入って良いのかなって」
困って笑う麗香に、多々羅は麗香の思う所に気づき、眉を寄せた。そして、躊躇う麗香に構わず、勝手にドアを開けてしまった。
麗香は焦ったが、玄関にはくたびれたサンダルだけがぽつんと置かれており、それを見てどこかほっとした様子だった。
「智さんが、麗香さんを待ってない訳ないじゃないですか。昨日友達に聞いたら、今も指輪してるって言ってましたよ」
「…そう、なんだ」
ほっとしたように肩を落とした麗香に、多々羅も表情を緩めた。
部屋に上がると、一人暮らしになったせいか部屋は多少散らかって見えた。キッチンにもゴミが溜まっており、色々山積みになっている。
「…あの、お、お茶出しますね、あるかな」
「麗香さん、いいですよ。それに…もし良ければですけど、片付け手伝いましょうか」
多々羅の言葉に、麗香は同意して苦笑った。こんな状態でも、愛のゴミ屋敷よりは断然ましだった。
「俺は、少し部屋を見させて貰っても良いですか」
愛が尋ねると、麗香は申し訳なさそうに頷いた。
「ごめんなさい、まさかこんなに散らかってるなんて」
「こんなの可愛いもんですよ」
多々羅の言葉に、愛は思わずじとっと多々羅を睨んだが、多々羅はあえて、カラッと笑うだけだ。
愛は一つ溜め息を吐いて、二人に背を向けた。何にせよ、麗香の視線を逸らせれば、それでいい。
麗香が片付けにキッチンへ入るのを見て、愛はパイプを咥えて、作り出した煙を和紙に吹き掛けた。すぐに足跡が現れたが、それはその場で回るだけで、すぐに消えてしまった。
足跡が現れたので、麗香の探したい思いは本物だ。それでも足跡がすぐに消えてしまったのは、麗香が探しても見つけられなかった通り、この家の中に指輪が無いからだろう。
愛は、部屋の中に入る許可を得て、智の部屋の中を探った。智の持ち物に話を聞く為だ。入ったのは仕事部屋だろうか、机の上にパソコンが置かれていて、脇に棚がある位の、やけに殺風景な部屋だった。
「…無いな」
化身になる物というのは、持ち主からの思いが込められた物や、物自身が何か主張したい思いに突き動かされた時という、曖昧な物だ。智の部屋からは、物を大事にしている印象は窺えたが、化身として姿を現してくれそうな物が見つからなかった。手当たり次第に声を掛けても、物の気持ちがこちらに向かなければ、姿を見せてくれることはない。それが探し物である場合はパイプの煙を使って、化身を引き出す事も出来るが、そうでない場合は、無理に引き出す事は極力避けたかった。こうして姿を見せないのは、愛を恐れている場合もある、こんな時、もっと上手く立ち回れたら良いのにと、愛は器用になれない自分に嫌になる。
それでも、自分を偽って化身と対峙する事は愛には出来ず、どうしようかと頭を悩ませた。
このまま何もヒントが得られないと、智に直接聞かなくてはならない。もし、智が指輪を隠したなら、すんなりと話を聞いてくれるだろうか。
愛が思案していると、「もし」と小さな声が聞こえた。驚いて振り返ると、デスクの上にちょこんと腰掛けている化身の姿があった。
見た目は初老の男性で、着物を纏い、頭には帽子を被っている。彼の傍らには黒い万年筆があり、その手にも、万年筆を細くした様な杖を持っている事から、彼は万年筆の化身のようだ。
「初めまして、私は宵ノ三番地の瀬々市と申します」
愛は相手の方から姿を見せてくれた事に安堵して、身を低くして挨拶をした。化身は愛の瞳を見ても恐れる様子はなく、しょんぼりと肩を落として愛を見上げている。
「私は、智の万年筆だ。他の物達は、翡翠の瞳が苦手でな、顔を見せない事を許しておくれ」
「いえ、こちらこそ押し掛けるような真似をして、申し訳ありません。あなたは、どうして?」
「麗香の声が聞こえてな、彼女は智の元に帰って来てくれたのだろうか?」
「…指輪を探しに来たんです。彼女は智さんの記憶を失い、智さんとの関係について悩んでいるようです」
「そうか…」
化身は、寂しそうに話を続けた。
「智が、どうやら引っ越しを考えてるみたいでな」
それには、愛は目を丸くした。
「ここを引き払うって事ですか?どうして?」
「さてな…私は従うだけだからな」
智は、麗香との関係を絶とうとしているのか、まだ麗香は別れるとは言っていないのに。
「麗香さんの指輪の事は知りませんか?その指輪が見つかれば、何か、二人が共に居られるような、きっかけが得られるかもしれません」
愛にとっては、麗香も智も親しくないので、正直、二人が夫婦でいようが別れようがどちらでも良い。それは、二人で決める事だ。ただ、目の前の化身の寂しそうな姿を見ていたら、無関心のままではいられなかった。彼はまだ、二人の側に居たいと望んでいる、その気持ちを大事にしたかった。
その思いは、万年筆の化身にも届いただろうか。彼は、そっと表情を緩め、それから考え込む仕草を見せた。
「指輪の事は指輪に聞くのが良いだろう、智の指輪は、智が対の指輪を土に隠したって言っておったぞ。ただ、場所までは分からんでな」
「…そうですか、ご協力感謝します」
「あまり力になれんでな、二人をよろしく頼むよ。智の下手くそな鼻歌が聞けなくて寂しいんだ」
智は、気分が良いと鼻歌を歌うらしい。毎回調子が外れてるというが、今は家に帰ってきても、それを聞く事は無くなってしまったようだ。
智は、本気で麗香と別れる気でいるのだろうか。
愛は化身が戻った万年筆をそっと撫で、部屋を後にした。
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