家に帰るまでが遠足ですか

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 アンプラグドの澄んだアコギの音色が、校長のスピーチに重なる。4ビートで刻まれるEのルートの上を、メロディが切なく躍る。遠足が終わる寂しさをBGMで掻き立てたいのは分かるが、いくら何でもやりすぎだ。隣に立っているカナヤマを肘でつつき、校長の方を顎で示す。同意の苦笑いを待って、互いの背中に手を回す。強制受信のボリュームは肩甲骨の間に設定されていて、自分では変えられない。視線を移すと、列のあちこちで同じ光景が見られた。 「――くれぐれも寄り道をしたり、買い食いをしたり、延泊をしたりすることのないように――」  何人かは、ツマミを逆に回している。BGMを上げて校長の声を掻き消そうという腹だ。そういう奴らは、学年が俺たちよりはるかに下の命知らずか、家が安全な区域にある富裕層のどちらかだ。 「――小学校の下校時間と重なりそうなところは、七区、十三区、十六区。それに加えて、十八区と十九区は特に注意が必要です。中学校の部活動と遭遇する可能性があるのが、六区、十一区、十三区、十五区から十八区――」  よりによって十八区は大当たりか。  同じ地区に住んでいるカナヤマの溜め息は当然として、同じような反応が列のあちこちから聞こえてくる。確かに、今日は多すぎる。遠足戻りで疲労困憊だっていうのに。 「家に帰るまでが遠足です。家族のみなさんに、遠足のことを報告して、連絡して、必要があれば相談して、ようやく遠足は終わりになります。それまでは、決して」うっすら聞こえるアコギが、激しく掻き鳴らされている。曲も終わる。校長の話も終わる。「気を抜くことがないように」  そして、下校が始まる。 「駅方面の奴らは、余裕だな」  カナヤマが水筒に水を補給しながら言う。一緒に入れている粉末は、カナヤマ特製、プロテインとスポーツドリンクと梅昆布茶のブレンドだ。 「飲むか?」  慌てて首を振る。うらやましくて見ていたわけじゃない。前に一度、飲ませてもらった時には、三日三晩、口の中を排水口にされた気分だった。   一区から五区にあたる駅方面の空間は、市外の人の出入りも多く、そのため定期的な点検が行われ、メンテナンスも行き届いている。スクールゾーンとしての安定性はもちろん、オーバーレイされたデータ層の薄さも密度も健全で、アンプラグドの俺たちが歩いていても安心だ。その逆、学校の北側に広がる十三区から十八区は住宅街だ。駅側とは対照的に、最後の点検がいつだったか思い出せない。バグが出る度に、ちまちまとパッチで補修を繰り返しているせいで、撤去しようのないガベージで溢れかえっている。 「アップグレードしてくれりゃいいのに」水筒を振りながらカナヤマが言う。 「ササヌマの家族が、パブ空間の管理やってるって言ってたな」 「あいつんち、駅前の一等地だろ。俺らの住んでるような古い空間なんて、視界にも入らないだろうさ」  ゆっくりと屈伸をして、膝を重力に慣らしていく。校庭の隅では、遠足で使った高軌道バスがエンジンを起動している。 「早く下校してくださいよ」  教員たちの声が耳の周りで渦を巻く。こちらはBGMと違って教権発動、問答無用で飛び込んでくるメッセージだ。耳元でがなり立てられなくてはならないほど、俺たちの耳は悪くないっていうのに。 「じゃあな、先生」 「先生、お疲れさん」 「ええ、お疲れさまでした。気を付けて帰ってくださいね」  教員のほとんどは、学校の敷地からほど近い四区に住居がある。気を付けてなんて言われても、嫌味にしか聞こえない。  俺とカナヤマが住んでいる十八区は、ここから一番遠くて、一番地価の安い区域だ。古いアパートが林立し、昔は人でにぎわったこともあったらしい。  南中した太陽を睨みつける。高軌道バスのために開いていたスカイシェードは既に閉じているが、それでも七月の陽射しは厳しい。鞄から帽子を取り出した。周りを見ると、ほとんどの生徒が帽子をかぶっている。当然だ。熱中症は命にかかわる。 「さあ、行くか」 「ああ」  カナヤマの呼びかけに応じて、俺は人工芝のレイヤーに杖を突きたてた。  カナヤマの手から水筒が滑り落ちた。倒れた水筒の口から、灰色のドロドロした液体が流れ出す。しかし、それを拾い上げている場合ではない。 「陸上部か」  うずくまったままうめいているカナヤマの右足を見ると、地面と半ば同化してしまっている。  遠回りにはなるが、十四区を縦断して裏から十八区に入ろうとしていたのだが……。どうやら俺たちは校長の情報を過信していたらしい。 「衝突前に気づけたはずなのに」  ついさっきまで歩いていた遊歩道には、カナヤマの杖がトーラス状によじれて転がっている。と言っても、これは俺たちが三次元空間にいるからそう見えるというだけの話だ。不用意に触って、俺たちの体がカラビ・ヤウ化すれば、美しい多様体が見えてくるだろう。 「俺も不注意だった」  遊歩道の中央には、高次元ランニングの後に残る時空の断層がはっきり見える。 「先に帰れ」 「ちょっと待てよ」カナヤマの言葉に、思わず声が上ずる。「ばかなこと――」 「ばかはお前だ。遠足からの帰りで、毎年、どれだけの老人が消えているか、知らないわけじゃないだろう」  ネットワークからスタンドアロンで動いている、俺たちみたいな六十歳以上の世代は、生まれた時からシステムのプラグインとして育てられた世代からすれば、邪魔者以外の何物でもない。政府は、定年からの定時制、なんて体のいいことを言ってるが、その実、姥捨山に他ならないのが、俺たちの通う学校だ。 「早く行け。陸上部が戻ってきた」 「もう? 早すぎる。この池の外周、5キロはあるだろう」 「そんなこと言ってるから、時代遅れのアンプラグドって言われちまうんだよ」  池の反対側の空間にひずみが見えた。あと二分もしないうちに、ここに戻ってくるだろう。 「だめだ。せめて遊歩道の外に」カナヤマの腋の下に手を入れて、引っ張ろうとするが、腰と膝にガタが来ている俺の力では、全く動く気配がない。 「遠足に行けたんだ。俺はもう満足だ。この世界にいても、何もできることはない」カナヤマが手を伸ばして水筒を拾い上げた。中身を全部出しきると、飲み口の部分を回して外した。「実は、ただの水筒じゃないんだ。ごめんな」  言うが早いか、カナヤマは水筒の中に人差し指を入れた。次の瞬間、俺の腕の中に抱えられていたはずのカナヤマの体は、巻き取られるメジャーのように、水筒の中に吸い込まれた。空中で支えを失った水筒は、そのまま地面に落ちた。遊歩道は緩やかな傾斜になっている。真っ黒な筒は慌てて伸ばした俺の手を無視して転がっていく。 「カナヤマ!」  その時、空間がゆがんだ。水筒を構成するテクスチャが分解されて蹴散らされ、風に乗って池の方へと舞っていった。  沈む夕日に延びる影が見える。十八区に林立するアパートだ。住んでいるのは老人ばかり。今日、何人が無事に帰りつけたのだろう。  国道を横切ると、ブルースハープの切ない音色が聞こえてきた。区境を超えると、BGMの音量は自動で再設定される。ボリュームを絞ろうにも、背中に手を回してくれる友人はもういない。胸を締め付けるビブラートが、黄昏色に染まるゴーストタウンを、いっそう悲しげに見せる。 「アンプラグドだって、捨てたもんじゃないさ」  杖から手を放し、両手を口元へ。右手を震わせて、ビブラートにシンクロさせる。ここに誰もいなかったとしても、カナヤマには聞こえる。そんな気がした。 「家に帰るまでが遠足――」  校長、そういうの、俺らの若い時には「死亡フラグ」って言ったんだ。
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