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目覚めは爽やかだった。昨日体を包んでいた気怠さと絶望感が、嘘みたいに消えている。
玄関の引き戸が開く音がする。母さんだ。
寝ていた俺の姿に目を留めて、驚く。
「具合が悪かったの? 氷とか、飲み物とか、ちゃんとあった?」
訊ねながら台所に慌ただしくむかった母さんが「出しちゃったの、あれ」と声を上げた。
「〈あれ〉?」
首をかしげながら台所に向かう。流しにタッパーがひとつ置かれていた。
なぜか細い枝と、丸い石のようなものがふたつ。
なんでそんなものがタッパーの中に?
訝しむ俺に、母さんは言った。
「引っ越して来たとき作って、冷凍庫に入れてたじゃない。雪だるま」
「……雪だるま?」
「引っ越してきたとき、こっちで珍しくちょっと積もるくらい雪が降ったことがあって、雪彦、はしゃいで作ったのよ、小さな雪だるま。でもこっちの雪なんかもう次の日には溶けちゃうでしょう。そう言ったら絶対やだってすっごく泣いて――冷凍庫にしまったの」
思い出した。
突然生活が変わった。学校ではよそ者扱い。母さんはいつも険しい顔。
十歳だった俺は塞ぎがちだった。祖父母の残した古い家も、それまではマンション暮らしをしていた俺には、どこかよそよそしく思えて落ち着かなかった。
そんなときだ。
こっちには珍しく雪が降ったのは。
ほんの一日だったけど、街は白一色に染まった。
交通網が乱れたり、慣れない人たちには大変だったみたいだけど、俺にとっては見慣れた色だ。少しの間だけ、世界が元通りになったみたいに思えて、外に飛び出した。
そして作った雪だるま。
まだ友だちもいなかった俺はそいつに名前をつけた。俺が雪彦だから――雪、と。
ぼくときょうだいだよ、と。
きょうだいなんだから、お母さんがいないときもずっと一緒にいてよね、と。
「狭くなるでしょう」と文句を言う母さんに無理を言って、大事に大事に冷凍庫にしまった。一日に何度も取り出して眺めては、また怒られた。
なのに、いつの間にか俺はそれをすっかり忘れて――
『それ以上近づくな』
『無理』
いつも気怠げにしていた雪。
台所から、外には出られない雪。
だけど俺が疲れてもやもやしてると、いつも待っていてくれた雪。
俺が素の自分で文句を言ったりできるのは、雪に対してだけだった。
「なんだよ……」
約束を忘れた冷たい奴なのは、俺のほうだった。
突然子供みたいに泣き始めた俺に、母さんが「雪彦?」と怪訝そうに顔を覗き込んでくる。険しい顔ばかりを見慣れた俺には、戸惑いに満ちたその顔は新鮮に思えた。そして気づく。
無駄が嫌いで、ちゃんとしなきゃが口癖の母さんも、雪のことはずっとしまっておいてくれたんだ。
雪の冷たくて温かかった手を思い出しながら、俺は口を開いた。
「お母さん、俺、ほんとは、ほんとはね――」
〈了〉
210209
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