雪彦と雪

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雪彦と雪

 塾を終え、ため息と共に家の玄関をくぐると、そいつは決まって台所にいる。 「まーた死にそうな面してんな、雪彦」  真冬だというのにTシャツに短パン。そこから伸びる手足はひょろっと枯れ枝のように細い。全然外に出ないからだろう。白い肌は、いっそ青みがかって見えた。全体的に色素が薄いのに、やけに黒々した瞳が目立つ。 「つまんなさそうな顔ばっかしてると、つまんねえ奴になるぞ。もっとにこっとしろ、にこっと」  全然似ていない俺の兄、雪。  雪に雪彦って、あまりにバリエーションがない。もう全然記憶にない、ろくでなしだったという父が適当につけたのかもしれない。  四年前、俺がまだ十歳だった頃、両親は離婚した。  母さんが戻った元じいちゃんとばあちゃんの家は古く、台所が一番日当たりが悪い。古い湯沸かし器に、窓の上に無理矢理継ぎ足していったみたいな棚の数々。〈キッチン〉ではなく、あくまで〈台所〉って感じだ。  その古びた流しの前の、劣化してビニールが破けているようなクロスのかかったテーブルセットの、やっぱり古びた椅子に座って、雪はチューブアイスをかじっている。  チューブアイスというのはうちでの呼び名で、正式名称は何というのか知らない。  細長いプラスチック容器に入ったジュースを凍らせた、真ん中で半分に折るようになっているあれだ。あまり生活に余裕がない我が家の定番おやつで、夏になると大量に買い込む。その残りがまだ冷凍庫に入っていたんだろう。  俺はひとつくしゃみをした。  雪は二本目のチューブアイスの細い口を掴むと、俺の黒縁眼鏡の真ん中辺りを差す。 「おっと。それ以上近づくな」 「ひきこもりが偉そうに指図すんな」  俺はそう言って、ぐっと鼻を拭う。だいたいくしゃみが出たのは、おまえが寒々しいかっこしてるから、見ているだけで凍えたんだ。  こいつに比べたら、俺は何百倍も苦労している。  それまで暮らしていた東北と真逆の、九州の片田舎。そんなところに引っ越した俺を待っていたのは、お決まりのいじめだった。その頃の俺はまだ幼くて、よそから来たというだけでなぜそんな目にあうのかまったくわからず、毎日こっそり泣いていた。  こっそりだったのは、母さんに心配をかけたくなかったからだ。  慣れない仕事を始め、毎日暗い顔で帰宅する母さん。そんな姿を見ていると、とてもつらいなんて言えない。    ある日、帰ろうとしたら下駄箱に靴がなかった。だいたい校舎裏の植え込みの陰に隠されているのはわかっている。過剰反応すればきっとどこかで様子を見ているのだろう奴らを喜ばせるだけだから、俺は努めて淡々とした態度で靴下を脱いだ。上履きを汚せば先生に、靴下を汚せば母さんにバレる。  俺は素足で外に出て靴を見つけ、水飲み場で足を洗ってまた靴下を履き、帰った。  塾に行かない? と母さんが言い出したのはたしか、そんないじめがまだまだ続く小学校六年生になった頃だ。  この辺りには、都会の有名大への進学率がいい名門高校がある。そこへ入るには、中学に入る前から勉強しておかないと、ということらしい。  その頃の母さんの口癖は「ちゃんとしないと、お父さんみたいになっちゃうよ」  俺は塾へ通い、母さんはその授業料を払うため仕事を増やした。ただでさえ疲れた顔をしていたのに。  雪がずっと家にいるようになったのがいつの頃からか、よく思い出せない。学校と塾。自分のことで手いっぱいだ。  なにがにこっとしろだ。  俺はいらだちをぶつけた。 「どうせ台所まで出てきたんなら、味噌汁くらい作っとけば?」 家にいる奴が家事を手伝えというのは、至極まっとうな要求だと思う。  けれど雪は即答した。 「無理」 「おまえ――」  俺と母さんがこんなに「ちゃんと」頑張ろうとしてるのに、おまえはなんなんだ。  声を荒げたとき、がらがらっと玄関の引き戸が開く音がした。ただいまの言葉もなく、疲れた足音だけが聞こえる。母さんだ。  ふと見ると、雪の姿はもう消えていた。素早い。雪は母さんが帰って来るとすぐ自分の部屋に引っ込んでしまうのだ。 「おかえり」  俺の声にも応えるより先に、母さんは台所のテーブルの上に目を留めた。放置された食べかけのチューブアイスに。眉間に皺が寄る。 「寒いのに冷たいものばっかり食べて」  いや、俺じゃなくて、と言いかけてやめる。母さんはいつも雪には何も言わない。雪に甘いのだ。  雪なんか。なんにもちゃんとしてない奴なのに。  苦々しい気持ちであらためてテーブルを見れば、食べかけだと思っていたチューブアイスはちゃんと半分に折られ、綺麗に片方が残されている。 折口が溶け出してぷっくりふくらみ、今にも垂れそうになっているそれを、仕方なく口に含んだ。しゃりっと噛む。合成的なオレンジの味。不思議とそれが嫌いじゃない。これはそういう食べ物だ。  ――そういえばあいつ、引きこもりのくせに、俺が帰ってくるときはいつも部屋から出てきてる。  嫌がらせか? そんなことを考えながら、冷たいアイスを飲み下した。
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