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本当のこと
翌日、学校の授業中に寒気を感じた。
帰る頃には頭が重くなる。
どうやら本格的に風邪だなと思った俺は――それを無視した。
俺の行っている学習塾の授業は振り替えがないから、休めばその分授業料が無駄になる。母さんの稼いだお金が。
どうにか学校と塾の授業を受け、帰る頃には立っているのもつらいくらいになっていた。
視界がぼやけて、鍵を刺すのもうまくいかない。がちゃがちゃ無様に音を鳴らし、どうにか引き戸を開けて中に入る。自分のテリトリーに戻った安心感からか、体はぐっと重さを増した。
「水……くすり……」
台所に転がり込んで、水をあおった。とにかく熱い。俺は冷蔵庫を開けた。熱さましシートの箱を取り出して、額に――と思ったら、中は空だった。
「……」
それならと薬の置き場所を探し、風邪薬の箱を引っ張り出す。
中は空だった。
「…………」
市販の風邪薬でも、飲めば気休めにはなるはずだった。失望から、体にはいっそう気怠さがのしかかる。世界の中で俺だけ猛烈な重力がかかってるみたいに、もう一歩も動けない。
俺はそのまま居間に倒れ込んだ。視界がぐるぐる回って、胃の中までかき混ぜられているみたいに感じる。
「雪彦?」
いつの間にか雪が俺を見おろしていた。性格の悪い引きこもりでも、兄は兄だ。俺は息も絶え絶えになりながら、口を開いた。
「薬……買ってきて……」
雪の白い顔にさっと影が走る。
「……それは」
わかってる。引きこもりに酷なことを言っているのは。でも。
「こんなときくらい助けてくれたっていいだろ……!」
そのとき、最悪な気分に不釣り合いな、ぴこっという音がした。
制服のポケットからだ。スマホを入れっぱなしにしていたことに気づき、もぞもぞと取り出す。母さんだ。
〈急だけど今日通しになりました。夜勤の人がお休みで〉
母さんが働いているのは、二十四時間操業の工場。今はいろいろ規制があるから、通しになることは滅多になくなっていた。なのによりによって今日。
頼まれて、弱り切る母さんの顔が目に浮かぶ。片田舎だ。この辺りで唯一大きいその工場で働く人たちは、ほぼほぼ顔見知りだった。俺がもっと小さかったときは融通を利かせてもらっていたから、今度は母さんが引き受けなければならないんだろう。
こういうところで輪を乱さずに生きていくことの重要性を、俺はなによりよく知っている。
ぴこん、と再びスマホが鳴る。
〈ご飯ひとりでなにか食べられる?〉
続いて、冷蔵庫に残っている食材と調理法がいくつか送られてくる。俺は慌てて、もう指先まで気怠い体を奮い立たせ、返信する。
〈大丈夫。ちゃんとやる〉
スタンプひとつで済む返事を、絵文字もスタンプも使わない母さんに合せて文字で打った。
こういうとき、俺は甘えられたことがない。
本当は学校にも塾にも、行かなくていいなら行きたくなかった。
俺の塾の費用がなくなれば、母さんだって少しは仕事を減らせる。
その分家にいていいんだよ。
家で母さんがにこにこしてくれてるほうが、俺はずっと嬉しいんだよ。
でも俺がいい学校に行ってここから抜け出すのが母さんの望みなら、そんなことを口にすることはできなかった。なんとなく、裏切り、みたいな気がして。
だから雪とは違って頑張ってる。
だけど本当は「ちゃんとしないと」と励まされる度、背負わされる重しが増えるような気がした――
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