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家に帰ると玄関のところで少し緊張した。今日はいつもより少し大きめの声で「ただいま帰りました」と言った。いつもは仕事の邪魔にならないように声を控えめにするのだが、私は帰宅したことを孔明さんに伝えたかった。つまり、浴衣姿を見てほしかった。
特に理由はないけれど、せっかく着せてもらったのだし、彼がどういう反応をするのか見てみたいという気持ちもあった。
けれど、当たり前だが彼はいつものように書斎へこもったまま出てくることはなかった。
忙しいのだろう。
私はいつものように彼のための夜食を作る準備をはじめた。
冷蔵庫から野菜を取り出して、まな板と包丁を準備する。今夜は煮物にしようと思って野菜をカットする。
その前に、私はスマホで自分を撮影することにした。やっぱり、彼に見てもらいたい気持ちが高まりうずうずするので写真に収めておこうと思ったのだけれど。
シャッター音と同時に孔明さんが現れた。
「何をしているんですか? 朔也さん」
「わっ!」
私は慌ててスマホを背後に隠したが、恥ずかしさのあまり顔が燃え上がるほど熱くなった。
「えっと……えーっと、ごはん、の準備を……」
いい大人がにやにやしながら浴衣姿を自撮りしているのだ。他人が見たら心底気持ち悪い構図に違いない。
どう言いわけをしても恥ずかしい。
私はまともに彼の顔を見ることができず、視線をそらしたままゆっくりとキッチンへ体を向けた。
「朔也さん、どうしたんですか? その格好」
「あ、えっと、恵美子さんが着せてくれたんです」
「似合いますね」
「え……」
どきりとして思わず振り返ると、孔明さんはにこにこしていた。
「とても素敵だと思います」
彼は一番ほしい言葉をくれた。
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