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花火が上がりはじめると、人々は立ち止まって見たりするので通行の流れが急速に滞った。
「大丈夫ですか? 朔也さん」
「はい。孔明さんは?」
訊ねると彼は少し困惑した表情で苦笑した。
「実は少し人酔いしました」
「ですよね。離れましょうか」
普段ほとんど人と会わない生活をしているのだ。いきなりこんな多くの人と接したら戸惑ってしまうに決まっている。
私たちは人の流れから離れ、草むらにずらりと並んで座っている観覧客の前を通過し、できるだけ人の少ない場所へと移動した。
そのとき、誰かが名前を呼ぶ声が聞こえて思わずそちらへ目をやった。「いっかちゃん」か、もしくは「いちかちゃん」だ。その個性的な名前はよく覚えている。しかし、そちらへ目を向けたのは私だけではなかった。
孔明さんが驚いた顔をして声のしたほうをじっと見つめている。
一花ちゃん。
理久くんの元カノで孔明さんの生徒。
しかし、名前を呼ばれた子はまだ幼稚園くらいの女の子だった。
孔明さんは私とは反対側に顔を背けた。だからその表情は私の角度からは見えない。
「孔明さん?」
「知り合いに似た名前だったので、つい」
彼は人違いだと言った。
私の気のせいなのかもしれないが、彼の声のトーンにやや乱れがあったように感じた。そこには焦りと驚きといった感情が込められていた。
私は何か余計なことを口走りそうな気がしたので、代わりに綿あめを口にした。
「少し遠くなりますが、人のいない場所まで移動しましょうか」
孔明さんの提案に私は「はい」と頷いた。
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