5、境界線を越えた夜

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 いつもの匂いがする。これは私と同じ匂いだ。  毎日私が洗濯している衣類と、少しだけ汗の混じった匂い。けれども嫌な感じがしないのは清潔にしているからだよね。  目が覚めたとき、私は「ふふっ」と声に出して笑ってしまった。 「朔也さん」  と顔の近くでささやくような声がした。  私は目の前にある彼の胸元に手をやって額を押しつけた。まだ眠気でまどろんでいるのと、もしかしたら酔いがまわった状態だからなのかもしれない。私は遠慮なく彼の素肌に触れているのだ。  それに対し、彼はまったく動じることもなく、私の行動を受け入れている。 「いい匂い。ちゃんと毎日お風呂に入っているのね」 「あなたに忠告を受けたことはきちんと守っています」 「律儀な人ね」 「嫌われたくないので」 「え……」  見上げるとすぐそこに孔明さんの顔があった。いつもと違うように見えるのは眼鏡を外しているからかもしれない。それとも私が酷く酔っているからだろうか。  綺麗な顔だなあと思った。 「朔也さんに嫌われてしまったら、おいしいご飯が食べられなくなりますからね」  孔明さんの静かに笑う声とひそやかな息遣いが私の感覚をくすぐった。  少しばかり視線をずらすと、彼の背後にある細長い照明(ちょうちん)が目に入った。先ほどと違って見えるのは、赤紫の蝶は静かに箱の中に収まっているということだ。  そうだ、きっと心地いいからそこにいるのだろう。  無理やり閉じ込められていると逃げ出したくなってしまうのは自由を奪われていることを体が記憶(おぼ)えているからだ。  けれど、自由であることを保障されているのならば、その作用は真逆に働く。  私は今、目の前の彼に、閉じ込められたいと、強く思った。
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