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10
氷室に相談があると田中澪に呼び出されたのは、文化祭の三日前のことだった。
公園の中に古城の内堀があって、赤く塗られた小橋がある。小橋を渡ると護国神社の裏手の小道に出る。そこには片付ける人もいない、枯葉が堆積していた。二人が歩くにつれて、足元でカサカサ鳴った。誰も来ない。
告白だ。氷室の頭で囁く声がする。これはチャンスかもと考えるほど、氷室は腹の辺りが重くなり、痛くさえなってきた。彼は上手く喋れなくて、無口になる。田中澪も今日は言葉が少なかった。彼女、つまらないんじゃないか。何か話さなければ。そう思うほど、氷室の舌は固まったように動かなくなる。
緊張で締め上げられるような胸の底から、不安が湧き上がってくる。告白だって? こんな自分が好かれるはずない。醜くて弱い自分を見せたくないから、インターハイで逃げた自分を見せないように、人から離れて、ごまかして生きている。そんな自分を彼女に知られたくない。
でも、彼女には、田中さんにだけは聞いてもらいたい。そして、大丈夫よ、と言ってほしい。懺悔したいんだ。しかし、その勇気はなかなか出ない。
いつしか二人の会話は途切れていた。仕方なく氷室は切り出した。
「……ところで相談があるんだっけ?」
「うん……」
彼女も喋りづらそうだった。まさか、彼女から告白。まさか、まさか。
「誰にも話したことないんだけど……わたし、〇〇大学の医学部に進学したいんだ。どうしたらいいと思う?」
全く予想外の質問に氷室の頭はついていけなくなる。県外の○○大学の医学部は有名で、偏差値もかなり高かったような覚えがある。
「それは……勉強するしかないんじゃないかな」
「うん、それはわかってる。わたしの成績で、〇〇大学医学部に合格しようと思ったら、寝る間も惜しんで勉強しなくちゃ。でも、最後にみんなと何かできる文化祭も大事にしたいし、部活もあるし、他にもしたいことが沢山ある。目移りして集中できない……どうしたら氷室くんみたいに、一つ一つのことに集中して結果を出せるか、教えてほしいんだ」
「ぼくが?」
氷室は心底驚いて聞き返した。
「ぼくのどこが集中しているって?」
「氷室くんは山岳部でインターハイの全国大会に出場するという成果を上げて、ぱっと辞めた。受験に集中するためなんでしょ? みんなそう言っている」
氷室は驚きながら、だんだん腹が立ってきた。
クラスメイトたちは自分のことを、そんな風に見ていたのか。徹底して関わりを避けていたから、わからなかった。ぼくがどんな思いで部活を辞め、日々過ごしてきたのか、誰も気づきもしない。目の前の、この優しそうな少女も含めて。
「……そんなことない」
「隠さないで。正直に言ってよ。私たち友達でしょ?」
彼女の言葉に、氷室は熱いものがこみ上げた。
「友達じゃない!」
彼は、隣を歩いていた田中澪の両肩をつかむと、凶暴な気持ちに駆られるまま、唇を彼女の唇に押し当てた。痛いほどの圧力をこめて。彼の手の中で、彼女の身体が固まるのを感じた。キスってこんな感じなのか、と氷室が思った時、彼女は身をよじって離れた。
彼女の目が大きく見開かれ、口の端が震えている。二人の視線がぶつかった。
「これが、ぼくの気持ち。ずっとこうしたかった……」
「最低!」
叫ぶと、田中澪は駆け出して行った。並木道の先に彼女の姿が消えて、氷室はようやく我に返った。
ああ、何てことしてしまったんだ。彼女を傷つけた。嫌われた。こんなはずじゃなかったのに。彼は、このまま枯葉交じりの泥道の中に沈みこんでしまいたかった。
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