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6
それから氷室は田中澪のことばかり考えてしまうようになった。彼女のことは他の誰よりも早く気づく。姿が眼に入ると視線が吸い寄せられる。そして、また話しかけてくれないかと考える。
彼女はなぜ、ぼくのことを気にかけてくれたんだろう? 氷室は不思議だった。部活を辞めたこと以外、誰にもわからないように、悩みを隠してきたのに。でも、田中澪に「大丈夫?」って訊かれた時、ぼくの心臓にそっと触れられたような気がしたんだ。
あの時のことを何度思い出してもドキドキする。校内でも彼女の姿を無意識のうちに探してしまう。家に帰っても面影が頭から離れない。イメージが鮮明でなくて苛々する。まるで「田中澪欠乏症」にかかったみたい。この症状には覚えがあった。恋だ。彼女のことが好きになってしまったらしい。そう結論づけるしかない。
彼女もぼくのことを好きだったら……そんなことはありえないけど、あの時のような、心と心が近づく瞬間をまた味わいたい。
いい気なものだ。氷室の心のどこか暗いところが呟いた。お前が、あんないい子に好かれるどころか、関心を持ってもらえると、想像する資格すらない。
山岳部をみっともなく辞め、勉強も手につかず、やらねばならないことから逃避している。来年受験と言ったって、どこの大学に行こうかという目標もない。これから先のことを考えようとすると、真黒なシャッターが下りてきて、氷室は考えるのを止めた。
夏が終わって、自分は変わってしまった。自分を支えていた背骨がなくなってしまったようだ。心の中の透明できれいなものが、どこにも見当たらない。夏までの自分は、やりたいこと好きなことがはっきりとあって、それに集中できた。頑張れた。
今はできない。何もかも変わってしまった。夏のインターハイが終わった後は。
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