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 氷室健介は、授業が終わるやいなや、すぐに教科書やノートを鞄に入れた。教室を出た。クラスメイトはまだおしゃべりしたり、部活へと廊下を急いだりしている。放課後の喧騒の中、彼は、誰からも話しかけられることもなく、話しかけることもなく、歩いた。彼は一人だった。突き当りの出口から入ってくる光が暗い廊下に反射してくる。  高校の校門を出て少し歩き、陸橋を渉ると公園がある。水堀に囲まれた古い城跡が、そのまま市の公園になっている。桜の木がお堀端に並んでいるが、木々は緑が生い茂っている。氷室健介は、桜の満開の時も、彼は舞い散る時も見てきた。公園は低い丘になっていて、土に木の角材を埋めこんだ階段を踏みしめながら、健介は公園に入っていく。頭上で枝が緑のアーチを描いている。  実は健介は電車通学で、校門のすぐ前にある駅から自宅の近くの駅まで電車で帰ることができた。だから公園は必要な通学路から外れた、完全な寄り道だった。公園を横断して、さらに歩くと、次の駅前の街に出る。  今や部活も辞めてしまい、時間のある健介が向かう先は、公園の中の市立図書館だった。緑の木々に囲まれた芝生の広場を抜け、砂利の感触を踏みしめながら遊歩道を歩き、動物園の跡地を横目に通り過ぎていくと、図書館が市民ホールの隣にひっそりとあった。  市立図書館はひどく古く、そして狭かった。市は十数万人の人口があり、県では第二の都市であるのに、図書館はこんなに小さい。だから本がびっしりと詰まった棚が、天井から廊下まで埋めつくしていて、通路は一人しか歩けなくなっているほどだった。閲覧用のスペースなどわずかしかない。運よく今日は空きがあった。健介は鞄を下ろして席をキープする。読書机の目の前が大きなガラス窓で、堀の水がよく見えた。満々とたたえられた堀の水の色は、濁ったエメラルドグリーンだった。  今日は何を読もうか。勉強に役立つコーナーを外れて、小説のエリアへ。黒い背表紙の文学全集。一冊抜き取ってみる。セリーヌ「夜の果ての旅」。ぶ厚く、手に重い。読む気力が涌かない。  好きな読書でさえ、これではな。健介はひとりごちた。最近、何もやる気が起きない。結局読んだのは、暗い色のカバーがかかったSFだった。終戦直後の日本、混乱した世相の中、滅ぶことを目的としてひっそりと生きてきた超能力者集団と、この世の全ての悲惨を救おうとする圧倒的な超能力者との暗闘を描く作品だ。無頼、という言葉の意味を初めて実感した、と健介は思った。文学的と感じた。  健介は、図書館の閲覧机に座って小説を読み続けた。現実から逃避するように。彼の机の目の前のガラス越しに、外に広がるお堀の水が段々暗くなっていき、本を読む健介も黒いシルエットになっていく。色彩を失って。
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