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第1話
熱狂的なオーディエンスの歓声を背中に、多聞はステージを後にした。
全国ツアーのセミファイナルステージ。
武道館でのラスト2日分のチケットは完売しており、それを裏付けるように会場の盛り上がりは最高潮だった。
そのステージを、自分でも納得がいく出来映えで終わらせた満足感と共に、多聞は準備されている黒のリムジンに乗り込むと、まだ彼を求めてアンコールを繰り返している会場を離れた。
「御苦労様でした。今夜も、素晴らしいステージでしたね」
汗を拭ったタオルを受け取り、着替えを差し出すマネージャーの言葉に、多聞は当然といった顔で返事すらしない。
「明日のリハーサル、何時から?」
「えっとですね、昼食の後から予定して…」
「なんで? ツアーの最終日だっつーのに、朝からリハ入れてねェの? まさか、バンドの誰かの都合が悪いとか、ふざけた理由じゃねェだろうな?」
今夜のテンションをそのまま明日にまで持ち越すつもりでいた多聞は、マネージャーの言葉が終わらないうちに、噛みつくように言葉を返した。
「いえ、メンバーは午前中から音合わせと、それからステージリハをしています。多聞さんだけが、明日は家庭裁判所に呼び出されてますから…」
慌てて首を振るマネージャーの口から出たその名称に、多聞はますます上機嫌に言葉を返した。
「家裁? もしかして、巧実とのアレ?」
離婚争議中の妻の名前が苦々しい。
「はい」
「そんなの代理人に任せとけばいいじゃん」
「そういうワケにもいきませんから…」
「オマエ、解ってんの? 俺は明日、ツアーのファイナルステージなんだぜ? そんなトコに行って、テンションが落ちたらどうしてくれるんだよ」
「でもこれは家裁からの正式な呼び出しなんです。ご本人が出頭しないと、場合によっては法廷侮辱罪などにもされかねませんから…」
「もういい」
多聞の剣幕にも折れる気配のないマネージャーの態度から、どうやら今回は自分のワガママが通らない事を悟った多聞は、黙り込んで顔を窓の外へと向けた。
車内に、酷く気まずい沈黙が流れる。
音楽業界において、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの多聞は、時代の寵児といえる。
自身の活動はもちろん、彼がプロデュースを手がければ、例え音感の欠片も持ち合わせていないドシロウトでさえも、ヒットチャートの上位に昇る事が出来た。
そうした王者たる者特有の身勝手さを、彼は兼ね備えていた。
「おい」
しばらく窓の外に目をやっていた多聞が、不意に振り返る。
重い沈黙に、忍の一字で絶えていたマネージャーは、即座に顔を上げた。
「なんでしょう?」
「今夜、俺の部屋にマイちゃん寄越してくんない?」
多聞の一言に、マネージャーは顔を強張らせた。
「あの、永倉嬢をですか?」
売り出し中の若い女性ヴォーカルの名前を確認するように復唱すると、多聞はなんの躊躇もなく頷いてみせる。
「ああ、そうだよ」
「しかし、向こうのスケジュールも解りませんし、それに…」
言いかけたマネージャーの鼻先に、多聞の長い指が突き出された。
「俺は明日、正義の味方気取りの弁護士センセイやら、フェミニストの判事やらを相手に、戦わなきゃならないんだぜ? 鋭気を養ったおきたい気持ちは、ニブいオマエにだって解るだろ? それともこの不況時に、続けられる筈の仕事なくすようなバカな真似してェのか? あっちだって、今度のプロデュースの仕事を流す気はねェだろうし、その辺わきまえればそんな台詞出てこないんじゃないの?」
意地悪く口の端を歪める多聞に対して、マネージャーは何も言えなかった。
こうした彼の要求をはねのけたマネージャーが、そのまま仕事を失ったなどという話なら、いくらでも聞いている。もちろんこの場合の「職を失った…という言葉は、そのまま「この業界での働き口を無くした…という意味をも備え持つ。
仕方が無く、彼は携帯している電話を取り出すと、多聞が指名してきた女性ヴォーカルの予定を確認した。
用件を話し終えて電話を切ったマネージャーは、ひどく困窮した様子で多聞の方へと振り返る。
「あの、先方の予定がですね…、その、現在関西の方でプロモーション活動中でして…」
「で?」
多聞の眉がピクリと上がり、てきめんに機嫌の悪くなった顔で先を促してくる。
「今夜これからこちらに戻るのは、時間的に不可能かと…」
「もう、いい」
吐き捨てるように一言放って、多聞は運転席と後部シートを仕切っている窓をノックした。
「止めろ」
ボディガードを兼ねた運転手に告げ、停止したリムジンの扉を開く。
不意に車から人が降り立った事で、後続の車はかなりの急ハンドルを切りながら、クラクションを大きく鳴らした。
「多聞さんっ!」
「うるせェな。そっちが用意出来ないんなら、こっちで勝手に気晴らしの方法見つけるしかねェだろ。明日、時間までに家裁に行きゃ問題ねェだろが」
「しかし…っ」
まだ何かを言い続けているマネージャーを無視して多聞は扉を閉めると、タイミングを見計らってさっさと道路の向こう側へと走り去る。
慌てて降り立ったマネージャーは、再び動き始めてしまった車の流れに阻まれて、後を追う事が出来なかった。
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