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山を降り学校に通う、そんな日々を繰り返す中でと或る親子が引っ越して来たという。
「山を下る最中に何度か目にした事があります。都心の方から越して来たという快活な父親の笑顔は山の住民をいとも簡単に打ち解けさせ、評判でした。ある時娘がいると知ります。12になるという彼女は人見知りで人前に出たがらず困ったものだ、と彼は言っていました。大きな身体をした人です。木樵の仕事をする広い背中が印象的でした。住民もまた、彼に助けられていました。必要な食材や木材を分け与えてくれる彼を神か何かと惑い、崇めていたのかもしれません。だからこそ、彼の笑顔の裏の異様を、知っていて目を瞑っていた」
「…、」
「閉塞された山奥のロッジに住む12歳の娘が一度も外に出なかったのは、彼が彼女に虐待を行っていたからです。それを、山奥の住民皆が黙認していた」
父を殺した人間を、探している。
幼少期、同じ家に住み、早くに亡くなった母の代わりに男手一つで育ててくれた父のことだ。近所でも心優しく人がいいことで有名だった。いつも笑顔だった。大きな手のひらで、その大きな身体で。斧を持ち、木樵の仕事をする広い背中を家の中からいつも見ていた。
周りになんの家もない、森や木で溢れた、少し街の外れにあるロッジ。その景観と、
父という法律。
———いいか、蓉麗。ロッジの表に出てはいけないよ
———お前の痣が人様に知られてはここにいられなくなってしまうからね
———ひとたび外に出て助けを乞うてごらん、
お前のその可愛らしい顔をあの斧で引き裂いて木に吊るしてやろう
———今度は骨を折るだけじゃ済まないからな
いいか? 蓉麗
返事をしろ
俺の言うことを聞け
逃げられると思うなよ
「骨が折れました。ガタイでは到底敵わないので、寝静まっている時にその家のロッジに潜り込んで彼の仕事道具で殺そうと目論んでいましたが、彼が休暇と称して昼下がりの午後にうたた寝する時間を私は知っていました。
その日は曇天で、木に吊り下げたハンモックに横たえている彼に向かい斧を振り下ろした。胸を穿ち、暇もつかせず首に振り下ろしたら太い彼の首に斧が刺さりました。血を流しながら逃げ惑う最中追いかけていると彼が脚を踏み外して崖下に落下した。
その下は道路で、車が走行していました。白のセダンに赤が飛び散ったあの光景を、今日まで夢に見なかった日はない。家族が乗っていました。父と母と、息子の三人家族。落下した男により車体がへしゃげ、即死だった」
「………」
「これが、4人を殺めた私の動機です」
もう、視界はあふれた涙で見えなかった。
霞んだ視野の中を、翡翠が歩行する。
収監室の中を白い脚で、ゆったりと、光を乞いながら。
「思いがけず、というのは」
「…」
「実に、便利な言葉ですが。万能ではない。事実、思いがけず人を殺してしまったというのは存在しません。実際に人を手にかけたからわかるのです。殺そうという意志を以って初めて殺人は成立する。欠かせないのは意志と、捨てるべきは躊躇。風の噂です、〝父親を殺した犯人を探している女性刑務官がいる〟と小耳に挟んだのは。あの感覚を握って地下街に逃げて、捕まっても渡り歩いたのは、その少女を探していたから、というと、少しはロマンがあると思いませんか」
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