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いつでも、声は頭の後ろを通り過ぎた。
「ここテストに出るぞ(どうせ、勉強しないんだろうけど)」
「めっちゃかわいいんだけど(似合ってねえよ)」
「あいつうざいよね(お前もな)」
授業も色恋もいじめも、何もかもが風みたいに通りすぎる。言葉と裏腹の思いをのせて。わたしの頭はクシも通さないボサボサ髪。竜巻や突風でも効果なし。どんな言葉でもやり過ごせる。
そんなことより大切なのはほっぺただ。机の天板に顔をべったり貼りつける。まずは右、そして左。冷たくて気持ちがいい。
毎日、誰よりも早く学校に来るし、誰よりも遅くまで残る。窓際の一番後ろの席なので掃除の邪魔にもならない。移動教室は、移動しなくても意外とどうにかなる。
体育の先生だけが、週一で声を掛けにくる。窓の外では、ランニングの掛け声。
「寝てるの?」
淋しそうな声を頭の後ろに振りかけるが、言葉はわたしの髪の中でくしゃくしゃになる。
「そう……また来るね」
言い残して去っていく先生。顔を見たことはないが、先生の誠実な声は、聞いていて心地いい。あまりにもあっさり消えてしまうので、もう少し頑張れよと思ったりする。
外のランニングの声が、先生を歓迎する声に掻き消された。体育の先生は誠実さを使って、うまくやっているらしい。
わたしは、うまくやることができなかった。
イメージと欲望の押し付け、裏の意味ばかり豊かな言葉のやりとり――そういうものと、折り合いをつけられなかった。
机の冷たさは救いだった。どんなに冷たくても、わたしをわたしのままでいさせてくれたから。
ある日、机の真ん中に二等辺三角形の窪みができていた。
誰もこの机には触れない以上、できていたと言うしかない。
廊下から声が聞こえてくる。陸上部の朝練だ。慌てたわたしはそのまま机に突っ伏した。
そのまま、まっすぐに、突っ伏した。
ガラスの靴のように、窪みに鼻がぴたりとはまる。両のほっぺたが同時に感じる冷たさに、全身の肌という肌をすべて机で包まれているような気分になった。
「顔、めり込んでない?(頭、フケだらけじゃん)」
「進路調査、明日締め切りだぞ(どうせ何も考えてないだろうけど)」
「小テスト、ノー勉だよ(こいつ再試に呼ばれないのずるい)」
波を立てながら風が通り過ぎる。わたしの髪はそよともしない。さよならの号令。凪ぐ。
窓際の席は西日が暖かい。放課後の教室の居心地良さを、みんなは知らない。陸上部の人が帰る声を聞いて顔を上げると、窪みには水が溜まっていた。
わたしは机をひっくり返した。
みんなが下校した後の校舎は、ネット動画で見たレトロゲームみたい。警備員の動きを読んで、見つからないように階を移動していく。警備員は決まった経路でチェックポイントを通るので、パターンを覚えてしまえば絶対に勝てる。
水曜日の警備員だけは階ごとではなく、校舎の端から順にチェックする。だから、昇降口の真上、四階にある美術室は後回しになる。
鍵のかかった扉の小窓から中を覗く。作りかけの作品が棚に並ぶ。まだ何ものにもなっていない塊たち……。学校は生徒を何かにしたがるが、美術室の中だけはいつでも自由だ。
壁には作品が飾られているが、いくつかは完成品にとても見えない。そんな中に、真っ白なお面があった。作品名には「ライフマスク」と書かれている。誰かの顔から型を取って作ったのだろうか。はじめは無表情に見えたのに、次第に微笑めいたものが浮かんできた。こっちまで頬がゆるむ。
昔は、あんな風に笑えたのだ。一歩下がって小窓に映った顔を見ると、怒りを泣き顔で上塗りしたような顔をしている。
「あれはあなたの顔でしょう」
突然、頭の後ろから声が聞こえた。振り返るが、そこにあるのは真っ暗な廊下だけ。警備員も誰もいない。
「あなたの顔でしょう」
すぐ後ろだ。髪の中に何かいる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
念仏みたいに繰り返しながら、髪の毛を掻きむしってみるが、指には何も引っ掛からない。階段を駆け下りて、学校を飛び出した。家に帰ってハサミを手にシャワーを浴びる。刃がジョキリと音を立てるたび、排水口に黒々とした塊が膨らんでいく。
髪の毛があらかたなくなった時、鞄を置いてきたことに気がついた。
翌朝、ひっくり返った机の横に鞄が置かれていた。
警備員だ。
中の生徒手帳を見たのだ。深く息を吐きながら机を起こすと、天板には顔が彫られていた。
「あなたの顔でしょう」
誰もいない。髪は切った。声は聞こえないはず。
天板の顔と向き合う。木目で歪んだ表情からは意味を汲み取れない。
ライフマスクのことが思い浮かぶ。あれは本当に微笑だったのだろうか。型を取られる人が、微笑みなど浮かべていられるものだろうか。苛立ちと絶望を表現したはずの石膏が、何かの力で歪められてしまっただけなのではないだろうか。
そう思ったとたん、ほっぺたはどうしようもなく天板を求め、抗う気のないわたしは机に顔をうずめた。天板は肌に吸いつき、冷たさよりも温かみを感じさせた。わたしが今、どんな顔になっているか分からないが、心は妙に静かだ。
「何笑ってんの(気持ち悪い)」
目を開けると、陸上部の人たちが朝練の準備をしていた――その様子が、はっきり見える。机に守られていたはずの顔が、人目にさらされてしまっている。
慌てて机に顔を隠そうとして、鼻を思いきりぶつけた。天板には、顔の形も鼻の窪みもなくなっている。
「やだ、大丈夫? 鼻血、出てない?(教室、汚さないでよ)」
手を当てるが、鼻の下には何も垂れていない。
「陸上部、早くして!」廊下から威圧的な声が近づいてくる。扉が開く。「あなたたちも早く……」
陸上部の顧問はわたしの方を見て、まばたきをきっかり三回した。
「早く行きなさい」
声色が変わった。穏やかで心地よい、誠実な声――体育の先生だった。
初めて見るその顔は、驚きを微笑みで塗りこめたような、ちぐはぐな表情を浮かべている。
「またあとでね」
「髪型、似合ってるよ」
陸上部の人たちの言葉がわたしのほっぺたを打った。その言葉は、机よりもずっと冷たくて気持ちがいい。天板は静かにわたしの反応を眺めている。
彼女たちが部屋から出ると、先生が歩み寄ってきた。そのまま、窓際に立って振り返った先生の表情は、陰の中に沈んで消えた。突然、死角から伸びてきた両手が、わたしのほっぺたを挟みこむ。真っ黒の顔が、ゆっくりとこう言った。
「それがあなたの顔なの」
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