忘れた、恋の処方箋

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 端的に言って、これは非常にまずい事態だと、頭の中でぐわんぐわんと鐘が鳴り響いていた。 「やややり逃げって言い方はどうかと思うわ……!」  とっさの機転でしゃがみ込んで、拘束から逃れることには成功した。  そのまま床を這ってルドルフから遠ざかる。  腰が抜けて思うように進まないのがもどかしい。それに入り口を固められているので、ラウラに逃げ場はない。  ルドルフは恐ろしいほど冷静な視線でラウラを追っている。容赦する気がないのだと察するのはあまりに簡単で、もう身の危険しか思い浮かばない。  旅の道中同じ部屋で寝起きしても大丈夫だったのは、ルドルフが手を出すほど好きじゃないと最初に言ったからだ。  こんなにはっきりと態度をひるがえされたら、さすがのラウラも正気でいられるわけがなかった。 「ではさっきのはなんだ」  追いつめられて、ひい、とラウラは小さく悲鳴を上げる。  なんてことを聞くのだろう。そんなの……答えられるわけがないのに。  背を向けていてもルドルフの目が自分を捕らえているのがわかって、熱視線から逃れたいあまりに、ラウラは無我夢中で近場に身を隠した。 「おまえは時々ほんとに……ばかだな」  心底あきれた声に、ラウラは自分の今の状況を悟った。  彼女はこの部屋に敷かれた寝具に潜り込んでいたのである。  あっさりと掛け布団をはぎとられ、視界が明るくなったと思った瞬間にはもう両手をシーツの上に縫い止められている。  あまりの早業に泣きたい。  羞恥と混乱で真っ赤になった涙目のラウラを目にしたルドルフは、目元を赤らめて顔を背けると、 「これはかなりくるな。まずい」 と不穏な言葉をつぶやいた。奇しくもラウラも同じ心境だ。 「はははな」  放してと言いたいのに舌がうまく回らない。 「話をしようと思っただけだったが、これもありか……」  断じて、いやないでしょ!と言いたい。 「クリフが!となりの部屋にいますっ」  平常心を取り戻してもらいたいととっさに口をついて出たのは、壁の薄いこの部屋のとなりで養生している彼の護衛騎士の名前である。 「知らないのか。クリフはおれの命令ならなんでも聞く。黙ってろといえば済むから問題ない」 「ある!あるから!」  余談であるがこの瞬間クリフは目覚めていて、身動きできない我が身を呪っている。が、賢明にも寝たふりで腹心の鏡を貫いていた。 「聞かせてくれ、ラウラ。おまえが好きな男はだれだ」  ラウラは息をのんだ。 「叔父上か?それともバートという男か?」  いまさら言えようはずもない答えを求めて、じっとラウラの瞳をのぞき込んでくる顔の凶器に、心臓をぎゅっとしぼりあげられた。 「い」 「……い?」 「言ったって」  ラウラが目を閉じると、まなじりからひとすじ涙が流れ落ちた。 「……どうにもならない」  男の前で目を閉じるな、と言われたことを思い出す。その理由を今のラウラはもう知っている。  次の瞬間、文字通りラウラは呼吸を止められた。  一度目は強く押しつけられるだけの荒々しいもので、二度目はなでるように唇をなめられ、くすぐったくて薄く開いた口の中はあっという間に彼の熱で満たされた。  触れるだけがキスだと思っていたなんて自分は愚かだったと、そう思わせるほどに責め苦は続いた。  息ができない……気が遠くなる。  気がつくとルドルフの手がぺちぺちとラウラの頬を叩いていた。  ……どうやら気を失いかけていたらしい。 「息をしろ。勝手に死ぬな」  ルドルフの声は、身じろぎするほど甘くて、いっそ気を失っておけばよかったと、ラウラは一瞬思ったのだった。
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