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雨夜の訪問者
(雨が強くなってきたな)
壁の上の方にある小さな明かり取りの窓から、暗闇の中を走る無数の細い線が見える。土砂降りではないがひどくぬれることがわかる雨だ。サァサァと聞こえる音に、マドロックは耳を澄ませた。ひどく静かな夜だった。
室内を照らすランプは、彼の手元を照らすひとつだけだ。
月のある夜ならまだしも、このまま作業を続けるにはたよりない。
今日はもう帰ろうか、もうひとつランプをつけようか。
数舜悩んだ彼の耳に、雨の音以外の音が聞こえたのはその時だった。
カチャリと小さくノブが回る音。
この部屋のドアノブは旧式の丸ノブで、手で握りこんで押しまわして開けるタイプなので、両手に荷物を抱えていると開けるのが面倒だ。だから人が出入りすることの多い昼間は開け放たれていることが多いのだが、もう今は夜。この研究室にはマドロックしかいないので閉めきっていたのだ。
隙間があくにつれ、廊下の非常灯の明かりが部屋にいやにゆっくりと広がってゆく。
訪問者がこの部屋に入ることをためらっているかのように。
やっと人一人が通れるぐらいの隙間があいて、
「錬金術師のマドロック様はいらっしゃいますか?」
と女の声がする。開けるのはおそるおそるだったくせに、その声は意外としっかりした意思を持っている。
「それは私のことだが、君は誰だ」
「よかった。もう帰ってしまったかと思ったので」
今度はぐっと大きく戸が開かれる。どうやら薄暗い室内の様子に、誰もいないのかと遠慮してゆっくりのぞこうとしたようだ。もっとも彼が不在の折にはこの部屋は必ず施錠される。ここには危険なものが多数あるのだから。
現れたのは薄紅色の髪をしていて、きれいな緑玉色の瞳の女だった。
着衣はシンプルで装飾の少ないドレスだが、下働きのそれではなく貴族令嬢のものだったからマドロックは眉を寄せる。
「あの。お願いがあってきたんですけど」
「待て。入るな」
室内に足を踏み入れようとする女を鋭く制止すると、女がびくっと動きを止めた。
「……君は傘もささずに来たのか?」
彼女は頭のてっぺんから足元までずぶぬれだったのだ。
「拭くものを持ってくるから待っていろ」
マドロックの言葉に、女は大きな目をぱちぱちさせて自分の体を見下ろした。そこで自分がどれだけ水を滴らせているか気づいたらしい。
「そういえば外は雨でした」
ずいぶんとのんきに言うので、マドロックはこの女の来意がろくでもないことじゃなければいいが、と内心溜息をつく。
入口に女をたたせたままで奥の調合室に入ると、目当てのものを探す。
しかし毒々しい液体が付着したものや、クシャクシャに丸めてほこりだらけのものしか見つからない。さすがにこれで顔を拭くのはいやだろう。助手のピクスがいればすぐに用意してくれただろうが、今日はもう帰宅している。
(しかたない)
マドロックは探すのをあきらめ、調合室のさらに奥の隠し部屋に入る。
そこから仮眠用ベッドのシーツをひきはがし、少し考えて、壁につるしてあった調合用の白衣も手に取った。
研究室に戻ると、女は入り口で自分の両肩を抱き込みがたがたと震えていた。手間取ったせいで少し待たせすぎたかもしれない。
「うー、寒いです。着替えを持ってくればよかった」
「どうせ持ってくるなら傘を持ってこい」
女の頭にシーツをかぶせ、がしゃがしゃと拭くと、「いたた」と身動きした女がシーツをかき分け顔を出した。
背丈はマドロックより頭一つ分下の位置。マドロックのせいでぐしゃぐしゃに乱れていたが、薄紅色の髪の毛はつやがあって目を見張るほど上品な色だった。
見上げてくる緑玉色の瞳は宝石のようなすんだ色で大きく、少しつり上がり気味の猫のような目だ。化粧っ気のない肌は青白いのに、唇だけは髪に似たピンク色をしていた。
「ありがとうございます。自分でやります」
「ぬれた服のままでは風邪をひく。こんなものしかなくて悪いが乾くまで我慢しろ」
白衣を応接用のソファの背にかけると、女が不思議そうに、
「乾くまで?……あとでお洗濯して返しますからお借りして帰っていいですか」
という。
「君は下着もつけずに白衣だけで帰るつもりか?別に止めやしないが、家のものがびっくりするぞ」
「ええ!?下着は脱ぎませんから!っていうかこんな雨の日にどうやって乾かすんですか」
「……ここは錬金術師の庵だぞ。一刻もあれば乾くからぬれているものはすべて脱げ」
「年頃の娘に下着まで脱げって……」
顔を赤くしながらも、女がシーツの中でもぞもぞと服を脱ぎだしたので、マドロックはその場から離れ、再び調合室に戻った。
(なんだか調子の狂う女だ)
文句を言いつつも結局言われた通りにしている。
脱げと言ったのは自分だが、少し警戒心というものに乏しい気がする。
貞操という言葉は知っていても。自分が男にそういう目で見られることをまるで想定していないかのような。もちろんマドロックにそんなつもりはなかったのだが。
(右の公爵家の娘か?確か第二王子の婚約者に内定していたはずだが、例の一件で婚約を解消されたのだったな)
この国、ラルーシュ国は、王家と二つの公爵家によって牛耳られている。
フラベール公爵家、トランシェ公爵家。
公爵家は、国内の情勢や要望を加味し法案を立案する。
もう一方の公爵家はその立案を審査し場合によっては差し戻す。
この二家の承認をもってして、草案を王へと奏上し、王が裁可を下したとき立案となる。ゆえにこの国の立法にかかわる公爵家は大変な名門なのだ。
王をはさんで、右の公爵家、左の公爵家と言われている。
左の公爵と呼ばれるトランシェ家には息子が二人で娘はいない。
右の公爵と呼ばれるフラベール家には娘とその下に息子が一人ずついる。
第一王子は他国から王女を迎えることが決まっているが、第二王子は、将来の王の補佐の役を担うため国内の有力貴族から嫁をとるのが慣習だ。
現在の公爵家に娘がひとりいるため、内々にだがフラベール家の令嬢が第二王子の伴侶とうわさされていた。
しかし、それは数日前に起きたある事件により白紙になったはずだ。
その令嬢が、こんな雨の中マドロックを訪問してきた。
政治とは切り離されている、王立研究院の錬金術師のもとに何の用があるのか。
冷えた体を温めるためのお茶を、調合室で手早く淹れたマドロックは、そこらへんに転がっていたカップをそこらへんの布で軽くぬぐって、適当にそそぐ。ピクスがいれば来客用のカップの所在もわかるが、今はいないので仕方ない。
研究室に戻ると、女はすでに白衣を身に着けていた。
使ったシーツは四角く折りたたんであった。
マドロックの身長に合わせた白衣は、女が着ると足首まで覆い隠していた。薄紅色の髪は腰のあたりまで垂れている。
「ぬれた服を乾かすから持ってこい」
マドロックは応接のテーブルにカップを置くと、調合室をあごでさした。
「……わたしが入ってもいいのですか」
「君は自分の下着を男に持たせて平気なのか?」
冷たく言えば、女はきょとんとした。
「あ、ソウデスネ」
青白い頬に少し赤みがさしているところを見ると、まんざら羞恥心がないわけでもないようだ。マドロックはくっと笑った。女は彼の笑みに驚いた表情をして、うつむくと黙ってついてきた。
「このなかに入れろ。いっとくが乾かすだけで洗濯するわけではないからな」
「わぁ!これが錬金術師の使う大釜ですか!」
俗にコールドロンと呼ばれる大釜が、調合室に大中小三つある。
そのうちの中くらいの窯の中におそるおそるぐっしょり濡れた服をいれて、興味深そうにのぞき込んでいた女は、ふとマドロックを見上げる。
「あの絞ったりしなくて平気ですか?けっこうぐっしょりだったんですけど」
「問題ない。むしろ水分があった方が渇きやすい」
「……?」
「ぬれた服を凍らせる。凍ったら……」
娘のペースに乗せられて説明しかけて、マドロックは口をつぐんだ。
(部外者になにを説明しようとしてるんだ)
普段であればしないことをしようとしている自分に驚いて女を見下ろせば、彼女は緑玉色の目をまん丸くして輝かせている。
「凍らせるのですか!氷を取り除けば乾くのが早いのですね!」
「ここから先は部外者に見せるわけにはいかない。向こうで茶を飲んで待ってろ」
「……みてちゃダメなのですか」
マドロックがじろっとにらむと彼女はぴぃっと叫んで、それでもなごりおしそうに出ていく。マドロックはため息をついた。
(……今夜はどうかしている)
研究室に戻ると、ソファにちょこんと腰掛けた女が両手でカップを包み込むようにしていた。
室内のランプを二つ灯すと、お茶でぬくもったのか彼女の頬から青白さが消えているのがわかった。
「これただのお茶じゃないですよね?……なんか不思議なにおいがします。やっぱり錬金術師サマのところって、変わったものがいっぱいあるんですね」
残念ながらただのお茶である。不思議なにおいは、体に無害だが調合に使ったカップに残った薬種の匂いだろう。
マドロックは少し後ろめたいものを感じながら、彼女の向かい側に腰を下ろす。
改めてみると、白衣姿という要素をのぞけば彼女には上級貴族の令嬢特有の気品があった。
カップをテーブルに戻す所作も指先一つまで洗練されていたし、ほっそりした手首や肌の白さは、労働とは無縁であることを感じさせた。
だぼっとした白衣を着る前のぬれた体のラインも普段からコルセットで体を締め付けていたことがわかるほど華奢なウエストだった。ただし胸は小さかったので色気はまるで感じなかったが。
普段であれば、こういった訪問者は助手のピクスにまかせている。こんな非常識な訪ね方をしてくる客など「出直してこい」というところだった。
(ほんとにどうかしている)
さっさと服を返して出直せといえばいい。
そうは思うが、水分を取り除いた服はそのままでは冷たくて着られないので、温めているところである。残念ながら追い返すまで時間がある。気が進まないが話を聞くか、と口を開きかけた時、
「ご迷惑をかけた上に自己紹介もせずに申し訳ありませんでした。わたくしはフラベール公爵家の長女、ラウラといいます」
彼女の方から切り出した。
猫のように丸まっていた背筋を伸ばし、まっすぐにマドロックを見つめている。
「知っている」
今王宮内で公爵家令嬢ラウラの名を知らぬものがどれだけいるのか。醜聞好きな宮廷人の間でラウラは時の人なのだ。
ここ数日の彼女の評判は散々である。
第二王子の婚約者だった頃は、彼女の周りには公爵家におもねる貴族がたくさんいたというのに、『ラウラが嫉妬のあまり恋敵を池に突き落とした』事件の後は潮が引くようにさっといなくなった。
婚約解消を言い渡されてからは、公爵家からも勘当されている。貴族の令嬢がたった一人、供もつけずこんな夜にやってくることは、普通ありえない。
しかしマドロックにはラウラが世間で言われているような嫉妬深いご令嬢には思えなかった。
確かに彼女は政略結婚の色の濃い婚約者のルドルフに、恋心を抱いていた。
彼女がルドルフに向ける甘ったるい表情は胸焼けしそうなほどだったように思う。
それに対しルドルフがしかめっ面で対応していたのも知っている。
世俗に疎い自分がその辺の事情を知っているのは、マドロックが年の離れた国王の弟だからだ。もっともこうして向かい合ってラウラと個人的に話すのは初めてのことである。
「どんな用があってここへきた。知っているだろうが、わたしは政治とは無縁の変わり者だ。王族とはいえなんの権限ももたないぞ」
「もちろん、わたくしは錬金術師としてのマドロック様に会いに来たのです」
ラウラは膝の上で重ね合わせた手をきゅっとにぎった。
つりあがり気味の目が、猫のように細められ、やがてそのまなじりからぽろりと涙がこぼれおちた。
ランプを増やしたとはいえ、明るいとはいいがたい室内で、彼女の表情は悲愴に見えた。
こんな顔をした人間を幾人も見たことがある。
その思いつめた様子にマドロックは気が重くなった。
さきほど錬金術に興味を示していた表情と対比して、痛々しく見えて仕方がない。
彼がこんな気持ちになるのは珍しいことだった。
「わたしのルドルフへの恋情を消してください……」
ラウラは苦しげな表情で、望みを告げた。
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