忘れた、恋の処方箋

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『わたしとラウラの結婚は王の勅命ですから』  そう言ったルドルフの横顔は、美しいが温度のない彫刻像のようで、ラウラはその場から動けなくなってしまったのだ。  その先を聞きたくないと思っているのに、いつだってこの耳は愛しい人の声を細大もらさず拾ってしまう。 『そうなのですか?でも結婚後に相手を好きになることもあるのではないかしら。あれだけかわいらしい人ですもの』  メイリン王女はさみしそうに笑っている。  彼女は優しい人なのだろう。だってラウラのどこをみてもそんな形容からは遠い。つり上がり気味の目は威圧感を与えるし、髪の毛だってキツい顔立ちには似合わない色だ。 『メイリン王女がお相手でしたら大抵の男は愛さずにいられないのではありませんか』  この人はなんて甘いことをささやくんだろう。……他の人には。  そんないたわるような優しい顔、どうしてメイリン王女に見せるの。  ルドルフはメイリン王女が相手だったら、きっと彼女を愛したのだろう。もしかしてすでに、と、そう思わせるほどに二人を包む空気はおだやかだった。  あの場所は自分の居場所なのに。  気がつくとかみしめた口の中に血の味が広がっていた。  いつの間にか視界の中からふたりの姿は消えている。  ぎゅっと目を閉じて、再び開けたとき、メイリン王女は苦しげに腰から下を折って咳き込んでいた。 『どうして……シャルナ』  かすれた声でメイリン王女が顔を向けた先には、青ざめた侍女がいた。  周囲にはメイリン王女の護衛の姿もあったが、彼らは王女を襲ったものがなにかわからなくてどう対処していいかとまどっているのがわかった。  でもラウラは知っている。  あの侍女がなにかの粉を王女の眼前でまき散らしたのだ。  苦しんでいるメイリン王女を前にしても心は動かなかった。  あの人がいなければルドルフをとられずにすむんじゃないかとすら。  青い顔をした侍女の唇が震えて、かすかに、ダレカタスケテと動いていた。  次の瞬間ラウラの体は勝手に飛び出していた。  突然現れたラウラを見て、護衛の騎士がはばもうとするが、 『じゃましないで!』 と一喝して、メイリン王女の腕を乱暴に引っぱりあげると、足は勝手知ったる王宮庭園の池を目指していた。  ラウラは思い切り彼女の背中を、押した。  派手な水しぶきがあがり、メイリン王女の名前を呼ぶ声が次々とあがる。すぐに護衛騎士が彼女を救うべく池に飛び込んでいった。  ラウラはがたがたと体を震わせ、愕然としていた。 (わたしはさっきメイリン王女が死んでしまえばいいと思った……)  いつの間にかその場にぺたりと座り込んでおり、地面に近い視界に足が見えてのろのろと顔を上げると、そこには自分を見下ろしている冷たいブルーの目があったのだ。 『殺すつもりだったのか……?』  どくどくと、全身が脈打っていた。  ああ、知られてしまった。自分の醜い心を、この人に。  これで彼は絶対にわたしを愛することはないだろう。  絶望が心の中に注がれて、視界がくらんだ。 『ことわる』  ラウラが望みを告げると、黒衣の錬金術師は一言のもとに切り捨てた。 『その痛みは一時的なものだ。恋心など存在証明のできない幻想にすぎない』  いかにも目の前の人がいいそうな言葉だった。ラウラは、ひどいと責めている自分の姿を俯瞰して見ていた。  雨に濡れてぺったりした髪を振り乱した女は、だってこの痛みは確かにいまここにあって幻なんかじゃないのだと叫んでいた。  他の人を好きになれる自信がない。  一生こんな思いをしなければならないの?  彼のとなりにいる女性に嫉妬するたび、わたしは誰かの死を望んでしまうかもしれないのに。  そう言ったら、あのひとはこう言ったのだ。 『もし彼のことを忘れたらきみはわたしのものになるのか』 と。  ルドルフ以外を好きになれるわけないと言い返したラウラに、マドロックは黙って手を伸ばしてきて……。  世界はそこで閉じた。  でも、そこで終わりではなかった。  とても苦しかったのよ。  関心をもたれないことよりもさげすんだように見られる方が耐えられなかった。 「誤解とはいえ辛い思いをさせて悪かったな」  髪をなでつける手つきはとてもやさしくて心地がよかったから、つい微笑んでいた。  誤解じゃない。だってほんとにあのときわたしは…… 「言わなくてもいい。わかっている。結果的にラウラはメイリン王女を救ったではないか。それがわたしにとっての真実だ」  でも、と言いかけると柔らかいもので唇を塞がれた。  心地よさに身をゆだねるようにすり寄ると相手がちょっと身を引いたので、なんでよ、とむっとしてさらにぎゅっと押しつけた。 「おまえはわたしの限界を試す気か。ほら、起きろ」  頬をむぎゅっとつねられた。  なんだ、夢かと思って目を開ける。夢じゃなかった。 「え!?なんで!?」  馬車の中でルドルフに抱きついている自分を認知して、あわてて離れる。勢い余ってごんと頭をぶつけた。 「立ち上がるばかがいるか」  はい、ここにいます、と恥じ入ってから、今度は恐ろしいくらいの身もだえに襲われた。 「い、いやぁぁ!」  叫びかけた口をあわてておさえられた。彼の大きくて温かい手が顔を覆ったことで、口から飛びだしかけていたなにかは引っ込んだ。 「この状況でおまえが悲鳴をあげると、なにやら誤解を招きそうな気がするからほんとやめてくれ」  どうやらラウラはダウニール邸からの帰りの途上の馬車の中で眠ってしまっていたらしい。ルドルフにもたれかかって。  しかも寝言で本心をさらけだすというおまけつきである。冷静になれるわけがない。  寝不足の弊害がここで襲ってくるとは。 「ごごごめんなさいっ」 「謝るな。わたしはうれしかったぞ。ラウラの方から」 「おねがいだから言わないでぇっ……」  顔を覆って、必死に体を縮こまらせていると、ルドルフが笑いながら腰の位置をずらして寄ってきた。  顔を押さえていた両手を握られて、彼の熱っぽい目にさらされたラウラは目をつぶってしまおうと思いかけて、それもまずいと逆に目をかっと見開いた。  おかげでどこにも逃げ場がなくて進退窮まった。  昨日からやけに余裕を見せはじめたルドルフは上機嫌だ。これだから顔のいい男はと心の中で毒づきたくなる。 「で、覚悟は決まったのか」  ルドルフの問いに、ラウラは 「……ええ」 と小さく答えた。
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